テント日誌2/7 経産省前テント広場―150日目 テントやテント広場の豊かな機能「夕べの語らい」
- 2012年 2月 9日
- 交流の広場
- テント村住人
このテント日誌は2月7日の分ではあるが 時系列的には逆に書きたい。深夜の3時30分まで不寝番で起きていたので朝はゆっくりと眠っていたかったのだがドイツのテレビ局の取材があるとのことで早目に起きた。宿泊の面々は朝早くから起きてシャッキとしている。室内の掃除などして取材の対応準備をしていたが、来たのは9時半過ぎだった。「3・11から一年後の日本」ということをテーマにこれから本格的な取材をはじめるとのことである。その最初かどうかは定かではないが、早い方の訪問としてテント広場が選ばれたらしい。脱原発運動の可視的な場所が少ないということなのだろうか。
これまでテントには外国のメディアの取材が多く訪れている。その報道でテントの存在を知ったということでテントに立ち寄る在外日本人の方は少なくない。どういう報道されているのだろうということが話題になることもあるが今のところ報道されたものを見る機会はない。日本の報道陣より外国の報道陣の方の取材の方が多いというのはテントにあるものの率直な感想であるが、我々はそこに日本のメディアの報道規制を感じている。政府や東電などの情報隠蔽や情報操作が全体を覆っているためであるように思える。日本のメディアの果たしている役割について疑念が消せない。(テレビ局のTBSが7日の午後かなり長時間の取材をした。最近(1月24日の枝野経産大臣の記者会見以降)は大手メディアの取材が増えている。願わくば、従来のメディアのシステムに風穴をあけて欲しいものである)。
不寝番で深夜まで起きているが時折外に出る。そしてトイレのコンビニまで歩きながらいろいろと想像する。まだ、多くの灯がついているビルを見上げながらこの界隈(霞ヶ関界隈)がこんな風になったのはいつ頃だろうと思う。明治に出来た帝国議会は今の日比谷公園の方にあったらしいから、明治の早い時期からこの辺が権力の中枢をなしていたのは間違いあるまい。山田風太郎の『幻燈辻馬車』が駆け巡った一角でもあったのだろう。官僚制という権力形態は起源の古いものだが、今の官僚たちは何を思想的なよりどころにしているのだろうということが頭をよぎる。明治以降の天皇の官僚が戦後に変わらざるを得なかったことは確かであるがその変化とは何か(?)、今、彼らの権力の源泉になっているものは何かという問いが繰り返し浮かぶ。これは日本国家の意志決定がどういう構造になっているのかを含め考えあぐねているところでもある。
こ経産省の別館には保安院があり、8日にはストレステスト評価に関する意見聴聞会がある。1月18日に続く8回目である。前回は傍聴を締め出しに対する2人の委員(後藤・井野)の抗議と欠席もあり、この聴聞会のインチキ性が暴露された。ストレステストそのものが電力会社(事業主)からの報告であり、再稼働のための儀礼的なものである。安全審査としては疑わしいのである。それに対する保安院の評価と判断があり、さらに専門家の意見聴聞ということだが、この委員の選定まで含めて疑念だらけだ。今回の委員には関連業者から多額の寄付を得て委員が3人もおり、その疑惑も解かないままの続行である。大飯原発や伊方原発の再稼働という戦略に合わせたレールだが、官僚が全てをお膳立てする審議会形態のことから改めなければ実質的な「やらせ」を繰り返すことになるだろう。国民の意志を聴く、あるいは専門家の意見を聴取するとはどういうことか、それがどのように可能かを問い直さなければ「官」によるやらせ(形式的なお膳立て)は直らない。原発震災が暴いた非民主的な政策決定システムを替えることも脱原発運動の課題である。
6日の夕方から夜にかけてのテントは多くの人が集まり、差し入れの牛肉で舌ずつみをしての宴ともなった。テントに立ち寄られた弁護士も参加されてのことだが、今の時代にについて多くの事が話題になった。その一つに孤独死の問題があり、最近では身近なところでの事例が増えている。昨年来、結構親しかった人の孤独死が伝えられてショックだったがこころにひっかかる。テントが生みだす繋がりということを考えるのだが、テントがそんな機能を果たしたらという思いがある。これは過剰な期待なのだろうか(?) 「夕べの語らい」は愉しいものである。飲み屋に足が遠のいたのもこちらの方が愉しいからである。7日の夜は昨日よりは人数は少なかったが話は盛り上がった。冬の寒い夕べのひと時にこんな場が持てるのは素晴らしことである。 (M/O)
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。