フランス革命後のドイツ社会思想――フォルスター・ヘルダー・フィヒテ・カント・ノヴァーリス(3)
- 2012年 3月 14日
- スタディルーム
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2.フランス革命後のドイツの知識人の反応
こういう情況のもとで、1789年フランスで起こった革命のドイツへの影響は、とりわけ知識人への欲求、新しい時代を渇望する青年知識人には、殊の外、大きかったといえよう。ここに一つの報告がある。「フランス革命によって刺激された熱狂的雰囲気は、テュービンゲン神学院の平穏な生活のなかにまで波及したが、当時まだヴュルテンベルク公国に属していたライン彼岸の伯爵領メンペルガルトからの学生たちは、時局に対してとくに熱っぽい関心を抱いていた。かれらにとってテュービンゲンは自分らの郷土の大学であり、自分らに奨学金を提供してくれているのである。今やここには〈政治クラブ〉がつくられ、日刊新聞が熱心に読まれ、もろもろの事件が語られた。そして感激は高まり、ある晴れた春の日曜日の朝、若い自由愛好者たちはテュービンゲン郊外の牧場にどっとくり出していって、フランスの手本にならった〈自由の樹〉を植えた。」(1) このことは、フランス革命の受け止め方がいかに大きなものであったかということを証左する一例であろう。
もちろん、こういう情況下にあって、革命の推移のなかでこれに距離をおいていた醒めた知識人もいた。ゲーテ、あるいはフンボルトがそうであった。そうした様々な知識人中、ここではまず、フランス革命の意味について終生問い続けた知識人をみてみよう。
1789年、まだ19歳に満たなかったベートーヴェンは、ブロイニング家を介してこの年の5月14日にボン大学に聴講生の届けを出した。ドイツ文学の講義を聴くためであった。当時、フランスでは三部会が召集され、翌月には国民議会が開かれ、7月にはバスティーユ襲撃が行なわれ、自体は刻々と推移していった。このニュースはただちにドイツにも伝わり、フランス革命支持者も増え始めた。そのなかにボン大学教授オイロギウス・シュナイダーがいた。ロマン・ロランはこう伝えている。「バスティーユ占領の報がボンに伝わったとき、シュナイダーは講演で熱烈な詩を朗読して学生たちを感激させた。」(2) シュナイダーの講演を聴いていた学生たちのなかに若いベートーヴェンのいたことが確認されている。ロマン・ロランは言う。「翌年彼(シュナイダー―二本柳)は革命的な詩集を出したがその予約申込者の中に、ホームムジークス・ベートーヴェンの名とブロイニング家があった。」(3) ベートーヴェンに影響を与えたとされるシュナイダーは、詩集出版の後、職を辞してシュトラスブルクに行き、ジャコバン主義者となった。(4)
音楽家として身を立てる準備を始めていた青年ベートーヴェンが、フランス革命からどんな知識を吸収していたかは明らかにできないが、後年かれのもとを訪れたブレーメンの言語学者ミュラーの報告から、その一端を理解することができよう。ミュラーは、その時のベートーヴェンをこう伝えている。「彼の世界主義的な独立の感覚のため……以前に始まった会話を何度もくり返して、よくつつましい食事をしたレストランなどで続けたり、政府のことやら警察のこと、貴族の風習など何でも、批判的な嘲笑的な態度で自由率直に意見を述べたのであろう。警察はこのことを知っていたが、彼が奇人であるためか、あるいはすばらしい芸術的天才であったために、そっとしておいたのであろう。」(5) ベートーヴェンが周囲からどう評価されていたにせよ、かれが批判の対象にしていたのは封建的桎梏以外の何ものでもなかったのである。彼のこうした意見がフランス革命と切っても切り離せないものであることは言うまでもない。
1794年、ロベスピェールが処刑されるが、その時24歳だった若きヘーゲルは、シェリング宛にこう書き送っている。「カリューが断頭台に上ったニュースは知っているかい。相変わらずフランス新聞を読んでるかな。僕の記憶に間違いなければ、ウィルテムベルクではフランス新聞が禁ぜられたことを聞いた様な気がする。この審理が非常に重要なんだ。ロベスピェール一派の醜状がすっかりさらけ出されたよ。」(6) このシェリング宛の手紙から、他のドイツの青年と同様ヘーゲルもまた、フランス革命の動向に相当な関心をもっていたことが理解されよう。
