転形期の日本(その十)~(その十五)
- 2012年 1月 3日
- 評論・紹介・意見
- 三上治
転形期の日本(その十)
冷戦構造解体後の地域紛争の時代を経て「9・11」事件を契機とする反テロ戦争があった。この中で世界の護衛官と称していたアメリカの政治的(軍事的)役割は変わりつつある。アメリカの力《支配力》の衰退である。このことは今後、一層はっきりしていくことであると思える。だから、アメリカは日本に日米同盟という名の軍事的役割を強く求めてくるのであるが、かつて小泉―安倍が取った日本の国家戦略の民主党政権でも踏襲されようとしていることが問題なのである。理念も構想もなき日本の国家戦略であるが、戦後史を振り返れば可能性を見いだせるはずである。アジアに日本が独自の戦略で臨むことであり、カギは依然として憲法9条に基づく国家戦略である。この間に外交文書が公開され1972年の日中の国交回復の経緯が明るみにされていた。そこでも未だ隠されているとされる部分《田中角栄と毛沢東の会談》もあるが、示唆されることも多いのではないか。
今年の経済的な動きはユーロの危機でありこれは現在も進行中である。ドル安も引き続いている。ユーロとドルという世界の基軸通貨が危機にあり、その中での円高が展開している。3・11事件があり、普通ならそこで円安(日本売り)になることが想像されるのであるが、事態は逆である。1ドル50円時代も予想される。日本では円高に対する反射的な危機意識があり、円高の度に危機感が声高にさけばれるが、そこからは卒業をした方がいいと思う。むしろそこまで進む事を予測して経済的な政策や構想を考えるべきである。円高はマイナス面が喧伝され、それに偏重したための政策的失敗も多かったのだからである。
現在の世界の危機は大きく言えば通貨領域と実体経済の領域とがある。この二つはもちろん別々のことではない。通貨危機は言うまでもなくユーロやドルの危機である。円高はその反映である。ドル危機はこの間のリーマン・ショックと呼ばれる事件に示されたアメリカの金融危機によって財政出動が膨らみアメリカ政府の債務危機が深化したことにある。これは経済的裏付けのないドルの増刷でもあったからドル暴落の危機を招来させることである。ユーロではギリシャに端を発した財政危機が露呈したことでユーロの不安が広がったのである。財政危機(政府債務の膨化)国の拡大でユーロも暴落の危機にあるのだ。ユーロもドルも基軸通貨であるが、通貨としての安定性を欠きもはや基軸通貨としての意味を失う事態を招いている。ドルとユーロの問題では同じでは事柄もあるが、基軸通貨としての終わりを示している点では共通している。
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転形期の日本(その十一)
ドルの垂れ流しとか、ドル危機とかという言葉を僕らは耳にタコができるほど聞いた。あるいはパックスアメリカーナの終焉をもである。ドル危機論は1960年代からあったはなしだからかれこれもう50年近くは聞かされてきたことになる。でもこれはオオカミ少年の話ではなく、現実に近づいていることである。ドルの暴落と言う言葉がこれを示すがかつて1ドル360円であったのが77円台である現在からみればドルの価値低下は確実に実現してきたことといえる。これはやがては50円台に推位して行くと予想される。ユーロはEUの再編を含めた対応が必須である。ドルやユーロは現在も基軸通貨であるがその基軸性の意味を失い、実質は無基軸通貨時代になっている。これは金とのリンクを欠いた管理通貨時代に世界的な通貨は可能かという問題を提起するが、過渡的には無基軸通貨時代が続くのであり、それへの対応が不可避である。これは基軸通貨ドルとの関係ということになる。ドルから相対的に距離を取り、アジア地域での通貨安定策を模索すべきである。中国や韓国との通貨協定などを進め、アジア地域での通貨安定の道を考えるべきなのである。
ドル安になれば輸出産業は危機になりドル建ての外貨準備などは目減りする。他方でドル高になれば資源等は昂騰する。ドルの不安定さはどちらにしても日本の経済にとっていいことはないのである。ドルの長期的な低落と暴落は予測されることなのだから、ここから抜け出すにはドルとの関係を見直をすしかないのである。ドルの危機はアメリカ経済の世界経済としの力の衰退にあり、それが長く続いてきたことは何度も繰り返し説明してきた。世界経済で絶対的といえる力を持ってきたアメリカは今やその力は三分の一程度になった。アメリカの高官はアメリカの衰退は絶対にないと公言しているが、その衰退は避けられない。これは世界通貨を意味したドルがその意味を失いつつあることだ。先に述べた基軸性の喪失である。これを表明したのは1972年のドルと金の交換停止であるが、アメリカはにもかかわらずドルの基軸通貨制を実態に見合わず保持し、そのことで矛盾を拡大しているのである。例えば、リーマン・ショック以来アメリカは大幅な財政出動と金融緩和政策を展開した。これは政府の債務(借金)を拡大することであった。これはアメリカ経済の不況脱出と世界経済の恐慌状態からの脱出が意図されていた。しかし、アメリカ経済は好転せず、ドルは投機資金となって新興国などに流れ込み資源の高騰などを招いている。いわゆるスタグフレーションを国際的に演じただけである。
