八重山地区教科書採択から見えてきた教科書採択制度の問題点
- 2012年 1月 2日
- 評論・紹介・意見
- 青木茂雄
2011年の中学校社会科教科書採択は、つくる会系育鵬社版の歴史・公民教科書がシェアを大きく伸ばした。その間の事情については、巨大採択地区横浜市の例を中心に昨年の11月号で報告した。今回は、八重山地区の教科書採択問題を取り上げる中で、現行の教科書採択制度の問題点について考えてみたい。
(1)八重山地区教科書採択の経過
8月23日、沖縄県石垣市・与那国町・竹富町でつくっている八重山地区採択協議会は委員の無記名投票により5対3で育鵬社の公民教科書を選定した。このニュースは全国紙でも報道され、「ついに沖縄までもか」と各方面に衝撃を与えた。
横浜市がそうであったように、八重山地区でもこうなるまでに周到に準備がなされた。2010年2月、石垣市長が保守系の中山義隆市長に代わり、玉津博克教育長が新たに選任された。彼は八重山地区採択協議会会長として、2011年6月に規約を改定し、役員会を経ずに調査委員を独断で選任した。さらに、調査委員による教科書の順位づけを廃止し、調査委員会の形骸化を図った。
さらに、協議会委員から現場教員を排除し、8名(3市町の教育委員各2名、有識者・PTA各1名)とした。これに対し沖縄県教育委員会八重山教育事務所は八重山地区採択協議会委員に現場教員を入れるようにと要請したが、協議会側はこれを拒否した。
つくる会教科書採択の危機を感じた八重山の住民は7月に「子どもと教科書を考える八重山地区住民の会」を結成し運動に立ち上がった。数度にわたる住民集会を開催し、玉津会長に申し入れを行った。教職員組合や校長会やPTA連合会も育鵬社版教科書の不採択を要請し、県内外の学識経験者も共同アピールを発表するなど運動は大きく盛り上がった。採択協議会の開催はギリギリまで引き延ばされ、8月23日に開催された。
調査委員は、歴史・公民にそれぞれ帝国書院と東京書籍を推薦していたにもかかわらず、協議会委員はこれを無視し、前述のような結果となった。育鵬社を選んだ委員5名は、石垣市と与那国町の教育委員各2名・PTAからの1名であることが判明した。
八重山地区住民の会をはじめとする諸団体は、協議会に抗議し、各教育委員会に対して育鵬社版公民教科書を採択しないように強く働きかけた。
8月26日、 石垣市と与那国町の教育委員会は協議会の答申の通りの教科書を採択したが、27日、竹富町の教育委員会は、 育鵬社教科書の不採択を決定、 従来の東書版を採択した。協議会側は31日に役員会を開催し再協議、 しかし結論は出ず、 多数決で竹富町教委に協議会答申通りの採択を要請することを決定し、協議会は解散(協議会は時期限定のもの、8月31日が期限)した。
これに対し、竹富町教育委員会は9月2日に臨時会議を開催し、 育鵬社版の不採択と東書版の採択を再確認した。また、この日には育鵬社採択に反対する住民集会も開かれ、450人が集まった。また、4日には那覇市でも集会が開かれ460人が集まった。このように全沖縄をあげての「つくる会」系教科書採択反対運動は盛り上がった。
こういう中、9月8日石垣・竹富・八重山の教育委員全員で構成する教育委員協会(会長、仲本英立石垣市教育委員長)が開催され、午後2時から7時45分までの長時間の協議の末、 育鵬社版の不採択と東書版の採択を決定した。
協議会の答申(育鵬社版推薦)を賛成2、反対8、意思表示なし2、欠席1(与那国町崎原教育長)という結果であった。このニュースは全国的に報道され、事態を憂慮していた人々は胸をなでおろした。しかし、この後、巻き返しが始まった。
9月8日与那国町崎原教育長が、9日には石垣市玉津教育長が、 文科省と県教委に、 8日の3地区教育委員会の協議は「無効」との文書を送付した。さらに13日、 自民党の文部科学部会(義家弘介部会長)と「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は会合を開き、文科省と沖縄県教委も同席させて、8日の議論が無効と主張した。このように、育鵬社版推進側は自民党を通して文科省に圧力をかけた。
腰のすわらない中川正春文科大臣は13日「残念だが、協議は整っていない」と発言し、さらに15日、文科省は沖縄県教委に、 「八重山地区採択協議会の規約に従ってまとめられた結果に基づいて、 採択地区内で同一の教科書を関係市町教育委員会が行うよう指導すること」を通知した。自民党側からの圧力に屈した形となった。
一方、石垣・与那国・竹富3市町の教育委員長は連名で文科省と県教委に要請書を送付し、「8日の協議は有効であり、 そこで採択した東書が3地区同一の教科書であることを認めること」を要請した。また、9月16日には沖縄県教委大城浩教育長が「採択地区の全教育委員の協議によって、 同一教科書の採択が行われたと認識している」とコメントした。このように、八重山地区内の対立は、教科書採択制度を巡って文科省側と沖縄県教委側の対立までへと発展した。
