旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(13)
- 2012年 4月 3日
- スタディルーム
- 岩田昌征
29 協力者
私は10年後にハーグの国連拘置所でケラテルム収容所元看守ドシェン・ダミルから収容所やコザラツで起きた諸事件のそれまで知られていなかった詳細を話された。(p.78)ハーグ法廷の検察当局に協力して、ドシェンはコザラツで1992年5月27日に起こった衝突時の諸事件への自分の関与に沈黙した。それについて後になって「プリェドル警察予備役として5月27日にコザラツにいた。・・・」と語った。法廷との協力の故にドシェン等は形式的に裁かれるだけで、すぐに釈放され、ボスニアに帰れた。他方、コルンジヤ等がヨーロッパ中の牢獄に入れられることになった。(p.79)
30 セルビア人女性の被収容者
証人「JP」のオマルスカ収容所体験の証言を紹介する。
「私はオマルスカ村のセルビア人女性だ。1992年6月18日午前9時に連行された。私と夫のイゴル・コンディチが逮捕されたのは、シモ・ドルリャチャ等地位あるセルビア人達がムスリム人に武器や煙草を非合法に販売していたことを知っていたからだ。1992年8月6日に『トルノポリェ集中センター』に移送されるまで、オマルスカ収容所内のいわゆる『白い家』に収容されていた。」(p.80)
「ジョン・リヴィングストン弁護士からエミル・カラバシチ、ヤツコ・フルニチ、エンヴェル・アリチ、フィクレト・ハラムバシチの運命について問われた。彼等の事件については私がオマルスカに連れて来られる2~3日以前、それが起こった当日に何人かの警察官から、特に警部バトから聞かされていた。(p.81)警察は収容所内の犯罪を公然と自慢していた。Z、ドラガン・ルキチ、ミレンコ・ストイニチ等のグループがその事件に責任があると聞いていた。同じグループがヤツコ・フルニチとエンヴェル・アリチを散々に殴打したとも聞いていた。私がオマルスカに入れられてから、両人を見ることはなかった。すでに殺害されていたからだ。」
「警官バトからこの事件について以前に聞かされていた。ところである時Zが殺されたヤツコ・フルニチのネックレスをつけているのを見た。そのネックレスは実は私の物なのだ。私とイゴルが車を買った時、借金の抵当として、戦前のことだが、ヤツコ・フルニチに預けておいたのだ。スウェーデン女王の肖像がついたものだ。後になって、Zに返せと言ったら、拒否された。オマルスカでヤツコが殺されたニュースの直後、私はZと彼の一党がヤツコの赤い車『ホンダ』を乗りまわしているのを見た。私はZとルキチを小さい頃から良く知っている。彼等は近在の村の者だったから。私がオマルスカにいた間殆ど毎日彼等を見ていた。私は明確に表明します、私が収容所に収容されていた期間タディチを一度も見かけなかったし、ドゥシコ・タディチがそこにいる事をどの看守からも聞いたことがない、と。カラバシチ、フルニチ、アリチ、そしてハリへの殴打・虐待に関して人々から聞き知った事を通して、Zの正体が変更されていると確信する。彼はタディチと同じようなほお髭、あご鬚をしていたからだ。」(p.82)
31看守「クルカン」
「クルカン」と通称される警察官ムラジョ・ラディチは1992年夏にオマルスカ収容所で任務についていた事を決して否認しなかった。収容所が解散され、そこでの諸事件の調査が始まった時以来、看守職の者達はプリェドル警察トップのヤンコヴィチの絶えざる圧力の下におかれた。10年後、ラディチは証言した。
「1.ドゥシコ・タディチを個人的に知っている。しかし彼のサークルとの付き合いはなかった。2.リゥビヤとオマルスカで警察官として長年働いて来たので、そこの住民をかなり良く知っている。Zやドラガン・ルキチをも良く知っている。オマルスカ収容所に彼等が来ていた時に彼等を見た。しかし、誰の命令かは知らない。3.(省略)。4.(省略)。(p83)5.ルキチとZが私の知らない人達と一緒の所を収容所で何回も見かけている。ドゥシコ・タディチがこれらの者達の仲間にいなかった事、オマルスカ尋問センターにやって来なかった事は確信している。6.(省略)。7.(省略)。」(p84)
デン・ハーグ 1999年 M.ラディチ
32地獄の第9門
詩人、ジャーナリスト、被収容者、プリェドルで最も尊敬されていた住人の一人、レザクはオマルスカ収容所に関する最初の書物『地獄の第9門』を書いた。そこで行われた虐待に関する記述のどこにも私(ドゥシコ・タディチ:岩田)の名前に言及していない。私が関与したと執拗にハーグで告発する他の囚人達の証言と全く対立する。私の弁護士リヴィングストンに与えた証言でレザクは次のように語った。
「ボスニア・ヘルツェコヴィナ、クリゥチ・オプシティのドニヤ・サニツァに1949年に生まれた。ベオグラード大学を卒業し、『ラジオ・プリェドル』と地方新聞『コザル報知』の記者として働いた。1992年5月まで記者、詩人として働いていた。1991年末か1992年初にドゥシコ・タディチのカフェバー『NIPPON』にかよい始め、1992年4月までに10-15回ほどおとずれた。(p85)タディチの店の客達は民族的に様々で、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人。コザラツは大多数がムスリム人の町だ。ドゥシコは私の前でムスリム人について侮蔑的言辞をはいたことはなかった。ムスリム人を『バリ』(ムスリム人への蔑称:岩田)と呼んだこともなかった。そんなことがあったら、彼の店へ行かなかったろう。政治について語り合ったこともなかった。最後に合ったのは、3月か4月、衝突の前だった。黒いほお髯、あご髭をしていた。1992年5月30日に逮捕され、プリェドル警察署、次いでオマルスカ収容所に閉じ込められた。収容所にはセルビア人女性ヤドランカ・ガヴラノヴィチと同棲相手イゴル・コンディチがいた。」
ハーグ法廷の裁判官達が異常に信頼していたセナド・ムスリモヴィチについて以下のように語った。
「私の親友のフォーク歌手ハリド・ムスリモヴィチの弟(or兄)だから知っている。私たちは自分達の受けた暴力・殴打について話し合ったが、彼は誰が殴ったか、名前を決して出さなかった。」
1、「セナド・ムスリモヴィチはドゥシコ・タディチが自分の髪の毛を引っ張ったと貴方に言いましたか。」「ドゥシコ・タディチに言及した事は全くなかった。彼が自分の髪の毛を引っ張ったとも言っていなかった。」
2、省略。3、省略。4、「トラックのタイヤに押し付けられて、ドゥシコが自分を血まみれになるほど殴打したと貴方に語りましたか。」「ノー。」5、省略。(p87)
上記すべてを陳述した後で、レザクは最後に付け加えた。
「オマルカス収容所に収容されていた間に私はドゥシコ・タディチを見かけた事は決してなかった。ある日私の房に黒い外套、黒い帽子の男が入ってきた。黒いゆたかなあご髭、ほお髯をし、手にナイフを握っていた。彼の弟(or兄)がムスリム人に殺られた、お前等全員を殺してやると叫んだ。彼はドゥシコ・タディチに似ていたとは言え、ドゥシコではなかったと完全に確信している。しかし、彼が誰かは知らない。」「私は正義と真実のためにこの証言をする。自らの署名をし、真実を語ったと立言する。」
ロンドン 1998年 レザク
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study467:120403〕
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