「核アレルギー」神話によってではなく、「核と人類は共存できない」から脱原発へ!
- 2012年 1月 16日
- 時代をみる
- 加藤哲郎原子力核
2012.1.15 民主党野田改造内閣が出発しました。消費税増税正面突破の布陣ですが、内閣支持率の回復効果はなく、むしろ朝日(左)でも読売(右)でも不支持増大がとまらないという、珍しくぴったり一致した世論の流れ。3・11以後のジャーナリズムを振り返ると、原発事故の「大本営発表」の果てに増税と政局をあおってきた在京大手マスコミの気紛れにくらべると、普天間基地移転問題をふまえた沖縄タイムス社説の原点からの政権批判が、さわやかです。実際、本来の政治の焦点、東日本大震災・福島原発事故への対応の遅れは、厳しい冬の被災地の生活を直撃しています。震災失業者12万人の命綱、失業手当ての給付期限が、この13日から順次切れ始めています。孤軍奮闘する在京のジャーナリズム、東京新聞が、福島第一原発各原子炉の現況を、1月8日の紙面でも詳しく紹介(下図)しているのは、さすがです。2012年は、世界の主要国で政権選挙の年ですが、この国の永田町政治の刷新は、あまり期待できません。3か月後に大統領選挙を控えたフランスをはじめとしたヨーロッパ諸国の国債が格下げされ、世界金融危機は、アジアにも波及してくるでしょう。中国の指導者が代り、アメリカは大統領選挙の年です。国際環境は大きく変わります。そうした国際環境への適応能力が極度に低下しているのが、3・11以後の日本社会と国家。アメリカのよびかけた対イラン経済制裁に、日本の安住財務大臣はすぐさま原油輸入削減で応える稚拙、現在の国際的孤立の日本国民には隠された最大の要因である、福島原発汚染水の海洋投棄を東電が再び試みようとしたり、2012年も、憂鬱な年になりそうです。
昨年3・11以後の私の「国際歴史探偵 」は、崎村茂樹やゾルゲ事件の探究を継続しながらも、「原爆・原発」神話の解明に力を注いできました。故高木仁三郎さんの9つの「原子力神話」にならって、10の「原爆・原発神話」を設定し、そのうち「占領期原爆・原子力報道消滅神話」については、昨年の「占領下日本の『原子力』イメージーーヒロシマからフクシマへの助走」と「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」で、おおむねつき崩すことができました。冬休みから、「日本人の核アレルギー」神話に取り組みはじめました。占領期の日本の新聞・雑誌には、GHQの検閲があったとはいえ、原爆・原子力報道は4000件以上にのぼり、その内容も「かぜにピカドン」や「巨人の原爆打線」のような「脅威とあこがれ」の両義性がみられ、「アレルギー」は見られませんでした。そこで、よく引かれるサンフランシスコ講和条約による独立直後の『アサヒグラフ』1952年8月6日号の原爆報道あたりから「原爆アレルギー」の語が使われるのではないか、あるいはそれより一年早い1951年7月京都大学での総合原爆展あたりが起源か、と調べはじめたのですが、日本人全体が原爆・原子力を強く拒否しているという報道は見当たりません。「アレルギー」という病理学的表現から、この言葉は、米軍情報機関かCIAあたりが、ビキニ水爆実験と原水爆禁止署名運動の広がりを称して使いはじめたのではないかと、ここ数年米国国立公文書館で集めてきたCIAやMISの対日諜報文書を再読してみましたが、1950年代の日本を「核アレルギーNuclear Allergy」として描く文書はみあたりません。再軍備反対や米軍基地反対、原水禁運動の始まりを、共産党をバックにした「反米」として警戒し、「反ソ・親米」にしようとする方向・政策は明確ですが、原爆や原発をとりあげて「アレルギー症状」とする診断は出てきません。
