連載―(6)やさしい仏教経済学原子力発電は「人類の生存に脅威」/(5)シューマッハーの「小さいことは素敵」
- 2010年 7月 8日
- スタディルーム
- 原発安原和雄
(6)やさしい仏教経済学原子力発電は「人類の生存に脅威」
仏教経済学は原子力発電にはどういう姿勢なのか。仏教経済学の提唱者、シューマッハーは著作『スモール イズ ビューティフル』で「原子力 ― 救いか呪いか」と題する一章を設けて原子力発電と核分裂について主張を展開している。一口で言えば、「人類の生存に脅威」、「人間の生命にとって想像を絶する危険」などと警鐘を打ち鳴らしている。つまり人類にとって「救い」どころか「呪い」そのものという認識である。
しかも「経済学という宗教に毒されて、政府も国民も原子力の<採算性>にしか目を向けていない」と視野の狭い既存の現代経済学に手厳しい。原発について流布されている「原子力の平和利用」という虚言を打破しなければならない、と言いたいのである。
(2010年7月8日掲載)
「原子力 ― 救いか呪いか」での主張(要旨)を以下に紹介しながら、対応策も考えてみたい。
▽ 人間の生命にとって想像を絶する危険
人間が自然界に加えた変化の中で、もっとも危険で深刻なのは、大規模な原子核分裂である。核分裂の結果、放射能が環境汚染の重大な原因となり、人類の生存を脅かすことになった。一般の人たちが原子爆弾の方に注意を奪われるのはうなずけるが、それが将来二度と使われないという希望はまだ持てる。ところが原子力の平和利用が人類に及ぼす危険の方がはるかに大きいかも知れない。
石炭か石油を使う在来型の発電所を建設するか、それとも原子力発電所を作るかの選択は経済的根拠に基づいて行われており、核分裂が人間の生命にとって想像を絶する特殊な危険だということがまったく考慮されていない。(中略)これこそ経済学という宗教に毒されて、政府も国民も原子力の「採算性」にしか目を向けていない例である。
直接放射能を浴びた人だけでなく、その子孫をも危険に陥れるような、今までの経験にない「次元」の危険である。
新しい「次元」の危険のもう一つは、人類が放射性物質をいったん造ったが最後、その放射能を減らす手だてがまったくないことである。(中略)放射能は半永久的に残るわけで、放射性物質を安全な場所に移す以外に手はない。
原子炉から出る大量の放射性廃棄物の安全な捨て場所とはいったいどこか。地球上に安全な場所はない。(中略)生物がいるところならどこでも、放射性物質は生物循環の中に取り込まれる。(中略)生物は他の生物を食べて生きているのだから、放射性物質は生命の連鎖を上にたどって、最後には人間に戻ってくる。
<安原の感想> 「原子力の平和利用こそ危険」
ここで見逃せない指摘は、「一般の人たちが原子爆弾の方に注意を奪われるのはうなずけるが、それが将来二度と使われないという希望はまだ持てる。ところが原子力の平和利用が人類に及ぼす危険の方がはるかに大きい」である。
これは約40年も前、エネルギーの総需要に占める原子力の比率がまだ数%の頃の指摘であることに注意を向けたい。オバマ米大統領の「核なき世界」発言(09年4月プラハで)以来、核兵器廃絶への希望が生まれている。その半面、原子力の平和利用では特に日本の政府、経済界に執着心が強い。地震による事故、実害などへの懸念が高まっているにもかかわらず、である。
日本における原発推進派の思慮の欠落さには、日本人だけで300万人を超える多くの犠牲者を無理強いしたあの戦争(当時の呼称は大東亜戦争)にみる指導者たちの無責任ぶりとの類似性を感じないわけにはいかない。同じ過ちを再び繰り返しつつあるのか。原発事故で多くの犠牲者を出した後で、推進責任者が自決し、遺書の中でいくら謝罪しても、それで償えるわけではない。
▽ 使用済みの原子力発電所は、醜悪な記念碑
一番大きな廃棄物は、耐用期間を過ぎた原子炉である。原子炉を使える期間が25年か、30年かといった些末な経済問題について議論がやかましいが、人間にとって死活の重要性をもつ問題はだれも論じていない。その問題とは原子炉が壊すことも動かすこともできず、そのまま、多分何百年もの間、あるいは何千年の間放置しておかなければならないこと、そしてこれは音もなく空気と水と土壌の中に放射能を漏らし続け、あらゆる生物に脅威を与えるということである。どんどん増えていく、このような悪魔の工場の数と場所を人は考えてもみない。使用済みの原子力発電所は、醜悪な記念碑として残り、今日わずかでも経済的利益がある以上、未来は意に介する要はないという考えの愚かさを記録し続ける。
