メディアもようやく脱「成長神話」へ -若者たちは「分配の公正」に関心-
- 2012年 2月 15日
- 時代をみる
- 分配安原和雄経済成長
メディアの一角に脱「成長神話」説が登場してきた。経済成長論に今なおこだわっているメディアの中では、新しい動きの兆しといえるのではないか。一方、最近の若者たちの間には経済成長よりもむしろ「分配の公正」に関心が向かっている。
高度経済成長時代はすでに遠い過去の物語であり、近年は事実上のゼロ成長(経済規模が横ばいに推移)の時代が続いている。しかしメディア多数派に限らず政府、経済界も経済成長論を捨てきれず、野田首相は施政方針演説で経済成長節(ぶし)を力説した。「分配の公正」を重視する若者たちには「時代遅れの首相」と映ってはいないか。(2012年2月15日掲載)
▽ メディア=もう「成長神話」手放す時
朝日新聞(2012年2月7日付)の「記者有論」に政治部の佐藤徳仁記者が<日本の将来像 もう「成長神話」手放す時>と題して書いている。その趣旨を紹介する。
年始に連載した「エダノミクスVS.マエハラノミクス」を記者2人で執筆した。低成長を受け入れる民主党の枝野幸男経済産業相と、あくまで成長を追う前原誠司政調会長の主張を、大胆に対比させて日本の将来像を探る材料にしたいと考えた。
バブル崩壊後に成人し、厳しい就職戦線を経験した私には、エダノミクスの方が現実感がある。
ネット上では「成長をあきらめれば国は衰退する」という反応が多かった。大阪市の橋下徹市長も自身のツイッターで「新しい暮らしを模索することは必要だと思うが、だからといって製造業の成長を放棄してよいというものではない」。エダノミクスは分が悪かった。
こうした反応は昔もあった。細川内閣も成長を絶対視せず、身の丈に合った社会を目指す「質実国家」を掲げた。考案者の田中秀征元経済企画庁長官によると、閣僚から「経済縮小の容認と受け取られかねない」と反対論が噴出した。
とはいえ、近年の政権が掲げた「成長戦略」は、実現性がほとんどない。「神話」としか思えない。昨年は31年ぶりに輸入が輸出を上回った。輸出主導で高成長めざす従来モデルは崩壊寸前だ。それでもなお「成長戦略」を声高に語る政治家の姿に違和感を抱くバブル後世代は少なくない。
「成長神話」は、景気対策により、膨大な借金を生んだ。将来の「成長」を当て込み、社会保障などの負担も先送りしてきた。そのツケが増税で跳ね返ってくるのは願い下げだ。「人口減少を補うぐらいの成長で十分」とし、製造業中心の輸出型から、医療、介護、農業、教育などの内需型へ産業構造の転換を唱える枝野氏には説得力がある。
「成長神話」を手放して、低成長を前提に政策をつくり、予想以上の成長は「ボーナス」と考える。そんな発想の転換が必要だ。
▽ 若者たち=「分配の公正」に関心
広井良典千葉大学法経学部教授が最新の月刊誌『世界』(2012年3月号、岩波書店刊)に「ポスト成長時代の社会保障」と題して論文を書いている。その論文の中で経済成長に関する趣旨を以下、紹介する。
私がずっと感じてきたのは、現在の学生ないし若い世代の中には、「望ましい社会」の構想や、そうした価値判断を行うにあたっての哲学、あるいは人間についての探求といったテーマ、ひいてはそれを具現化するための、たとえば社会起業家やソーシャルビジネス、あるいは地域再生やコミュニティ活性化といった話題に対して、強い関心を持つ者が非常に多いということである。
こうした関心の方向は、現代の社会における先駆的な動きとシンクロナイズしているように見える。たとえばブータンの掲げる「GNH(国民総幸福)」をめぐる議論は、昨年秋に同国の国王夫妻が来日したこともあって、話題になった。またフランスのサルコジ大統領の委託を受けて、スティグリッツ(アメリカの経済学者。2001年にノーベル経済学賞受賞)やセン(インドの経済学者。1998年アジア初のノーベル経済学賞受賞)といった経済学者が、2010年に「GDPに代わる指標」に関する報告書を刊行したが、こうしたテーマに関する学生の関心は高く、ゼミでも様々な発表が行われる。
その基本的背景の一つは、従来のように、経済成長あるいはGDPが増加すれば人々は幸せになれるといった単純な時代ではなくなっているという感覚が、若い世代の間で共有されているという時代の状況だろう。
もう一点つけ加えると、社会保障や税の議論で、哲学あるいは原理・原則に関する議論が不可欠なのは、それが「分配の公正」に関するものだからである。高度成長期にはいわば「成長が分配の問題を解決」してくれた。
現在はそのような時代ではない。一定の世代以下では、成長が分配の問題を解決してくれるといった幻想はなくなっているし、また分配の公平や公正といったテーマに関する人々の関心は高まっている。
▽ <安原の感想> 首相は「時代遅れの不健康なおじさん」か
朝日新聞の<「成長神話」手放す時>の筆者が経済記者ではなく政治記者であるところに新鮮味を感じる。大手メディアの経済記者の場合、成長神話から自立できないケースが多い。つまり「経済」といえば、「成長」という思いこみから経済記者の多くは脱却できないようだ。もっとも朝日の<「成長神話」手放す時>も、正確に読み取れば、「低成長」のすすめであり、決して「脱成長」論ではない。それにしても政治記者が<「成長神話」手放す時>という感覚で経済を論じる姿勢には教えられるところが少なくない。
もう一つ、上述の『世界』論文は、最近の若者たちは経済成長に対する幻想を抱いていないことを指摘しており、これまた新鮮な響きがある。いいかえれば<経済成長=豊かさ・幸せ>という等式を信じてはいないというのだ。若者たちの関心は、経済成長よりもむしろ「分配の公正」に向かっている。
さて野田首相の施政方針演説(1月24日)の全文を読み直してみた。私(安原)の関心事は「経済成長」、「再生」という文言がどの程度繰り返し使われているかである。数えてみると経済成長は7回、再生は15回である。
再生は「日本再生元年」、「日本経済の再生」、「福島の再生なくして日本の再生はない」など。一方、経済成長は「我が国が力強い経済成長を実現」、「新成長戦略の実行を加速」などの言い回しで使われている。
再生の文言が多用されているのは、「3.11」後の再生、つまり復元、復活、新たな地域づくりと経済発展が不可欠であることを視野に収めれば、当然のことである。
しかし経済成長は再生とは異質である。経済成長という概念には経済発展すなわち経済・生活の質的発展・充実という意味は含まれてはいない。
プラスの経済成長(国内総生産=GDPでの財とサービスの量的増加)にこだわることは、人間の身体にたとえれば、体重を増やし続けることを意味する。絶えざる体重増加は、しなやかな健康体という望ましいイメージに反するわけで、野田首相の「新成長戦略」は、すなわち「新不健康戦略」を意味するともいえる。これでは「分配の公正」こそ肝心と考える若者たちにとって首相は「時代遅れの不健康なおじさん」と映るのではないか。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(12年2月15日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1827:120215〕
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