附属文書Bとハル・ノート
- 2012年 2月 22日
- スタディルーム
- ハル・ノート岩田昌征附属文書B
2月6日はちょうど13年前(1999年)にパリ郊外のランブイエ城でSRJ=新ユーゴスラヴィア(セルビアとモンテネグロから成る連邦国家)のコソヴォ危機解決のために国際会議が開始された日である。それは1999年2月23日まで続いた。失敗に終わり、3月におけるパリ交渉を経て、3月24日にNATO空軍の対セルビア大空襲が断行され、6月10日まで連日連夜続くことになる。空襲が始まったと知るや、私は急遽ブタペストへ飛び、そこから唯一働いていた交通手段、私営ミニバスを見付け、苦労してヴォイヴォディナに入り、空爆で破壊される直前の橋を走って、ドナウ河を越え、ベオグラードに着き、ただちに1日に一本だけ動いていたコソヴォ行きのバスに発車直前に飛び乗り、とうとうコソヴォのコソフスカ・ミトロヴィツァに来てしまった。大通りに人影なし。ベオグラード方面への交通機関一切なし。前線へ向かう軍用車輛のみ動いているという所に4月の始めに一人立っていた。その時、私は「附属文書B」の存在も、その内容もいっさい知らなかった。勿論、この戦争があの挑発的文書で始まったことも。
ベオグラードの日刊紙「ポリティカ」(2012年2月6日)は「ランブイエ交渉開始記念日」なる解説記事をのせた。私は、そこにセルビア代表団(団長・副首相ラトコ・マルコヴィチ以下13人)が「テロリストとの直接会話」を拒否して、コソヴォ・アルバニア人代表団と直接交渉せず、その結果国際仲介者を媒介するいわゆる「シャトル交渉」が行われたと言う解説を読んで不審に感じた。そんなはずは?と言う感じであるが、セルビアの権威ある「ポリティカ」紙だから、セルビア側に不利なことも事実だから書いたのであろうと納得しかかっていた。
ところが2012年2月9日の「ポリティカ」紙にジヴァディン・ヨヴァノヴィチ(1998-2000年、SRJ外相)が「ランブイエ 交渉もなければ 協定もなし」を書いて上記の解説に反論していた。要約紹介しよう。
セルビア代表団が直接交渉を拒否したと書かれているのは事実ではない。何回となく仲介者に両代表団の直接交渉を要求した。証拠文書もあるし、代表団13人全員から確認できる。アメリカの仲介者クリストファー・ヒルはアルバニア人側が直接交渉を望んでいないと回答した。実際は、アメリカが直接交渉を望まなかったのだ。当時から明白であった。
解説にある通り、我々は2月23日に国際仲介者によって提出された解決協定案の前半=政治的部分を原則的に承認し、後半=附属文書(Appendix B : Status of Multi – National Military Implementation Force : 岩田)を拒否したのである。それによれば、NATO軍はSRJ(新ユーゴスラヴィア)の陸、海、空の空間と諸施設を自由に使用する。外交官免責を享受する。SRJで犯した犯罪や与えた被害に対して刑法的、民法的責任を問われない。文民の服装の時でも武器を携行できる。SRJにおいてすべての周波数の電波を常時使用できる(つまりテレビ、ラジオ、警察用、救急用等の電波を告知も補償もなしに使える)。SRJにおいて裁判所、その他国家機関の承認なしに常時あらゆる人(SRJ市民)を逮捕できる。
ここで、新ユーゴ(≒セルビア)を大日本帝国、コソヴォ問題を中国問題、そしてNATO軍を米英軍に例えることが出来よう。昭和16年11月26日、アメリカはハル・ノートを日本に突きつけた。すでに単冠湾を発進していた帝国機動部隊が引き返し、大東亜戦争が回避されるためには、12月1日の御前会議において昭和天皇が全員の反対を押し切ってハル・ノート受け容れを決断する事が必要条件だったろう。仮に御聖断によってハル・ノート受諾となったとしても、それが大戦回避の必要十分条件となったか否か、1999年2月23日のアメリカ外交の手法を見てしまった現在、私は懐疑的にならざるを得ない。ハル・ノートの内容は1999年2月23日「コソヴォにおける平和と自治のための暫定協定」案の前半=政治的部分に当たる。当然、後半の協定実行関連附属文書Bに対応する諸要求がただちに出されるはずである。例えば、ハル・ノート「三、日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」を実行させ、その実行を監視・保証するために、ハル・ノート附属文書Bが作成され、「英米軍は日本国の陸、海、空の空間と諸施設を自由に使用する。」等々の文章が銘記される。
東京裁判で印度のパル判事が述べたと言われるように、ハル・ノートだけでもモナコやルクセンブルグのような小国でさえ立ち上がる。ましていわんや、文書B的文書が突きつけられれば。ジヴァディン・ヨヴァノヴィチは、アメリカのヘンリー・キッシンジャーの一文を引用している。「ランブイエのテキストはユーゴスラヴィア全領土へのNATO軍駐留が要求されており、挑発であった。空爆開始の口実であった。ランブイエの文書はセルビア人なら誰一人認めないようなものだった。こんなおぞましい文書を提出すべきではなかった。」(「デイリー・テレグラフ」1999年6月27日)
無謀と言えば、人口1千万に満たぬセルビアが全NATO相手に戦争を覚悟してノーと言ったのは、連合艦隊を有した大日本帝国が大東亜戦争に踏み切った以上にはるかに無謀であったろう。しかし、歴史には強制された無謀もある。但し、今回はバルカン政治家のねばり腰に苛立って先に手を出したのはアングロ・アメリカンであった。
〔平成24年2月15日(水)〕
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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