石炭や石油で空気や水を汚す害悪を軽視しようというのではないが、「次元の相異」を認識すべきである。放射能汚染は、そのひどさの次元でこれまでのどんな汚染とも比較にならない。疑問はこれだけではない。空気が放射性粒子を帯びてくると、きれいな空気を求めても無意味ではないか。空気の汚染が避けられたとしても、土壌と水が毒されてしまえば、それも無意味ではないか。
人類にとってかけがえのない地球が子孫を不具にするかもしれないような物質で汚染されているのに、経済的進歩、高い生活水準について語ることに意味があるのだろうか。
いかに経済がそれで繁栄するからといって、安全性を確保する方法も分からず、何千年、何万年の間、ありとあらゆる生物に計り知れぬ危険をもたらすような、毒性の強い物質を大量にため込んでよいというものではない。それは生命そのものに対する冒涜(ぼうとく)であり、その罪はかつて人間が犯したどんな罪よりも数段重い。文明がそのような罪の上に成り立つと考えるのは、倫理的、精神的にも化け物じみている。それは経済生活を営むに当たって人間をまったく度外視することを意味する。
<安原の感想> いのちと生存を保障する「英知」を
ここでも恐ろしい指摘が冷静に行われている。その一つは、「経済がそれ(原発)で繁栄するからといって、あらゆる生物に計り知れぬ危険をもたらす毒性の強い物質を大量にため込む、その罪はかつて人間が犯したどんな罪よりも数段重い」である。我が国でもやがて使用済みの原子力発電所が「醜悪な記念碑」としての残骸を曝(さら)すことになる。
目先の経済繁栄に執着して、原発による人間、自然を含めた「いのちの破局」へと突き進むのか、それとも今ここで原発による「経済繁栄」を捨てるのか、その二者択一はすでに迫られつつある。求められるのは、目先の私欲を満たす「繁栄」や「経済成長」ではなく、いのちと生存を保障する「英知」である。
▽ 反「原発」のための対応策は
シューマッハーの著作(英文)が世に問われたのは1973年だから今(2010年)から約40年昔のことである。それ以降、日本では「もんじゅ」の再開に伴う事故(注)を含め、原発がらみの事故が絶えない。不幸にもシューマッハーの警告は的中しつつある。
(注)2010年5月、日本原子力研究開発機構(原子力機構)の高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)は運転を再開した。1995年末のナトリウム漏れ事故で停止して以来、14年半ぶりの運転再開であるが、装置の故障や制御棒の操作ミスなどが相次いだ。
典型的な原発大事故として、チェルノブイリ原発事故を挙げることができる。1986年4月に旧ソ連ウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故では上空に吹き上げられた放射能が他国にまで降った。原発周辺は30キロにわたって人が住めなくなり、約14万人が移住させられた。いまなおガンなど病気にかかる人が増えている。北に隣接するベラルーシ共和国では国土の30%が放射能に汚染された。
予想しない核分裂連鎖反応が起きた事例として東海村JCO(株式会社ジェー・シー・オー=住友金属鉱山の子会社)の臨界事故がある。1999年9月茨城県東海村でJCOの核燃料加工施設で発生、作業員2人の死亡者と600人余の被曝者を出したと伝えられる。
では一体どうしたらよいのか。シューマッハーは次のように提案している。
・神の賜物(たまもの)である自然界 ― 人間はその部分であって、自分の手で創ったものではない ― 、この大きく、すばらしい自然界と調和した、非暴力的で調和を重んじる有機的な方法を、意識的に探求・開発していくこと。
・廃棄物の管理方法が分からない間は原子炉の建設を行わないこと。
・電力を含むエネルギーを無駄遣いしない社会を作っていくこと。
<安原の感想> 自然エネルギー活用もすでに示唆
「原発拒否」という以上、原発に依存しないで、どういうエネルギーを重視するかが問題となってくる。その提案はシューマッハーにしても、あまり具体的ではない。ただ「自然界と調和した、非暴力的で有機的な方法」の探求・開発をすすめている。この指摘は何を示唆しているのか。その含意を以下のように読み解くこともできるのではないか。
