教育と研究の場での単位制について
- 2012年 4月 8日
- 評論・紹介・意見
- 単位制教育石塚正英研究
やすいさんと宇井さんの書き込み、これぞ公共空間メディア「ちきゅう座」が求めているものです。
私は、大学での単位(従量)制に関して利点と欠点を実感しています。個々の単位は落としても学年がないので落第しない。1講座〇〇〇円で履修するわけだから、卒業に必要な単位だけをとればいい。こうした制度は合理的で無駄がないので、学生とその家族にはありがたいものです。大学を「学士」資格取得の場とだけ考える場合、この制度は利点です。
ですが、4年間、留年がないから単位の取りこぼしがあっても時間だけが経過する。そして卒業年度に悲劇が起こります。もともとギリギリの単位数しか登録しないから、つねに単位不足の状況にある学生は多い。
さて、大学で得るものは資格のみではないでしょう。大学で学ぶものは個々の専門(知識・技術)でもなく、それを通じての人間学的教養です。その高みや深みに入っていくには偶然の出会いが必要です。法学者の三谷太一郎は、かつて『みすず』第276号でつぎのようなこと述べました。歴史研究者は想像力を触発するような史料に遭遇すると、その史料のために、いや、その史料を引用したいがために、一本の作品を構想する、と。これです。遭遇、これが大学での学問研究の基礎です。「遊び」といってもいいでしょう。「道草」といってもいいでしょう。単位制はこの「遭遇」「遊び」「道草」から学生を限りなく遠のかせてしまうのです。ただし、私のように、アラカンすぎても歴史知のフィールドで遊び惚けていると、遊びはもはや仕事になっておりますがね。遊んで生活する、これぞ「偶然」のなせる技!
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0847 :120408〕
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