こういう中、10月17日、 八重山から陳情団が上京し東京で集会を開いたのち、18日には文科省に対する要請を行った。
しかしながら、10月26日に文科大臣は衆議院文教委員会で、「(9月8日の教育委員協会の協議結果ではなく)8月23日の八重山地区採択協議会による協議結果により石垣市と与那国町については教科書無償措置法に基づき育鵬社版の公民教科書に対する無償措置を行うが、竹富町が東書版を使用することは妨げないが無償措置はしない」という見解を明らかにした。
11月9日には石垣市の保護者が、石垣市教委を相手取って育鵬社版ではなく東書版の公民教科書の無償配布を求める訴訟を起こした。八重山の住民たちは全国的な署名運動を展開するなど運動を継続中である。最終的な決着までにはまだ曲折も予想されるが、石垣市の玉津教育長の強行措置を追認した文科省の対応はきわめて遺憾である。
(2)地教行法と無償措置法
今回の八重山地区教科書採択問題は、表面上はたしかに教科書採択に関わる二つの法律の規定のどちらが優先するか、の問題として現れているが、事の本質は、学校現場の意見を強制的に遮断した石垣市玉津教育長(八重山地区採択協議会会長)の強権的な施策の問題であり、教科書の選定過程から学校現場の意見を排除しようとする、つくる会や教科書改善の会などの右派勢力が引き起こした問題である。
また、この問題は尖閣諸島問題をきっかけに強まった排外的ナショナリズムを背景とした八重山への自衛隊配備問題とも関連していることも間違いないが、ここでは八重山教科書採択の問題で明らかになった現行の教科書採択に関する法制度を概観し、その問題点を探っていきたい。
教科書(教科用図書)の採択について根拠法とされているのは1956年に制定された「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(以下「地教行法」と略)の23条6号「教科書その他の教材の取り扱いに関すること」という文言である。
例えば、私が今回、教科書採択に関して行った横浜市への陳情に対する市教委からの回答には次のようにある。
「教科書その他の教材の取り扱いに関することは、地方教育行政の組織及び運営に関す る法律第23条第6号の規定により、教育委員会の職務権限とされています。」 (横浜市教育委員会事務局指導室長 2011年8月31日)
他の自治体でもほぼ同様である。
しかしながら、23条は教育委員会の職務権限を定めた条文で、条文本体は「教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務で、次に掲げるものを管理し、及び執行する」となっている。
一読すれば明らかなように、この条文は取り扱い事務について定めたものであって、教育委員会の「採択」権を規定したと解するのは法律解釈から言っても無理である。そもそも、「採択」という言葉すら出てこないのである。
また、1963年制定の「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」(以下「無償措置法」と略)13条1項には「都道府県内の義務教育諸学校(都道府県立の義務教育諸学校を除く)において使用する教科用図書の採択は、第10条の規定によって当該都道府県の教育委員会の行う指導、助言又は援助により、種目(教科用図書の教科ごとに分類された単位をいう。以下同じ。)ごとに1種の教科用図書の採択を行うものとする。」とある。
ここではたしかに、「採択」の規定はあるものの、どこが(誰が)「採択」するのかが書かれていない。「1種の」とあるから「種目」ごとに同一の教科書を地教委ごとに採択するというふうに読めないことはないが、厳密な法解釈としては疑義も生じよう。
周知の様に、無償措置法は市町村を越えた「広域採択」をも定めたものであり、13条4項に「採択地区が2以上の市町村の区域を合わせた地域であるときは当該採択地区内の市町村立の小学校及び中学校において使用する教科用図書については、当該採択地区内の市町村の教育委員会は、協議して種目ごとに同一の教科書を採択しなければならない」とある。
たしかにここでは「教育委員会が採択する」と読めるが、どこが選定するのかは明記されていない。
採択地区内では、各地区内において独自に選定のための組織を設けているが、それは法制化されているものではない。あくまでも、教育委員会の「協議」によるものとしているのみである。今回の「八重山地区採択協議会」も同様に「協議」のために設けられた任意の組織であり、9月8日に行われた3地区の全教育委員で構成する「教育委員協会」と法的なレベルでは同等である。文科省が前者の協議の結果を正当なものとし、後者のそれを排除したのは、法的なレベルでの判断ではなく、あくまでも政治的な判断である。 そもそも無償措置法も地教行法と同様に、採択にあたっての事務手続きを定めたものであり、採択権の所在を規定したものではないのである。