21世紀になって、周知のように石油、石炭さらに原子力の代替エネルギーとして太陽光、風力、水力など再生可能な自然エネルギーの活用が大きなテーマになっているが、シューマッハーすでにこれら自然エネルギーの可能性に視点を向けつつあった ― と。
一方、次のようにも指摘している。「石炭、石油のような再生不能の燃料は、やむを得ない場合に限って使うべきで、ぜいたくに使うことは一種の暴力行為である」と。この発想が上記の「電力を含むエネルギーを無駄遣いしない社会を作っていくこと」という無駄遣い抑制の提案に結びつく。この提案は今日こそ実践に値する。
<参考>ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の原発関連記事
・「今日はお寺で6時間過ごそう ― 原子力発電と仏教をテーマに」=08年1月25日付
・「日本列島に住めなくなる日 ― 原発を並べて戦争はできない」=07年8月28日付
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年7月8日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study311:100708〕
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(5)シューマッハーの「小さいことは素敵」
仏教経済学(思想)に関する業績は多様である。ここではドイツ生まれの経済思想家、E・F・シューマッハーが唱えた仏教経済学を紹介したい。シューマッハー流の仏教経済学が目指すものは、簡素と非暴力、知足、中道と「正しい生活」、非貨幣的価値、量ではなく質、資源エネルギーの節約、真の豊かさと完全雇用、地域資源の活用 ― などである。
注目に値するのは「中間技術」という新しい技術観を唱えて、巨大技術を排していることである。これが著作のタイトル「Small is beautiful」(スモール イズ ビューティフル)となっている。この著作に触れたことが私にとって現代経済学から仏教経済学に宗旨替えするきっかけとなった。彼は講演旅行中の列車内で客死したが、その仏教経済学は今日、継承発展させるべき優れた遺産と考える。(2010年7月2日掲載)
シューマッハー(1911~77年)の発想の妙をうかがわせることばを紹介したい。経済学者仲間から「経済学と仏教とどんな関係があるのか」と聞かれて、こう答えた。
「仏教抜きの経済学は愛のないセックスである」と。「精神性を欠いた経済学は一時的な物的満足を与えるだけで、内的な達成感は与えない」と言いたいのである。ここでの「精神性を欠いた経済学」とは、わが国でいえば大学経済学部で通常教えられている現代経済学(ケインズ経済学、新古典派経済学=通称・新古典派総合、自由市場原理主義など)を指している。
さらに仲間の経済学者たちが彼を変わり者と呼ぶと、シューマッハーはユーモア感覚で次のように応じた。「変わり者のどこが悪いのか。変わり者とは革命を起こす機械の部品で、それはとても小さい。私はその小さな革命家だ。それ(変わり者)は褒め言葉なのだ」と。同感である。
▽ 仏教経済学は現代経済学と比べてどう異質なのか
シューマッハーの著書『スモール イズ ビューティフル ―― 人間中心の経済学』(原本・英文『Small is beautiful』は1973年に発刊され、世界的なベストセラーに)の中で「仏教経済学」(Buddhist Economics)と題する一章を設けて、現代経済学とどう異なり、どのようにして現代経済学を超えることができるかを論じている。以下にその<仏教経済学の特質>と<現代経済学の特質>を比較表示する。
<仏教経済学の特質>(かっこ内が<現代経済学の特質>)
*基調:簡素と非暴力(富への執着と暴力、戦争)、非物質的価値=正義、調和、美、健康=の重視(物質的価値の重視)、労働者重視(労働の生産物重視)
*基本道徳:知恵、正義=真、勇気=善、節制=美・知足(目先の利益、狭量で卑小、打算的)
*目標:中道=八正道の一つである「正しい生活」(唯物的な生活様式)
*方法論:非貨幣的価値と質の重視(貨幣価値と数量化の重視)
