旧ユーゴスラビィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(7)
- 2012年 2月 10日
- スタディルーム
- 岩田 昌征
15 「共同体」
コザラツにおける衝突準備は両サイドにおいて周到に細部に至るまで作成されていた。
第二次大戦の初期,ムスリム人は親ウスタシャ(クロアチアのラディカル民族主義者:岩田)であって、対セルビア人の残虐行為に参加した。それ故、ムスリム人の古い世代はセルビア人犠牲者の子孫による復讐がありうると内心恐れていた。コザラツとトルノポリエの間にある「共同体」と呼ばれたセルビア人記念墓地は,今度の戦争の前の日々,常にも増してあらゆるムスリム人の意識にのぼっていた。
ハムバリナの衝突の後,1992年5月25日に連邦軍部隊がバニャルカからコザラツを通ってプリェドルへ向かうと発表された(p.42)。連邦軍がコザラツ近くに現れた時,ムスリム人軍の封鎖線と周囲の家から警告もなく部隊に向けて火を吹いた。1台のタンクが動けなくなり,1人のセルビア人兵士が重傷を負った。かくして,コザラツ地域に住むセルビア人とムスリム人の直接衝突に至った。5月25日,26日,コザラツ地域で激闘が展開し,次いで数千のムスリム人兵士と市民が降伏することになった。
プリェドル・オプシティナ危機管理本部は決定した,「保護を求める人々のためにトルノポリエに収容・宿泊施設を設け,工作のために戦争捕虜をプリェドルにおけるケラテルム物件とオマルスカ鉄鉱山『ルードニク』の管理棟と工場に拘束する。」
プリェドル・オプシティナ幹部による思慮を欠いた決定の結果は,後になって,戦争参加者全員にとって悲劇的であることが示された。特に,オマルスカ,ケラテルム,トルノポリエのいわゆる収容所の仕事と何等かの形でかかわった者達にとって。2ヶ月後,オマルスカ,ケラテルム,トルノポリエの諸収容所は解散され,プリェドルとバニャルカ地域からすべての戦争捕虜達が国際赤十字の支援で外国へ出発した。そのほかに,西側の豊かな国々で仕事を得ようと当時の戦争状態をうまく利用したムスリム人達も亦(p.43)。
16 現場にて
1992年5月22日の夜,1人のムスリム人と3人のセルビア人の客がいた。彼等だけは喫茶店「NIPPON」の敷居をまたぐ勇気があった。電話が鳴った。長年の知人ストヤン・プパヴァツからだった。「君がまだコザラツにいるのか,確かめる命令を受けた。」(p.46)。「店にいるよ。」「何を待ってるのだ。すぐに出ろ。おれ達はコザラツ方面への陣地で君の町を砲撃する命令を待っている所だ。」
予想はしていたが,この知らせには全く驚いた。幸いなことに家族はすでにバニャルカに疎開させてある。ところで,町からの出口はすべてムスリム民兵が厳重な見張を立てていた。隣人で友人のトリヴォ・レリチがいた。1958年以来付添看護師としてコザラツの保健所で働いていた。彼はこのSDAの戦闘拠点を最後に脱出したセルビア人の一人だった。
ここに1995年6月7日に彼がプリェドルでこの瞬間を描いた文章がある。「1992年5月22日21時頃,コザラツ保健所の救急室の宿直に向かった。その時そこで働いたたった一人のセルビア人だった。セルビア人医師ドラゴ・ラチマンは道路が封鎖されてやって来られなかった。仕事に行く前にタディチとの約束でランチをつくって,彼の店へ持参し一緒に食べた。1992年5月23日朝6時まで当直した。それが終わって家へ急いだ。家の中庭に多くのムスリム人兵士を見て,家に入るや,息子にすぐコザラツから逃げろと告げた。」「車に乗り込み走らせると,通りの反対側の店の前にドゥシコ・タディチがいた。『どこへ行くのか。』『プリェドルだ。乗っけてくれるか。』……。コンチャラ村で2台の軍用車に気付いた。武装ムスリム人のグループだった。悪名高い犯罪者コレと通称されるスリョ・クスランがいた。彼等が武器を車から下ろしている隙に全速力で封鎖線と彼等の脇をすり抜けた。ドゥシコはプリェドルの中心でおりた。私と息子はそう遠くないスヴォドノ村まで行った。」
レリチと別れて,親類のヴォキチ・ラドヴァンを訪ねた。彼は署長ドルリャチャの個人的ガードであった。それから列車でバニャルカへ向かった。母,妻,幼い二人の娘が待っていた。その日,プリェドル駅は数千の群衆で混雑していた。発車が遅れていた機関車の汽笛が鳴って,みながほっとした。数分後ムスリム人村ハムバリナへの砲撃の音が届いた。翌日午後2時頃コザラツ,私の生まれた町,逃げ出さざるを得なかった町へ攻撃が開始された。
17 恐るべき告訴状
ラジオ・プリェドルが最後通告を放送した。
私に対する告訴状でハーグの検察官は言う,「コザラツ攻撃は猛砲撃で始まり,戦車と歩兵の侵攻がそれに続いた。コザラツに入ると,セルビア人歩兵は一軒また一軒と放火して行った。5月28日までにコザラツの50パーセントが無に帰した。残りの被害は1992年6月と8月の間に発生した。町から住民を一掃した後,セルビア人兵士はコザラツに『生命がなくなる』まですべてを盗み略奪した。コザラツ攻撃に際してセルビア人財産に損害を与えないように注意が払われていた。セルビア人の家々には『手を触れるな』と注意書きがあった。」(p.48) 検察官は,その時にコザラツで起こった事態に対する責任の大部分を私に帰した。いかなる官職もいかなる軍階級も有していなかったにもかかわらず,私がムスリム人住民虐殺で鍵的役割を果たしたとされる。検察官によれば,私は,誰を捕虜にすべきか,誰の家を焼き略奪すべきか,誰を殺害すべきか,を命令した当人であった。男色(あるいは獣姦?;岩田)の故に有罪となったN.S(本文には実名あり;岩田)のような偽証人等を挙げて,検察官は,私が1992年5月26日にセルビア人軍所属16人と共にコザラツのムスリム人警察官6人を捕虜にし,正教会の前に据え,2人を選別して,彼等の喉を切り裂いた,と告発した。そんな犯罪と私は物理的に言っていかなる関連を持ち得ようがなかった。何故ならば,コザラツ攻撃の時,50キロメートル離れたバニャルカにいたからだ。(p.49)
18 敗北者による復讐
(pp.50-51にコザラツとその周辺における戦闘で敗走したムスリム人軍によってその後行われたセルビア人住民殺害の諸具体例が筆者ドゥシコ・タディチによって提示されている。要約紹介は省略する:岩田)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study438:120206〕
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