原発再稼働に向けての茶番劇
- 2012年 3月 25日
- 時代をみる
- 藤田博司
大飯原発再稼働に関して、原子力安全委員会が原子力安全・保安院の安全評価(1次評価)を妥当とする報告を出した。これで再稼働に向けての「政治判断」の前提が一つクリアできた、とメディアが伝えている(3月24日各紙朝刊)。
東京新聞の1面トップの記事は「すべて条件付き『イエス』」としながら、報告書は「大飯原発は安全と判断されたのか、そうでないのか読み取れない」と大きな疑問符をつけている。しかしほかの新聞の報道は、少なくともこの「疑問符」が小さいか、ほとんどつけられていない。おおむねこれで再稼働に向けての「政治判断」への手続きが、一歩前進したかのように書いている。政治的現実はそうだとしても、そのこと自体に疑問を呈したり、それを批判したりする姿勢が、報道には読み取れない。
そもそも現在の原子力安全委員会や原子力安全・保安院にこうした再稼働の評価の判断をゆだねること自体が問題にされるべきではないか。3・11以降、市民の目に明らかになったのは、安全委も安全・保安院も福島原発事故を未然に防ぐうえでまったく役立たずであったこと、のみならず、むしろ東京電力と一体になって原発の危険性を指摘してきた一部の学者や専門家の警告を無視し、監督、監視の責任を放棄してきたことではなかったのか。にもかかわらず、その後の1年余、いまに至るまで誰も責任をとらず、無能も認めず、そのまま居座っている。安全・保安院を経済産業省から切り離して原子力規制庁に改編する作業も遅れている。しかも安全・保安院は、この機に乗じて核燃料サイクル関連の事業などを駆け込みで認可しているという。(朝日3月19日夕刊)。
こうした事態は市民の目から見ると、明らかにおかしい。それなのに、震災から1年以上経過してなお、そんな事態がのうのうと続いていることは、異様としか言いようがない。これは政府の無策、無責任を象徴する以外の何物でもない。だが、同時にメディアが報道すべきことをきちんと報道してこなかった結果でもある。メディアがもう少ししっかりと政府の震災、原発事故に対する対応の問題点を厳しく批判し、責任者の責任を徹底して追及してきていれば、こんな事態は避けられたはずである。本来なら当然その資格を失っていい安全委や安全・保安院の専門家に、国民の将来がかかる原発再稼働の是非の判断をゆだねるということにはならなかったはずではないか。メディアの怠慢も見逃すことができないのである。
再稼働をめぐる「政治判断」も、何を意味しているのかよくわからない。安全・保安院と安全委の安全評価を踏まえてまず政府首脳が「政治判断」し、さらに地元自治体を説得したうえでさらに最終的に「政治判断」するのだという。しかし原子力に素人の政治家が安全・保安院、安全委以上に技術面で確かな安全評価ができるとは思えない。とすれば、「政治判断」は文字通り政治的な要因に基づく判断であり、原発の安全性をめぐる本質的な評価に基づくものと考えるわけにはいかない。現政権の姿勢から見れば、いわば初めから再稼働の結論を目指して、地元自治体や世論を説得するために慎重さを装う、見せかけの儀式でしかあるまい。
原子力安全委と原子力安全・保安院に原発の安全評価をさせるのは、極端に言えば、泥棒に戸締りの安全を確かめさせるようなものではないか。それを承知で安全を宣言し、安心せよと住民を説得する政府の「政治判断」は、やはり茶番劇と呼ぶほかない。その一部始終を、厳しい批判の目も向けずに、右から左に伝えているだけのメディアは、報道の責任を果たしていると言えるのだろうか。
(「メディア談話室」番外編 許可を得て掲載)
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