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転形期の日本(その十ニ)
アメリカの中からウォール街の占拠等が生まれアメリカ経済や社会の変革の運動が出てきたことは興味深い。オバマ政権のチエンジが見せかけだけで実際はブッシュ政権の踏襲だったことを思えば当然と言える。アメリカは膨大な財政赤字を抱えかつ債務国である。アメリカ経済の不況脱出のための財政出動や金融緩和は機能せず、世界的には垂れ流したドル漬けにした。スタグフレーションの世界版を演じただけなのである。アメリカが世界経済の景気循環を左右していく力がるというのは過去の幻想である。アメリカが世界の護衛官であるというのと同じように。アメリカは軍事力と同じようにドル基軸通貨に依存するが、これはアメリカが世界性であるという共同幻想によっていることである。そしてこの共同幻想はアメリカや日本の政府や官僚たちに生きているだけなのである。
日本国家の債務も膨大である。来年度予算で国の借金は1000兆円を超えると報じられている。世界的にとりわけ先進国家はどこも膨大な借金を抱えている。日本はその中でも突出した地位にある。国債という名の国の借金はもはや返済不可能な水準にあると言える。日本売りという言葉がある。これは日本の国債が売られその利回りが上がり返済不能の危機に陥る危機が将来することである。国債残高についての危機はこれまで何度も警告を発せられてはきた。円に対する信頼があるから大丈夫であるというのがそれへの答えだった。日本には国債残高に匹敵する貯蓄があり国債は国内で買われているというものだった。また、日本は国際的には債権国である。これはアメリカと違うところである。アメリカは国も国民も借金漬けであり、国際的には債務国である。本来なら日本売りがあってもおかしくないのにむしろ円高であるのは通貨の信頼度があるからだ。ドルやユーロが基軸通貨の意味を失っていくのに比して準基軸通貨的な役割を円は演じているのだ。これは通貨の共同幻想的根拠がアメリカやEUのような政治性にではなく、経済力によるのである。金は経済の世界性に対応して出てきたものであるが、その世界性は通貨の一国性との矛盾の中に存在した。一国の通貨発行権は金とリンクすることで世界性と一国性をつないでいた。かつてポンドが金との交換停止によって金本位制から離脱し、基軸通貨(決済通貨)であることを離脱した後を継いだのはドルであったが、ドルも1972年に金との交換性を停止しここで基軸通貨も変更さるべきだった。アメリカは政治力(軍事力)による幻想でそれを支えていたがそれを経済力で補完したのが円である。
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転形期の日本(その十三)
野田首相の訪中が報じられていた。金正日の死去に伴う北朝鮮への対応を協議したとあるが、これは正確なところは分からない。そういう他ない。この会談の中で注目されるのは日本が外貨準備金で中国の国債を買う事に合意したという件である。中国は既に日本の国債の購入をはじめているから、外貨準備金でアメリカ国債を買うということの見直しに発展する契機を内包している。中国の金融面での協力を進め、両国間の貿易での円と人民元での決済が進展するかも知れない。日中間の貿易決済は米ドルを介しているのだから、本格すれば影響は大きなものとなる可能性がある。
日中の国交正常化を頭越し進めたとして田中角栄はアメリカからの報復を受けた。日中間の金融協力の進展はドル離れに結果するからアメリカの警戒と対応は厳しいものがあると予測される。しかし、ドルの不安定な乱高下に日本経済(実体経済)が右往左往をされることをかんがえればこれは当然の政策であり、アメリカの干渉や妨害をはねのけて本格化する必要がある。野田首相や民主党政権にそこまでの見識や見通しがあるかどうか疑問だがこの方向は進めることは正しい。ユーロやドルが基軸通貨性を低下させ、無基軸通貨時代が進展する過渡的状態の中で日本がアジアを基盤にした安定した通貨政策をとるほかないのは自明のことである。中国との金融協力や通貨協定はその根幹をなしていくと思われる。かつてポンドがその後はドルが世界通貨を意味する基軸通貨であった時代はポンドもある時期までのドルも金との交換性を持っていた。この金との交換性は実体経済力を反映していた。また、大英帝国やアメリカの世界性(世界性であるという共同幻想)の反映もあった。基軸通貨性は金との交換性と大英帝国やアメリカという政治的・軍事的な力という二つに支えられていた。ドルにしろ、ユーロにしても金との交換性を有せず、政治的・軍事的力も衰えている。基軸通貨の意味を失い、地域通貨の性格を帯びるのは必然である。円はドルの補完物である事をやめて、この過渡的状態に対すべきなのである。アジアの経済圏が実態的な意味では世界経済の成長を牽引していることは確かであるし、独自の通貨の流通する経済的基盤はある。これに比して政治的・軍事的にはアジアは不安定である。この意味ではアジアでの独自通貨には困難な条件がある。さしあたっては金融協力や通貨協定を進める他ないが、逆にいえば、この進展が政治的安定につながるかもしれないのである。これはアジア地域の政治的・経済的安定のための柱になる可能性もある。
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転形期の日本(その十四)