*石油などの再生不能資源:節約型(浪費型)
*豊かさ観:適正規模消費で満足の極大化(適正規模生産で消費の極大化)
*労働と余暇:仕事と余暇は相補う関係(労働は必要悪)
*雇用:真の意味の完全雇用(失業を容認)
*生産技術:大衆による生産の技術=中間技術。小さいことは素晴らしい、人間の背丈に合わせること(大量生産の技術=巨大技術)
*農業と工業:農業が主役(工業が主役)、化学肥料・農薬の大量使用の拒否(その大量使用)
*貿易:地域資源の活用(遠隔地の資源に依存)
▽ 簡素こそが「暴力と戦争」を回避できる
両者を見比べれば、おのずからその相違点が浮き彫りになってくるが、おおまかな説明を加えたい。
まず基調(基本思想)として指摘できることは、現代経済学の立場では富に執着するあまり、必然的に暴力と戦争へとつながっていくことである。これに対し、仏教経済学の基調は簡素であり、従って相争うことが少なく、非暴力である。もともと物的資源・エネルギーには限りがある。従ってそれを貪(どん)欲に求めるか、それとも簡素・節約を旨とするかが暴力、戦争を引き起こすかどうかのきわめて重要な分岐点とならざるをえない。
シューマッハーは次のように指摘している。
「自分の必要をわずかな資源で満たす人は、これを沢山使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会のなかで自足的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも戦争などに巻き込まれることがまれである」
また現代経済学の立場では、再生不能資源(石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料、鉄鉱石などの鉱物資源)の浪費に走りやすいが、仏教経済学は再生不能資源節約の重要性を強調する。この違いは何を意味するのか。シューマッハーの次の指摘も見逃せない。
「再生不能の燃料資源は、その地域的分布がきわめて偏っており、総量にも限界があるから、それをどんどん掘り出していくのは、自然に対する暴力行為であり、それは間違いなく人間同士の暴力沙汰にまで発展する」
21世紀に入ってからのアメリカを主軸とする多国籍軍によるアフガン、イラクへの侵攻の背景に中東地域などにおける再生不能の石油、天然ガス資源の確保があったことは否めない。近現代の多くの戦争が資源・エネルギーの確保と争奪をめぐる国家間の暴力沙汰であったことは改めて指摘するまでもない。
▽ 目標は中道(節制・知足)と「正しい生活」
基本道徳では現代経済学が狭量で卑小かつ打算的であるのに対し、仏教経済学は知恵、正義(真)、勇気(善)と並んで節制(美)を掲げていることに注目したい。節制すなわち知足は真善美の美に結びつく。知足の対極にある貪欲が美と正反対の醜を意味することはいうまでもない。
仏教の基本思想の一つは中道(注1)である。中道とは、決して物的な福祉を軽視するわけではない。富や楽しむことそれ自体、その全てを排するのでもない。排するのは執着心であり、焦がれ求める心である。中道はまた節制すなわち知足を意味し、仏教の八正道(注2)の一つ、「正命=正しい生活」につながっていく。だから仏教経済学では中道そして正しい生活が追求すべき目標となってくる。現代経済学が目標として唯物的な生活様式にこだわるのと異なる大きな特色である。
(注1)仏教でいう中道とは、通俗的な「ほどほどに」とか「足して二で割る」という意ではない。中道とは「道に中(あた)ること」という意であり、道理に合っていなければならない。道理に目覚めれば、おのずから執着心は解消し、極端にも走らないという考え方である。
(注2)中道はすなわち正道である。仏教の八正道(はっしょうどう)とは、正見(正しく道理を見る)、正思(正しく道理を思惟する)、正語(真実の言葉で語る)、正業(清浄な身のこなし、心のかまえ)、正命(正しい生活)、正精進(悟りにいたる道に励む)、正念(正しい道を念ずる)、正定(正しい精神の集中とその安定)の八つを指している。
▽ 豊かさ観 ― 消費の極大化、それとも満足の極大化か
豊かさ観も大きく異なる。現代経済学では豊かさを「適正規模の生産で消費の極大化」、つまりできるだけコストの安い財・サービスの供給と、消費の極大化(限りない欲望の充足と大量の廃棄物の排出)と捉える。これに対し、仏教経済学では豊かさを「適正規模の消費で満足の極大化」、つまり消費を抑える生活様式をとる中での満足の極大化(中道、知足の正しい生活)を追求する。シューマッハーは次のように述べている。