地教行法には採択についての規定がなく、無償措置法には採択権の帰属が曖昧である。無償措置法の不備を補うには、教育委員会の採択権を根拠付けるための地教行法23条6号が不可欠である、というわけである。この2つの規定は相互に補い合っているのである。 このように、行政解釈においても採択権の根拠を地教行法23条6号に置かざるをえないであり、これが文科省・地教委に共通する教科書採択についての標準的な説明となっている。
その根拠となっているのが、次の文書である。
「(照会) 高知県教育委員会教育長
教科書採択は、公立学校にあっては所管の教育委員会の責任において行われることは「昭和36年度使用教科書採択事務取扱要領」1.採択の責任(1頁)に示されておりますが、これは地方教育行政の組織及び運営に関する法律23条6号に従っての解釈と考えられます。最近当地において、教科書の選定については学校長の権限に属し、これを地教委において採択すべきものであるとの解釈によって地教委と対立し、当該地教委でその取り扱いに苦慮しているものがありますので、県教育委員会では適切な指導助言を行っておりますが、なお、本条の解釈についての文部省の明確なる御説明をお願いします。
(回答) 文部省初等中等教育課長
公立学校で使用される教科書の採択の権限は「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」23条6号の規定により、所管の教育委員会に属するものと解する。」 (昭和35・5・11委初第109号「教科書採択の責任について」) (『逐条解説義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律』諸沢正道著 1964年)163頁
文部省のこの「回答」は、無償措置法の制定以前のものである。終戦後しばらくの間は、全国的に義務教育においても学校選定が普通に行われていたが、その後文部省の指導もあって、教育委員会選定が広がり、県によっては次第に採択地区の広域化が行われるようになっていった。この照会と回答は、学校選定を続ける学校と一括採択を進める地教委との間のトラブルに対応したものと思われる。
無償措置法は、事実上行われていた広域採択の法的な追認である。従って、無償措置法の制定により、採択権に関する論議には終止符が打たれたという解釈もなされた。右に引用した著書もそのように主張している。ところがそうはならなかったのは八重山教科書問題が示すところである。
(3)教育委員会法・地教行法・教科書法案
戦後に制定された教育関連の法律の中で、教科書の採択に関して規定のあるのは旧教育委員会法のみであった。同法49条4号には、「教科用図書の採択に関すること」とあり、このことを根拠に地教委の採択権を主張することは当時もあった。しかし、この「採択」の解釈はほぼ事務手続きということとされていた。旧教育委員会法施行当時は学校採択がもっぱら行われていたからである。例えば、文部省の出した「昭和24年度使用教科用図書展示会実施要綱」には、
「教科書の展示会は、教育基本法の精神にのっとり、広く学校責任者(校長とは書いて ない!筆者注)の意見を尊重する新しい教科書制度の重要な一部を構成するものである。 (略)学校責任者は、自由な立場で教科書を採択することができるのである。」 (『教科書黒書』大槻健・尾山宏・徳武敏夫編 1969年)311頁 とある。
しかし、教科書展示制度と学校採択が次第に空洞化し、統一採択とその拡大強化が行われるようになっていった。教育委員会による採択のための行政指導が進行した。
1956(昭和31)年に「教科書法案」が教育委員会法に代わる地教行法案(当時の通称「任命制新教育委員会法案」)とともに国会に上程された。後の「勤評」に次ぐ戦後最大の対決法案となった。“教育の国家統制のための法案”として日教組や野党は強力な反対運動によって「教科書法案」は廃案となったが、地教行法は制定された。
このように、地教行法は飽くまでも教科書法との同時制定を予定してつくられたものであった。23条6号の「教科書その他の教材の取り扱いに関すること」の文言は、教科書法案の規定をまって効力を発するものであった。
教科書法案20条1項には「市町村立の小学校及び中学校において使用する教科書の採択は、採択地区ごとに、教科書選定協議会の選定に基いて都道府県の教育委員会が行う。」とあった。その他、県1区の場合も含めた採択地区の設定(21条)、教科書選定のための任命制教科書選定協議会の設置(22条)、1教科1種選定の原則(24条)などである。つまり、文部省は教科書法により採択地区の広域化と都道府県教委採択を一気に進めようとしたのである。ちなみに、これらは20条1項の「採択権」を除いて無償措置法にそっくり引き継がれている。
(4)教科書の「採択」はどうあるべきか?