「アレルギー」とするからには外国からの診断ではないかと、Googleに “Nuclear Allergy”と打ち込んでチェックすると、意外なことがわかりました。「日本人の核アレルギー」研究での必読文献は、海外の日本研究者のものでした。一つは、1980年代に岡山大学にいた英国人日本研究者、私自身も何度かお会いした現在英国シェフィールド大学東アジア研究所グレン・フック教授の論文「言語の核化(ニュークリアライゼーション) : 政治的陰喩としての核アレルギー」で、日本語では『広島平和科学』1984年7号に掲載され、ウェブでも読めます。その後フック教授の『軍事化から非軍事化へーー平和研究の視座に立って』(御茶の水書房, 1986年)に収録されています。フックさんはそこで、「アレルギー」とは治癒の対象であり、核を持つのが正常で健康的だという前提にたった「日本人の病気」として使われ、「核兵器アレルギー」から「核アレルギー」に展開してきた政治的言説分析を試みています。もう一つは、これも何度かお会いしたオーストラリア国立大学テッサ・モリス=スズキ教授の英文報告ペーパー「The Atomic Shadow on Japanese Society: Social Movements, Public Opinion and Possible Nuclear Disarmament」(2009年9月)。これもウェブで読めますが、「核アレルギー」という言葉が、「核の傘」と並んで、日本の平和運動から北朝鮮拉致問題にいたるナショナリズムの中で果たしてきた政治的機能を跡づけています。
これらからわかったのですが、「核アレルギー」という表現があらわれる最初は、アメリカの国務省・国防省・CIA文書ではなく、なんと、私が「占領下日本の『原子力』イメージ」で分析した「原子力の平和利用」の場合と同じく、日本の朝日新聞社の報道でした。年月日・命名者も特定されており、1964年8月29日『朝日新聞』夕刊のワシントン支局松山幸雄特派員送信「米、日本の自発的協力を喜ぶ」という記事でした。米国の原子力潜水艦シードラゴン号が初めて佐世保に寄港する問題で、反対運動もあったが日本の佐藤栄作内閣は寄港を受け入れたことについて、「その背景には、米側をもっと信頼してもらいたいということ、それに時間をかければ日本の核アレルギーはおさまるだろう」という米国政府の態度についての観測記事で、どうやらもともと和製英語らしいのです。フック教授論文の註から、日本側でこの問題を論じた『世界』1968年9月号の荒瀬豊・岡安茂祐「『核アレルギー』と『安保公害』ーーシンボル操作・1968年」も見つかり、原子力空母エンタープライズ佐世保寄港に際して、もともと自社が作った言葉である「核アレルギーとは何か」を、『朝日新聞』1968年1月11日社説が、「『核アレルギー』という言葉は、そもそも核武装に狂奔する核大国が、核軍拡競争の拡大と核兵器の維持を正当化するために、それを批判し避難する国民、とくに日本国民に対して投げかけた言葉にほかならない」とマッチポンプ風に論じていることもわかりました。当時の国会では、佐藤首相自身が、沖縄返還交渉から「非核3原則」をつくる過程で多用しており、「核アレルギー」は「核の傘」「非核3原則」とワンパックで定着してくる「創造=想像された神話」であることが見えてきました。また「核兵器アレルギー」から「核アレルギー」へと転用される過程で、原子力潜水艦寄港時の放射能調査を媒介に「原子力の平和利用」=「安全神話」にもつながることがわかってきました。ちょうど一昨年NHKテレビ「核を求めた日本」が報じたように、日本政府が「当面核兵器は保有しない政策はとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは保持する」と決め(1969「わが国の外交政策大綱)、被爆者森滝市郎と原水禁国民会議が「核と人類は共存できない」という原爆にも原発にも反対する核絶対否定の立場を、確立する時期です。3・11以後の日本の非核平和運動が、「核アレルギー」に依拠するかたちでいいのか、「核と人類は共存できない」という立場を明確にすべきか、私には明らかに後者と思えます。詳しくは次回以降にしますが、本サイトは、今年も「原爆・原発神話」の一つ一つを、歴史的に解体していきます。14・15日の横浜「脱原発世界会議」の模様は、you tubeに、その狙い、開会式、福島のこどもの訴え、佐藤栄佐久・前福島県知事、被爆者肥田舜太郎医師、、飯田久也さんの話などが、次々とアップされています。上野千鶴子さんの発言が、よくまとまっています。脱原発は、人類史の、世界史の課題です。
「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
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〔eye1786:120116〕
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