青年の時にもっていた瑞々しい感性は年とともに枯渇していく、とはよくいわれることであるが、ヘーゲルの場合はそうでなく、晩年に至ってもなおフランス革命のもつ世界史的意義を忘れていない。「これ(フランス革命―二本柳)は輝かしい日の出であった。思惟をもつ限りのすべての者はこの新紀元を祝った。崇高な感激がこの時代を支配し、精神の熱狂は、恰も神的なものと世界との実際の宥和がここにはじめて成就されたかのように、世界を震撼させたのであった。」(7)
1789年、ベートーヴェン、ヘーゲルはともに、青春の出発点に立っていた。かれらを含めて、「1790年代に青年だった人々についていいうることは(フランス革命の影響は―二本柳)」国民全体にとってあてはまるだろう。」(8) 革命の年、既に65歳になっていたカントは、革命後の著作においてこう表明している。「現在われわれの眼前を進行している精神豊かな民族の革命(フランス革命―二本柳)は、成功するかも知れないし、また失敗するかも知れない。それは公平な人なら、たとえそれを今一度試みることができるとしても、そんな高価な犠牲を払った実験をやろうとは決意しないような悲惨と血なまぐさい行状とに満ちているかも知れない。しかし、わたしが敢えて言うなら、この革命は自らはこの運動のなかにまき込まれていないで、それを眺めている全ての人々の心のなかに、ほとんど熱狂に近い共鳴、しかもその表明は危険を伴うような共鳴をひき起こしたのである。」(9) カントは沈黙を破って、この世界史的大事件に賛意を表したのであった。
カントのこうした評価とならんで、フィヒテもまたフランス革命を「人間の権利と価値という偉大なについての多彩な絵巻物である」(10)と積極的に賛意を表することを惜しまなかったのである。
ここに紹介したベートーヴェン、ヘーゲル、カント、フィヒテは、終生、フランス革命に変わらぬ賛意をもっていたが、しかし、フランス革命に否定的な見解をもっていた人、あるいは当初は好意的だったが革命後に心変わりした人、革命に距離をおきこれを見守った人もいた。ここではゲーテを取り上げてみよう。
ゲーテは、晩年の1824年、既に74歳の高齢になっていたが、フランス革命について、エッケルマンに次のように語った。「私がフランス革命の友になりえなかったことは、ほんとうだ。なぜなら、あおの惨害があまりにも身近かでおこり、日々刻々と私を憤慨させたからだ。同時に、その良い結果は、当時まだ予測することもできなかった。それにまた、フランスでは大きな必然性の結果であったのと同じ場面を、ドイツでもに惹き起こそうと目論んでいる連中がいるのに、私は知らぬ顔をしているわけにはいかなかったのだよ。だからといって、私は、横暴な専制主義の友でもなかったのだ。また、どんな革命も決して民族に責任があるのではなく、政府に責任があると堅く信じていた。政府がいつも正しく、絶えず目覚めていて、したがって革命に対して適宜に適した改良で対処し、下からの圧力で止むをえざる事態になるまで抵抗するといったことがなかったら、革命などまったく起こらない筈だ。ところが、私が革命を憎んでいたというわけで人びとは私をと呼んだ。だが、これははなはだあいまいな肩書きで、私としては辞退したいよ。もし、現存するものがすべてすぐれたもので、申し分なく正しいのなら、私もこの肩書きに反対することはないのさ。けれども、良いものが多くあると同時に、悪いもの、不正なもの、不完全なものも多く現存する以上、現存するものの友というのは、しばしば時代おくれなもの、悪いものの友というのとさして変わらないことになるわけだ。しかし、時代はたえず進歩しつつある。人間のやることなどは、50年ごとにちがった形態をとるのだから、1800年には完全であった制度も、1850年にはもう欠陥となってしまうだろう。」(11)
若い頃から晩年に至るまで、終始、フランス革命に距離をおいていたにせよ、ゲーテにとってフランス革命の動向は、絶えず関心の的に成っていたのは否定できない。
註
1.Kuno Fischer, Hegelslehren, Werke uhd Lehre Heidelberg 1901, Darmstadt, 1963. 玉井茂・磯江景孜訳『ヘーゲルの生涯』、勁草書房、1971年、25ページ。
2.Romain Rolland, Vie de Beethoven. 片山敏彦訳『ベートーヴェンの生涯』岩波文庫、25ページ。
3.Romain Rolland, 前掲書、26ページ。
4.Aris, ibid., p.42.
