旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(4)
- 2012年 1月 3日
- スタディルーム
- 岩田昌征
8.セルビア人共和国の土台
コザラツの町の中心に「聖ペタルと聖パヴレ」セルビア正教会があった。すなわち、プレェドル・オプシティナの最もラディカルなムスリムス人地区の真中に存在していた。しかし、長年、そこで行われて来た宗教行事がムスリム人達に不快感を与えるような事はなかったが、1990年以来ムスリム人達は教会にかよってくる人々に反発を示すようになっていた。(P,26)
BiHの独立を志向するSDAのムスリム人とHDZ(クロアチア民主共同党)のクロアチア人の先手を打って、1991年11月9日と10日にSDS(セルビア民主党)は、セルビアとモンテネグロとの共同体にBiHがとどまるか否かに関する住民投票を組織した。私は、プリェドル・オプシティナのSDS主務委員会からコザラツとその周辺を受け持つ第36投票所を組織運営する任務を受け取った。ムスリム人権力が投票場所の提供を拒否したので、正教会聖職者ムラデン・マイキチに助力を求め、教会の中庭で投票できるように頼んだ。投票自体は、プリェドル・オプシティナ権力の完全なコントロールの下で行われた。私達コザラツの場合、プリェドルのヨヴァン・ヴコイェが主責任者であった。セルビア人住民はほぼ100%投票し、ムスリム人は無視しうるほどの人数しか行かなかった。結果はBiHの他の諸地域と同じであった。それは、セルビア人の真意であって、セルビア人地域を母国とベオグラードから力づくで分断する事を許さないと言う警告、ムスリム人・クロアチア人連合への公式警告であった。1991年の住民投票は、その後セルビア人共和国(スルプスカ共和国)が誕生する政治的土台となった。(P,27)
9 最初の浄化
衝突前夜、ムスリム人・クロアチア人同盟が戦争の準備をし、公然と武装化しており、それに答えて、SDS(セルビア民主党)とプリェドル・オプシティナの軍・警権力は、セルビア人の急速な武装化を組織し、オプシティナ全域で警戒態勢に入った。セルビア人の生命財産の保護の為である。この地域において私達には第二次大戦直前に否定的体験があったからだ。当時、ムスリム人隣人達は、親ウスタシヤ的団体のメンバーであれ、普通の市民であれ、それまでなかったような悪業を、セルビア人隣人達に行ったのであった。その悪業の証人は、「ザイェドニツァ(共同体)」と称される大きな霊廟である。そこに無実の殺されたコザラツ・セルビア人数百人の遺物・遺骨が第二次大戦後に埋葬された。犯行者達の名前は、すべてのコザラツ住民の間で知られていたが、ムスリム人の誰一人としてその犯罪の故に正義の法廷に引き出されることはなかった。和解のために、墓銘板にファシズムの犠牲者とのみ刻まれた。
SDS幹部と教会聖職者との合意で、コザラツの正教会施設を警護するために夜間当直が始められた。正教会はムスリム人居住地にかこまれていたので、昼間は武装警備員を置かなかった。私達は隣人達を挑発したくなかったからだ。(P,28)警備員は全員SDS党員であった。昼間は普通の生活を営み、夜間は自分達の任務を果たす。平服をセルビア人義勇隊の制服に着替え、手に小銃を握った。
私は、コザラツの中心にある自宅に母、妻、そして娘二人と住んでいた。私の兄弟達はかなり前から故郷を離れて生活しており、自分達の土地での生活に関心を示さなかった。昼は店で働き、夜は教会の中庭で他のセルビア人と共に見張りに立った。私は、「コザラツ青年ムスリム人」の策定した計画を知った。すなわち、セルビア人軍がコザラツを攻撃して来た場合、私と私の家族全員を殺害する事になっていた。ムスリム人隣人の一人がその任務を担っており、彼の名前をも知った。私達の置かれている情況はわかった。しかし、攻撃の正確な日取りは予め知らなかった。それ故に、戦争にならないようにひそかに念じていた。党指導者のシモ・ミシコヴィチは、私達の家族の避難が間に合うように町への攻撃を適切な時期に知らせてくれると私に約束していた。バニャルカに二人の兄弟と他の親戚がいたけれど、自分達の炉辺を離れるや、通常の難民生活をおくらざるを得ないだろうと分かっていた。そうこうするうちに、私達の町のセルビア人は一人また一人と去って行った。ムスリム人隣人達に気付かれないように、おそるおそるひっそりと、夜がしのびよる頃、最小限の荷物をもって車で立ち去った。
10 セルビア人軍の戦車
その日曜日は季節のわりに例外的に暑かった。窓外を見ていると、何か異常な事態が発生したらしい。電話は切断されていた。バニャルカ・プリェドル道路(バニャルカからプリェドルへ向かう幹線道路を約四分の三ほど行くと、右側にコザラツの町へ入る道がある。:岩田)の十字路にセルビア人軍の戦車が出現したと言うニュースが街を駆けめぐった。過熱した空気が街をおおった。ムスリム人達は、老いも若きも、平服の者も軍服の者も動揺しており、やがて生じるかもしれない事態を恐れていた。(P,30)
私は教会へ向かった。教会の中庭に聖職者マイキチの家族住宅があった。彼がコザラツへ来た時から、私の家族と彼の家族は親しい間柄にあった。あらゆる事で情報を交換し合った。戦争がいつ勃発するかも知れない苦しい日々においてもそうであった。不安だったが好奇心もある町の人々は、町の中心に砲口を向けている戦車が良く見える場所へ急いでいた。電話が切られて、私とマイキチは何が起こったのかつかめなかった。セルビア人の多くはすでに町の中心地区を去っており、私達はプリェドルのセルビア人権力から完全に忘れ去られていると実感した。
私達は意を決して、セルビア人戦車部隊と直接コンタクトをとろうとした。バニヤルカからの幹線道路に出て、コザラツに入る十字路に向かって歩いた。そこに戦車がいたのだ。マイキチは黒衣、私は平服。目的地まで50メートル、右側のムスリム人バリケードから雷鳴の如き命令がとんで来た。「チェトニク達よ、止まれ、戻れ。」自分達の事だとは悟らずに、歩き続けていると、「チェトニク達よ、止まれ、撃つぞ。」
引きかえして、教会の門まで来ると、中庭にゴミ等が捨ててあった。(P,31)明らかに誰かがわざと捨てて行ったのだ。教会の住宅の玄関口に私の母と聖職者の妻ヴェスナが不安げに立っていた。ヴェスナは子供をだきかかえ、泣きながら、私達がいなかった間に起こった事を語った。「あなた達が出て行った10分後に、制服のムスリム人グループが中庭へ侵入してきて、悪口雑言を投げつけた。教会からセルビア人旗を引き降ろそうとした。教会の鍵をよこせとおどした。30分以内に旗をおろさないと、『お前も子供も殺し、教会を焼くぞ』。」
もはや、好戦的ムスリム人達にかこまれて、ここにとどまるのは気ちがい沙汰だ。私とマイキチは家族を安全な所へ疎開させることに決めた。30分間で最も必要な物を荷造りした。ここからより近いプリェドルへ向かう事はいくつもの道がバリケード封鎖されていて、不可能だった。50キロメートル先のバニャルカに向かうことに決めた。小型車の「ユーゴ45」に私達大人5人と小さな子供達3人がぎゅう詰めに乗り込んだ(P,32)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study431:120103〕
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