「河村市長への抗議文」への返信への返信
- 2012年 3月 4日
- 交流の広場
- 増田都子
河村たかし市長への抗議文をご紹介しましたが、あるMLで以下のように返信があり、もしかしたら、こういうふうに思ってしまう方も他にいらっしゃるかな? と心配になりましたので、私の返信と共に、ご紹介します。
<○○さんより増田へ>
おつかれさまです。
web 上で検索しても両論ありますね…。
一番確実なのは物証、ということになるのでしょうが、この方面はどうなってるのでしょう。遺骨調査は南方諸島や硫黄島でも行われていますし。
あくまでも客観的事象からの見方になり、人間味が薄いというのは感じますけども。遺骨が出てきたとして、銃創があればその痕跡などからも判別ができるかもしれません。
検証するのは第三者、とはお決まりかもしれませんが。とはいえポルポト派の仕業による遺骨群の写真はおぞましくて扱いに困るのも確かですが。
<増田より○○さんへ「『両論』は騙しの手口」>
こんばんは。増田です。返信、ありがとうございました!
>web 上で検索しても両論ありますね…。
>
「web 上で検索し」たら「両論あります」が、まともな判断力を持つ歴史研究者たちの研究の結果は「一論」しかありません!!! この「歴史研究者たち」は日本と中国両方を含めてです。一例を挙げれば、2006年10月「安倍晋三首相の訪中時に首脳会談で合意、日中両国政府主導で同年12月に双方の学者ら有識者が集まりスタートした日中歴史共同研究委員会」(両国政府による委員会)の見解(2010年)によっても
「虐殺行為に及んだ日本側に責任があるとの認識では、一致した。犠牲者数は、中国側の30余万人、日本側の20万人を上限に四万人、二万人などさまざまな推計がある」です。「数字」は合意できなかったとしても、「虐殺行為」については、全く「一致」しています、それも「日本側に責任がある」と「一致」しているのです。なにしろ、安倍晋三の肝いりですから、「日本側学者」にしたって、『近現代史分科会』は以下の5人で、私から言わせれば、「政府寄り」です。「御用学者」なんて、言いませんからねっ(笑)。
・北岡伸一 東京大学法学部教授 【座長】
・小島朋之 慶應義塾大学総合政策学部教授(逝去)
・波多野澄雄 筑波大学大学院人文社会科学研究科教授
・坂元一哉 大阪大学大学院法学研究科教授
・庄司潤一郎 防衛庁防衛研究所戦史部第1戦史研究室長
>一番確実なのは物証、ということになるのでしょうが、この方面はどうなってるのでしょう。
>
「物証」は、たくさんあり過ぎて数え上げるのがムリなほどです。「物証」を蒐集公表している日本側基本資料としては、偕行社『南京戦史資料集Ⅰ・Ⅱ』 や洞富雄編 『日中戦争 南京大残虐事件資料集』第1・2巻青木書店、松岡環編・加害証言集『南京戦』社会評論社があります。
偕行社は、そのHPには「明治10年2月15日、陸軍将校の親和・研鑽を目的として東京千代田区に設置されました。昭和32年に財団法人として官庁の認可を受け、戦没者の慰霊顕彰を中心とした伝統の継承を続けています」と出ています。これでお分かりのように、基本的に旧陸軍将校及び「大東亜戦争」を肯定擁護する立場の人たちですが、ここに載っている旧陸軍将校の日誌には「物証」が山ほどあります。
たとえば、第16 師団長・中島今朝吾の日記はネットで見られます。http://kknanking.web.infoseek.co.jp/butaibetu/16D/sireibu.html
1937年12月13日の南京陥落の日の記事は「一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたるも千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失いゾロゾロついて来るから安全なるものの之が一旦騒擾せば始末に困るので部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ十三日夕はトラックの大活動を要したり乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり 」
捕虜虐殺は「南京大虐殺」の犠牲者の多数を占めます。また、南京大虐殺は、12月~2月までの約2か月(これは「一応』の治安が回復した時点)に及びましたから、多数の外国人の証言・写真、映写フィルム(アメリカ人牧師のマギーフィルムが有名)という「物証」が、これも挙げるのが困難なほどに、たくさんあります。
一例だけ挙げておきますと、伝道師のアメリカ人女性で金稜(南京の古名)女子大学の教員として一万にものぼる女性難民を守るために貢献したミニーヴォートリンの日記『南京の日々』(大月書店)も、読み進むのが息苦しくなるほどのナマの「物証」です。彼女は他の女性を守るために日本兵の要求「100人の性奴隷の提供」要求を飲んだこともあると思いますが精神が壊れ、ついには帰国後、強度の鬱病で自殺してしまいます。
それから、一家の大多数を虐殺されながら生き残った証人も、まだまだ南京にはいらっしゃるわけで、一例を挙げれば、夏淑琴さんは、札付きウヨク学者の東中野修道から著作で「ニセ証人」と誹謗中傷され、日本で裁判(東京地裁・高裁・最高裁)しました。彼女の完全勝訴でした。あの官僚裁判官でさえ「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言っても過言ではない」と断言し、これが最高裁でも確定しています。
ですから、上記したような、私に言わせれば「政府寄り」という学者でさえ、「物証」という資料に基づいて判断すれば「虐殺行為に及んだ日本側に責任があるとの認識では、一致」するのです。
> 遺骨調査は南方諸島や硫黄島でも行われていますし。
>
以上、ちょっと、書き出しただけでも、全く、その必要は爪の垢ほどもないことはお分かりいただけるのではないでしょうか?
