テント日誌3/20日 経産省前テント広場―192日目 春一番はどうしたのだろう
- 2012年 3月 23日
- 交流の広場
- 経産省前テント村住人
さすがに「春分の日」である。日中は春を思わせる日差しだ(?) というよりもう春なのであるから春らしい陽気を感ずる日が少ないのが異様なのである。「暑さ寒さ」も彼岸までというが今日はそのお彼岸さんなのである。夜には結構風が強くてテントは大変だ。冷たい風に心身も冷えるがテントが風に晒されると気が気ではない。そういえば、今年の「春一番」はどうしたのだろうか。今年は春一番がなかったということだろうか。テントを強風にさらすことを避けたというのはうがち過ぎだから、これも異変なのだろうか。(この原稿を書いているのは3月21日だが、今日の朝日新聞の朝刊には「春一番吹かずじまい」という記事が出ていた)。
午後に大学時代の友人たちがテントを訪問してくれた。10数人で中大大学等の面々で主に「Cの会」というグループの人たちである。筆者もここに属しているがかつての学生運動の仲間である。それぞれの地域などで脱原発の運動をやっている人もいるが、テント前で交流会をやるのもうれしいものである。筆者はこの後に新橋で開かれた懇親会にでるために夕方までテントを離れるが、懇親会での話題はいつもと違って原発のことが話題になった。この会に集まるは60年代の学生運動や反戦運動に関わった人たちであるが、この時代には核兵器や核実験のことが政治課題になったが原発問題は登場してはいなかった。核の利用という考えが支配的であったのだ。この会でも一番の年配の人は戦後の日本の科学者の核の平和利用についての考えの膨大な資料を見せてくれた。これを早い時期にテントでも配り検討してみたいと思う。
途中から加わったある出版社の人からは今話題の『原発危機と東大語法』(安富歩)を頂いた。脱原発の運動が長期になることは不可避であるが、原発の存在の社会性の認識が深められることが必要である。上記の戦後の科学者たちの核についての認識の歴史を知ることもその一つだが、原子力ムラ影響力の強かった東大の学者たちの関わりを知ることも重要である。脱原発の運動の裾野の広がりがテントを媒介にしてこんな風に実感できるのもいいことだ。機会がればテントでの談話会のようなものができたらいいと思う。テントには未知の人たちとの出会いの媒介になっているが、こうしたむかしからの知り合いが現在の問題でこうして出会えるのもいいことだ。三鷹で行われた地域アクションの報告と差し入れを持ってきて来ていただいた人もいる。これはほんの一例だが各地域での運動の報告はある。脱原発運動の重層的展開の中で媒介的役割をテントが果たせれば嬉しい。連絡し交流をしてもらいた。
テントには少し遅くなって戻った。ここのところ在特会や街宣右翼のテント攻撃もあり、我々は心理的には緊張が続いているが経産省などの動きはどうなのだろうか。原子力安全・保安院(経産省)や原子力安全委員会(内閣府)が廃止され原子力規制庁になることは決まっているが、この原子力規制庁の発足は遅れている。この間、現行体制で再稼働の手続きを進めるらしい。福島第一原発事故でもまともな対応ができず、失態を重ねてきた現行体制であるが、ここで政府に再稼働のお墨付きを与えるストレステストの評価(合格評)を原子力安全・保安院が出し、原子力安全委員会で確認書という手続きは進めている。
これで再稼働の手続きをということらしいが、僕らは彼らの動きを見て対抗して行かなければならない。先日の19日も経産省前では抗議の声が鳴り響いていたが、3月23日(金)から26日日までの連続した行動が重要になる。テントの中では週末の行動のことが話題になった。大飯原発の現地集会にも参加したいという声も強かったが…。(M/O)
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