2008年のリーマン・ショックによる世界的な不況はアメリカや日本などの財政出動や金融政策の展開などにも関わらず好転はしていない。アメリカの金融投機に端を発した世界恐慌的事態に財政出動で対応した。国家財政は悪化するわけで政府債務は膨らみ、それが国債の危機になっている。ドルやユーロの価値下落になっている。いわゆるケインズの経済政策ならば景気を刺激する財政政策で好況に転じ、税収入も好転し財政再建にならなければならない。例のスタグフレーションになってそうとはならない。スタグフレーションはかつてならアメリカ一国で起こった現象だが世界的になった。先進地域と呼ばれるところでは経済(実体経済)は停滞したままで、投入された金は投機マネとなって新興国になだれ込み資源インフレを生みだしている。
日本では麻生内閣の時にリーマン・ショックがあって財政出動した。緊急避難的に財政出動をしてこの危機に対応し、後に財政再建をと言われた。麻生内閣の所信表明演説だった。財政出動は国債の増発になるわけだから政府債務(借金)は増える。この財政出動で景気が回復し税収が増えればいいが、そうはいかないから、国債の残高だけが増える。日本は先進国の中でも突出した政府債務国になった。日本売りが出てきて日本も危機になるというシナリオを予測する連中もいる。だが、日本は国際的には債権国であり、国債は国内で消化《国内の貯蓄力に対応している》から危機にはならないという予測もある。どのようなきっかけで日本売りが始まるかも知れないから、こういう予測は危うい。こうした中でドルやユーロに比して円が買われ、準基軸通貨として扱われているのはアメリカやEUに比して日本経済がましと見られていることである。正確には実体経済の力が評価されているのである。日本が債権国であり、国内の貯蓄力で評価されていることは実体経済での評価である。新興経済圏としてのアジア地域と連携の密接なこともある。野田政権が消費税増税を急ぐのは国際的な信用ということも含めて財政再建の姿勢を示すという狙いだろう。この増税は国内の消費を冷え込ませ不況→財政出動という悪循環に入る懸念がある。結局のところ国家財政支出による経済の発展《経済の成長的展開》ができなければ、増税(大衆収奪)は財政膨張を押しとどめることが出来ないのである。経済成長が最後の希望のように語られるけれど、それは空虚な言葉として空転するだけである。内需拡大ということが声高にさけばれてもそれが一向に結実しないのである。問題の根本はここにあるのだ。
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転形期の日本(その十五)
日本経済は世界経済の危機の進行の中で3・11の大震災に遭遇した。日本経済の予測される危機に対応した日本売りが出てくるというのに反し、むしろ円高(日本買い)が進んだ。これは結局のところ日本経済がアメリカ経済やEU経済に対して相対的にましであるというに過ぎない。日本経済はアメリカ経済やEU経済と同じような状態に入るのか独自の道を展開できるのか、という局面にある。3・11の大震災が提起した日本の転換という問題は経済的にはこのようにあるのだ。経済成長を経験したその後の経済の問題で停滞に逢着してきた。経済成長、とりわけ高度成長は第二次産業経済の発展であった。それは生産力の発展でもあった。そして、経済成長を遂げた国や地域は歴史的には成長段階から成熟段階に入る。
日本経済は戦後のある段階で高度成長経済を経験した。この幻想と経験は成長段階から成熟段階への道を妨げるものとして在った。経済成長よ、もう一度という幻想が人々を呪縛してきたのである。また、世界にモデルもなかった。アメリカ経済は軍事経済と金融経済に成熟段階の道を求めたからである。日本経済は「失われた20年」の中で成熟段階の経済を模索してきたのである。アメリカ経済の補完的地位を離れその模倣を脱することは最低限のことであった。アジア経済圏に経済の重点を置くシフトに切り替えながら、ポスト第二次産業経済の創出にということにほかならない。これは誰もが語ることかもしてない。内需拡大論も同じことなのである。これがなかなか進まないのは過去の経済成長という幻想に呪縛されていることが強すぎるのである。例えば、原発問題を見れば明瞭である。原子力エネルギーが尖端のエネルギーと見なされてきたのは経済の高度成長期であった。原発はエネルギーの大量消費を必要とする第二次産業経済に対応していたのである。原子力エネルギーからの再生エネルギーへの転換は地域経済の再生と結び付き、地産地消型の経済展開と対応して行く。原発をなくせば電力は不足すると喧伝されてきたが、実際はむしろ電力は過剰にあるのだ。原子力エネルギーの稼働によって他の方法での電力生産が切り捨てられてきたのである。効率化やコスト安という幻想があったが、第二次産業経済に対応した巨大構造がそれを推し進めてきたのである。再生エネルギーに科学技術をつぎ込めばいいのであり、科学技術の社会化(産業化)の方法を対象を含め転換すればいいのである。原子力エネルギーからの転換で政府(政治)が決断出来ないことは示唆的なのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0739:120103〕
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