東京裁判で特異な日本無罪論を展開してくれたので、日本ウヨクが大好きな、あのパル判事・・・靖国神社に立派な銅像があります!・・・でさえ、判決書では「本件において提出された証拠に対し言い得るすべてのことを念頭において、宣伝と誇張をでき得る限り斟酌しても、なお残虐行為は日本軍そのものがその占領した或る地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である。」
まとめますと、「両論」は無いのです! 「証拠は圧倒的である。」のですから・・・それを「両論ありますね」=「本当に一般市民・捕虜に対する大虐殺があったかどうか、真実は分からないのですね?」という方向に持っていきたいがために、ネトウヨ・ウヨク学者・右翼政治屋たちウゾウムゾウのウヨクたちは総出で、繰り返し、繰り返し、「ウソも百回言えば本当になる」を実行しているのです。今回の河村プラス石原も、その騙しの手口を踏襲しているだけです。
したがって○○さんが、「両論ありますね」と書かれたことは、連中が大成功していることを証明します。残念です。
なお、『中央公論』特派員として、南京大虐殺の見聞を『小説』として『生きてゐる兵隊』に書き、これは戦争そのものは「聖戦」としたものですけど、「創作」と言いつつ、「あるがままの戦争の姿を知らせる」(初版自序)としたので、虐殺がリアルに描かれており、「皇軍を『誹謗』した」として有罪・・・執行猶予つきですが・・・となりました。ついでながら、増田サンは扶桑社の歴史教科書を「歴史偽造」教科書と教えて、扶桑社を『誹謗』したと、免職されました(笑)。本当は笑ってはいられないんですけどね・・・
その石川達三さんのインタビュー記事を載せます。
石川達三(1946年5月6日「読売新聞」)
「入城式におくれて正月、私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだった、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた。また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬った。しまいには弾丸を使うのはもったいないとあって、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるようにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切って、河中へ突き落としたり、逃げ口をふさがれた黒山のような捕虜が戸板や机へつかまって川を流れて行くのを下流で待ちかまえた駆逐艦が機銃のいっせい掃射で片端から殺害した。戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思った。
三重県からきた片山某といふ従軍僧は、読経なんかそっちのけで殺人をして歩いた。左手に数珠をかけ右手にシャベルを持って民衆に飛び込み、逃げ惑う武器なき支那兵をたたき殺して歩いた。その数は廿名を下らない。彼の良心はそのことで少しも痛まず、部隊長や師団長のところで自慢話していた。支那へさえ行けば、簡単に人も殺せるし、女も勝手にできるという考えが、日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか。ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知っていたかどうかは知らぬ。『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるが、それが師団長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかった。何れにせよ南京の大量殺害というのは、実にむごたらしいものだった・・・」
「一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺」され、女性は容赦なく強姦され、殺されたのです。「何れにせよ南京の大量殺害というのは、実にむごたらしいものだった」ので、「両論」など、有り得ないのです!
河村や石原その他のように21世紀の今に至っても(「21世紀の今」だから、でしょうか?)「大虐殺は無かった」なんぞと、しょーもないデマを厚顔無恥に主張するのは、およそ「原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言っても過言ではない」と言われるに値するものなのです。
それは、「両論ありますね」という日本人を増やし、「本当に一般市民・捕虜に対する大虐殺があったかどうか、真実は分からないのだなぁ」という日本人を増やしていくための、連中の常套手段の騙しの手口ですので、どうぞ、お気を付けください!
追伸
それから、虐殺数ですけど、先ず、時期をどう取るか? 南京陥落の「1937年12月13日~一応の『治安回復』の2月・・・組織的虐殺は終わった・・・までの6週間」とするか、「南京入城前の戦闘における残虐行為~、まだまだ、虐殺があった3月末ぐらいの範囲までにするか」という時期によっても統計数字が異なるでしょう。
次の問題は、「南京」の範囲をどう取るか? でしょう。
1.南京安全区……南京城内の一区画
2.南京城内……城壁に囲まれた範囲(大体、山手線内の範囲と近いようです)
3.南京市……2の城外に隣接する市街地および近隣の農村部(郷区)を加えた地域
4.南京特別市(南京行政区)…3を含む江寧県など六県から成る広大な行政区(大体、東京都と埼玉県と神奈川県を加えた範囲と近いようです)
虐殺数を少なく見積もる場合は、期間を短く、範囲を狭くした場合でしょう。東京裁判判決では・・・日本政府は、これをサンフランシスコ条約で「受諾」することによって、「独立」を回復したのです・・・以下のようになっています。
「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万人以上だったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が十五万五千に及んだ事実によって証明されている。これらの団体は、また死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き捨てられたり、揚子江に投げこまれたり、または、その他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていない」
東京裁判判決は「最初の6週間に南京とその周辺で殺害された」という限定でカウントしています。ですから、時期と「周辺」の範囲を広く取れば「30万人虐殺数」もカウントできるのではないかと思っています。したがって、「6週間の南京市の範囲」をとると「20万人」は妥当な数字と私は見ますが、たとえ、最低の数を主張している学者の「2万」という数字にしても「大虐殺」というに十分、値するのではないでしょうか?
「何百何人まで、正確でなければ、その数字はデマだ」というなら、東京大空襲の「約十万」だって、広島の原爆死「約二十万」だって「デマだ」ということになってしまうでしょう・・・
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