5.Frida Knight, Beethoven and the age of revolution. 深沢俊訳『ベートーヴェンと変革の時代』法政大学出版局、1976年、111-2ページ。
6.Briefe von und an Hegel, G.W.F.Hegelswerke, Bd.19, Leipzig, 1887. 小島貞介訳『ヘーゲル書簡集』日清堂書店、1975年、167ページ。
7.Hegel Werke in zwanzig Baenden, 12: Vorlesungen ueber die Philosophie der Geschichte, Frankfurt am Main, 1970, S.529. 武市健人訳『ヘーゲル全集』10b、改訳『歴史哲学』下巻、岩波書店、1969年、311ページ。
8.Golo Mann, Deutsche Geschichte des 19 und 20 Jahrhunderts, Frankfurt am Main, 1966. 上原和夫訳『近代ドイツ史』みすず書房、1982年、30ページ。
9.Kant, Der Streit der Fakultaeten, Felix Meiner, 1975, S.84.
10.Fichte, Beitrag zur Berichtigung der Urteile des Publikums ueber die Franzoesische Revolution, Felix Meiner, 1973, S.3.
11.J.P.Eckermann, Gespraeche mit Goete in den Letzten Jahren seines Lebens III, 1848. 山下肇訳『ゲーテとの対話』下巻、岩波文庫、1976年、48-9ページ。エッケルマンの『ゲーテとの対話』は、当時の知識人として最高峰に属するゲーテが、政治的、社会的情況をどう捉えていたのか、ということを知る上で貴重な文献であると言える。
3.フランス革命の政治的原理
然からば、青年層から老年層に至るドイツ人が、どういう点でフランス革命に巻き込まれていったか、ということが問題になる。換言するならば次のように言える。フランス革命に好意を寄せた人たちは、革命のどういう点に共鳴し、賛意を惜しまなかったのか。反対に、革命に敵対する人たち、一定の距離をとっていた人たちは、革命のどういう点に異議を挟んだのか。ここではその問題の概略を掴まえる意味で、「人権宣言」の内容を検討することにしょう。
フランス革命の宣言、つまり、人および市民の権利宣言においては、次のことが宣言されている。第1条「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。(以下略)」 第2条「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。」 第4条「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する。(以下略)」 第6条「法は、総意の表明である。すべての市民は、自身でまたはその代表者を通じて、その作成に協力することができる。(中略)すべての市民は、法の目からは平等であるから、その能力にしたがい、かつその徳性および才能以外の差別をのぞいて平等にあらゆる公の位階、地位および職務に就任することができる。」 第11条「思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがってすべての市民は、自由に発言し、記述し、印刷することができる。(以下略)」(1)