「現代経済学者は、生活水準を測る場合、多く消費する人が消費の少ない人よりも豊かであるという前提に立って、年間消費量を尺度にする。仏教経済学者にいわせれば、この方法は大変不合理である。その理由は、消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることであるはずだからである」
労働と余暇、生産技術はどう異なるのか。人間の労働が富、経済の基本的な源泉であることはいうまでもない。ところが労働観、余暇観が大きく異なる。
現代経済学では労働は必要悪であり、労働は経営上は一つのコストにすぎず、大量の失業を当然視する。だから労働者にとっては余暇と楽しみを十分に享受することはできない。これでは働くことが働きがい、生きがいに通じることにはならない。
仏教経済学の立場ではどうか。仕事の役割は三つある。一つは、人間にその能力を発揮、向上させる場を与えること、次は他人との協力によって自己中心的な態度を棄てさせること、第三はまっとうな生活に必要な財とサービスを作り出すことである。こういう労働観に立って、真の意味の完全雇用を追求し、一方、仕事と余暇に関する次の指摘は十分玩味してみる必要がある。
「仕事と余暇とは、相補って生という一つの過程を作っている。二つを切り離してしまうと、仕事の喜びも余暇の楽しみも失われてしまう」
以上のような現代経済学と仏教経済学との相違点を特色づけているものは何か。前者が貨幣価値と数量化を重視するのに対し、後者は非貨幣的価値(貨幣に換算できない価値=真,善、美など)と質を重視することである。
▽ 反「巨大技術」で、「中間技術」のすすめ ― Small is Beautiful
生産技術では現代経済学は大量生産方式、従って巨大技術を追求するのに対し、仏教経済学は大衆による生産を重視し、従って人間だれしも持っている資源である「良く働く頭脳と器用な手」の活用が中心となる。これは「中間技術」(intermediate technology)の採用、導入を意味する。
シューマッハーは中間技術について次のように指摘している。
「それは技術発展の新しい方向、すなわち人間の背丈に合わせる方向である。人間は小さいもので、だからこそ小さいことは素晴らしい(Man is small, and, therefore, small is beautiful)。巨大さを追い求めるのは自己破壊に通じる」と。
ここでの「Small is beautiful」がそのまま著書のタイトルにもなっている。
巨大技術と中間技術は質的にどう異なるのか。シューマッハー説に耳を傾けよう。次のようにまとめている。
<巨大技術>=暴力的で生態系を破壊し、再生不能資源を浪費し、人間性を蝕む。
<中間技術>=自立の技術、民主的技術、民衆の技術と呼んでもよい。さらに労働集約型、小規模、分散化の促進(地域、管理面での集中の排除)、自己制御の原理の尊重、生態系・環境・資源の保全、人間への奉仕、市場の変化への柔軟性 ― など。
注目すべき点は、現代資本主義にみる巨大技術を「暴力的」と捉えており、一方、中間技術は「民衆の技術」であり、その特色として「労働集約型、小規模、分散化、自己制御」さらに「環境・資源の保全、人間への奉仕」などが挙げられている。例えば原子力発電のような巨大技術は暴力的であり、その対極に中間技術があり、これこそが「人間奉仕」の技術という位置づけである。
<参考資料>
*E・F・シューマッハー著/小島慶三ら訳『スモール イズ ビューティフル ― 人間中心の経済学』(講談社学術文庫、1989年)
*同著/酒井 懋訳『スモール イズ ビューティフル再論』(同、2000年)
*E・F・Schumacher『SMALL IS BEAUTIFUL― Economics as if People Mattered』(HarperPerennial 1989)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年7月2日掲載)より許可を得て転載
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