教材の選択は教育の専門家である教師が第一義的に責任を追うべきであることは教育の条理から言っても当然である。「改正」されたとは言え、新教育基本法2条にも旧法を引き継いで「学問の自由を尊重しつつ」とある。教材の自主的選択は「自由」な「学問」の初歩中の初歩である。ユネスコの「教員の地位に関する勧告」(1966年)第61項には「教員は職責の遂行にあたって学問の自由を享受するものとする。教員は、生徒にもっとも適した教具及び教授法を判断する資格を特に有しているので、教材の選択及び使用、教科書の選択並びに教育方法の適用にあたって、承認された計画の枠内で、かつ教育当局の援助を得て、主要な役割りが与えられるものとする。」とある。
さて、前述したように、地教行法23条6号には教科書の採択については明文化されていない。また、無償措置法13条1項に「採択」の規定はあるものの、どこが「採択」するのかが書かれていない。
地教行法・無償措置法のいずれも「採択権」の所在については明記していないのである。いや、明記できなかったのである。
そもそも、無償措置法は「教科書法案」が野党や日教組の強い反対で廃案となったことに対して、「無償化」と引き換えに文部省が教科書採択の広域化をねらって制定したものである。したがって、ここでは都道府県教育委員会による「教科用図書選定委員会」を通した「指導」に重点が置かれ、市町村教育委員会の独自の「採択」は2次的なものと考えられていた。
このようになった理由は、当時の文部省や保守政党の文教族の念頭にあったのが、戦前からの教科書採択制度であったからだと推測される。戦前は小学校の国定教科書が良く知られているが、すべての教科について国定であったわけではなく、検定教科書も教科によっては存在した。その採択(戦前の法令では「採定」)権は「地方長官」(府県知事)に属していたのである。また、国定化以前の検定教科書の時代にも採択(採定)権は「地方長官」に属していた。
無償措置法には「教科書法案」を引き継ぎ、このような戦前からの「採定」観が色濃く残存している。しかし、当時の学校現場・教職員組合や一般世論との力関係において、広域採択を含んだ枠の中ではあれ、選定は学校現場の意思を、採択は教育委員会でという運用が多くの都道府県において定着していた。「学校票」(各学校が推薦する教科書を一票投票し、その数によって教科書を選定する仕組み)もそのひとつの形態であった。しかし、その状況を決定的に変えたのが「新しい歴史教科書をつくる会」の運動であり、それに呼応した保守系の国会議員や右派勢力であり、それらの政治的圧力を受けた自民党政権下の文部省であった。
このような力関係の中で制定・運用されてきた無償措置法には「不備」があり、教育委員会の採択権を根拠付けるためには、地教行法23条6号で補わなければならないのである。
近い将来、彼らはこの法的な「不備」の解消をもくろんでくるであろう。「教科書法案」の再来を許さず、法的に未完成な今こそ、義務制の学校においても、高校と同様に現場教員の選定権を強く主張し、学校単位の選定を目指して、法制度的な裏付けを獲得していかなければならないのである。
※ この文章を作成するにあたっては、引用文献のほかに『みんなで考えよう日本の教科書制度』(教科書検定訴訟を支援する全国連絡会編1982年)『教科書』(山住正巳著 岩波新書 1970年)等を参照した。また、八重山教科書問題の事実経過については、多く「子どもと教科書全国ネット21」の通信記事その他に拠った。
「子どもと教科書全国ネット21」の連絡先電話は03-3265-7606である。
教科書問題に関心を持たれる方のひとりでも多い入会を願っている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0738:120102〕
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