このような内容から、この人権宣言は、まず人は自由かつ平等であるという生存権=自然権の確認、そしてこの権利は国民にあるという「国民」の原理、続いて、民主主義の原理、諸個人の差別によらない職業の選択、思想および意見の伝達の自由、出版の自由、等々を謳っている。ここで本稿にとってとくに重要な点は、いわゆる層を「国民」という原理で捉え、新しい歴史がこのような「市民」=「国民」原理によって推し進めなければならないことを確認していたことだ。否、そればかりではない。革命前、国王の統治能力に不信をを懐き、また、経済的に財力を蓄えた「市民」層は、旧勢力打倒のために農民や職人など貧しい人民階層を味方につけざるを得なかった。「ブルジョワジーは、貴族の抵抗のため、平等を前面におし出さざるをえなかった。このようにしてブルジョワジーは人民を味方につけ、勝利することができたのである。」(2) したがって、「フランス革命は、統一の革命であった。自由で平等なフランス人は、一つののである。フランス革命はまた個々人と同じように。それは。(傍点部―二本柳)」(3) 世界史の推移を先取りしていうならば、19世紀ヨーロッパ諸国の国民的自由運動は、フランス革命の人権宣言のこの「国民」原理と密接に結びついたものであった。
このようにみてくると、ベートーヴェン、カント、フィヒテ、ヘーゲルが革命に賛意を惜しまなかった理由、根拠が明らかとなる。それは封建的諸制度の撤廃、自由・平等という生存権においてであった。革命に好意を寄せた人たちは、要するに自分の力で生計を稼がねばならない市民層であった。また、革命に反対したりこれに一定の距離をおいた人たちの理由も明らかとなる。それは、革命によって権利の主体が「国民」=「市民」となり、法はそれなくして成立しなくなることである。また革命によって成立する職業選択、思想および良心の自由、出版の自由も脅威であった。かれらのなかには、例えばレーベルク、ゲンツ、ノヴァーリス、ゲーテ、フンボルトらが含まれる(4)。
フランス革命という世界史の一大転換点という局面からドイツの近代社会思想を鳥瞰するならば、それはまずこの革命によって触発され、やがてその推移によっていっそう触発されていく。その際、ゴーロ・マンの次の発言が意味をもつと言える。「革命の支持者から反対者や保守派に、またはコスモポリタンからナショナリストに転じたもの、あるいは政治的に無色透明な哲学の塔に逃げ込んだもの、あらゆる時代の矛盾に対して巧みに妥協的立場を考えだして、そこに落ち着いたものなどさまざまであったが、いずれにしても彼らは歴史的な彼らの学問的一生のはじめに立ちはだかっていたものから完全に離れ去ることはできなかった」(5)のである。フランス革命後のドイツ社会思想は、ゴーロ・マンの言っている内容にほぼ集約されるといってよい。
以下において、ゴーロ・マンの発言に即して1790年代ドイツ社会思想の諸形態を考察することとする。まず次章において、フランス革命を最も身近かで知り、実践していったゲオルク・フォルスターの生涯と思想とを検討する(6)。 フランス革命後、フォルスターはライン河地方のマインツで、同市をフランス革命の政治的原理に倣って共和国にするべく政治的な烽火をあげたのであった。
註
1.高木八尺・末延三次・宮沢俊義編『人権宣言集』岩波文庫、1971年、131-2ページ。
2.Soboul, ibid.. 小場瀬卓三・渡辺淳訳『日本の読者へ』iiiページ。
3.同上、ivページ。
4.ゲーテもフンボルトも貴族の出身であった。レーベルクは王権=貴族権を代弁する政論家であった。ゲンツもまた思想的にはレーベルクに近く、貴族の出身であった。ゲンツに共鳴しつつも夭逝したノヴァーリスも貴族の出身であった。
5.Mann, ibid. 上原訳、30ページ。
6.ゲオルク・フォルスターについて、グーチの次の発言をあらかじめ念頭におくとよかろう。「学者でもあり改革者でもあったフォルスターは、この選挙侯国(マインツ―二本柳)を支配していた貴族や高僧の豪奢と放縦とに痛烈な批評を加えている。」Gooch, ibid., p.14.
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