旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(9)
- 2012年 2月 21日
- スタディルーム
- 岩田昌征
22 弾丸ははずれた
モニカ・グラスがヤンコヴィチの助力でつくったドイツ・テレビのルポルタージュは世界に大きな反響を呼んだ。私のまわりに危険な網がはりめぐらされていると言う最初の警告であった。
1993年7月 ドゥシャン・ヤンコヴィチは腹心の一人に私をプリェドルの公的生活から排除するように秘密に命じた。その男とはハーグ法廷で対面することになった。保護された証人CTである。裁判官の前でその場の状況を詳細に述べ、その命令を拒絶したと語った。ヤンコヴィチは別の殺し手を見付けた。クラドゥシャ生まれ、犯歴のある予備役、ラパと通称されていた。
1993年8月15日、コザラツから帰る途中、あるガソリン・スタンドの前に止まった。近くの喫茶店に入ると、長年の友人ドラガ・ヴィドヴィチとゴラン・ボロヴニツァを見付けた。二人はコザラツ攻撃に参加しており、ボロヴニツァはその後プリェドル警察で働いていた(p.58)
外のトイレへ行った。自動小銃を構えた覆面の男が私をさえぎった。本能的によけると弾丸ははずれた。カラシニコフの銃身の側面を左からはたいた。銃声がし、弾丸ははずれた。襲撃者をつかみ、右手で顔面にくらわせた。私達ははげしくカラシニコフをとり合った。熱いアスファルト上で彼の腹に上乗りになり、片手で銃をアスファルトへ向けさせ、別の手で自分のピストルを抜いた。彼の口の中へそれを突き込んだ。
まわりに沢山の人々がいた。ゴラン・ボロヴニツァは私に「ドゥシコ!彼をはなせ」、襲撃者に「武器を渡せ、馬鹿め!」と叫んだ。彼は自動小銃をはなし、立ち上がり、脱兎の如く逃げ去った。
ラパはその日のうちに逮捕され軍監獄に入れられたが、2・3日後に釈放された。私は、軍検察官トミチに「何故」ときくと、「証拠がない」と言われた(p.59)。「個人的に異議申し立てたらよい。但し戦争中は駄目だぞ。」
ラパが後に認めた所によれば、私の遺体を最高の軍名誉でもって埋葬し、墓標に「ムスリム人」が殺したと刻記する計画がたてられていたと言う。ガソリン・スタンド事件の数日後、プリェドルの軍公安関係者が私の生命が狙われていると警告してくれ、誰によって、何故かをも語ってくれた。私はバニャルカの弟(or兄)の所へ母を、妻と子供の2人をミュンヘンへ送った。そして私は身をかくした。ゴラン・ボロヴニツァがバニャルカで逮捕、投獄され、戦場へ出され、そこで謎めいた状況下で殺されたと聞いて、すべてが鮮明になった。私はベオグラードへ行き、3ヶ月後家族のいるドイツへ出立した。
ドイツへはユーゴスラヴィア空手代表団として行ったことがある。私は8歳の頃からこの高貴な技を学んだ。黒帯四段の空手師範の称号を得ていた。空手の本質は精神的・肉体的自己統制力の形成である。長い監獄生活中、毎日数時間練習した。空手のおかげで心理的・肉体的健康を維持できた。しかしながら、何回か困難な瞬間があった。自殺を考えたのだ。帯を首にまきつけ引っ張った。しかし、私の事件に関する真実と闘争への欲求の方が強かった(p.60)。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study442:120221〕
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