旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(17)
- 2012年 5月 3日
- スタディルーム
- 岩田昌征
48、彼等は少しも努力しなかった
1995年4月初、駐オランダ・ユーゴスラヴィア大使が面会に来た。大使はヴラディミロフのほかにミラン・ヴゥイン弁護士(ベオグラード)をやとうように示唆した。更にバニャルカの弁護士も私の弁護チームに参加した。(p.124)
検察は私を追及する証人達を150人ほど用意した。私はセルビア(ベオグラード)とセルビア人共和国(バニャルカ)の両弁護士が私の側で証言してくれる十分な数の証人を見付け出し、虚偽の非難を反証してくれるだろうと期待した。ところが、彼等は現場における調査結果を明るみに出すよりは、隠すようにつとめた。私を弁護すると言うより、プリェドルとバニャルカの政、軍、警の要職者達がハーグ法廷起訴リストにのらないように配慮した。ハーグは民族的に純粋なセルビア人共和国を創る為の戦争で私がなしたとされる怪物的犯罪の故に私を起訴した。セルビア人共和国は私を裏切者、脱走者として拒絶した。プリェドルの公安指揮官ドゥシャン・ヤンコヴィチは私が第5コザラ旅団の兵士として20日間陣地にいたが、3回前線から逃亡し、警察が力づくで私を前線に連れ戻したと表明した。1994年2月の逮捕以来、プリェドルのメディアは注目に値しない卑怯者として私を描いていた。(p.125)
49、価値ゼロの約束
私の親族も亦、私のイメージ作りに参加して、語った。「ドゥシャンは空手家としては立派だが、戦士としては全く駄目だ。恐怖をかくしたことがなく、子供のように戦闘をこわがった。ドイツ警察が戦争犯罪のかどで彼を逮捕したのだったら、間違った人物をつかまえたことになる。」
20年禁固刑が宣告された時、ハーグ法廷控訴院はこれまでアクセス出来なかった証人達と証拠への接近と証拠文書のコピーを弁護団に許可するようにセルビア人共和国政府に対して要請した。控訴審は私が属する国家の非協力から被告の私を守ろうと努力したのだ。セルビア人共和国の女性大統領ビリャナ・プラヴシチはタディチ裁判で必要なすべての証人と諸文書に関する協力を約束した。しかしながら、(p.126)かかる約束はプリェドルの有力者連中にとって何の意味もなかった。価値ゼロの約束だった。
1992年に戦争が勃発するまでボスニア・ヘルツェゴヴィナ(BiH)最高裁判事で1995年5月から1996年末までセルビア人共和国法相であったマルコ・アルソヴィチによる証言が事情を伝えている。
「法相を務めていた時、タディチ裁判について情報を得ていた。私はタディチ氏に公正な裁判が保証されるべく、弁護に必要な証拠材料を発見・収集する上での支援が必要であるとの立場をとっていた。」「セルビア人共和国閣議において私の立場は少数派であった。当時の国防相ドラガン・キヤツ等多数派は、タディチは脱走兵であり、裏切者であって、多くのセルビア人に憎まれており、我々が支援するに値しないと表明した。私は1996年6月にハーグへ行き、タディチを含むセルビア人囚人達に会い、弁護士ヴラディミロフから弁護材料や証人を発見する上での諸困難を告げられていた。主要な障害は当時のプリェドル警察署長シモ・ドルリャチャ達である事も告げられた。私は大統領ビリャナ・プラヴシチと弁護士ウラディミロフの会合を設定し、そこに私も出席した。弁護士の苦言を聴いて、大統領はドラガン・キヤツを呼びつけた。彼女は弁護団に証拠収集上あらゆる支援をするように指示した。キヤツは同意した。しかし、実際は何もしなかった。キヤツはタディチ裁判について何も理解していなかったからだ。」(p.127)
「シモ・ドルリャチャはプリェドル・オプシティナにおいて戦争中に不可侵の権力を獲得していた。私が知る限り、ラドヴァン・カラジチ博士(ビリャナ・プラヴシチの前のセルビア人共和国大統領、現在ハーグ法廷で裁判中。岩田)からタディチ氏弁護に助力せよとの命令書を受けとった時も、外見上同意したが、何も行わなかった。」(p.128)
50、シモ・ドルリャチャの権力
元BiH最高裁判事、元セルビア人共和国法相は続ける。
「プリェドルの全権的警察署長は1992年にプリェドルで、特にオマルスカ、ケラテルム、トルノポリエで起こった諸事件を良く知っていた。タディチ弁護の証人リストから関係する人物を抜き出すことも容易に出来たろう。私の絶対的確信であるが、ドルリャチャは彼に『情報提供上の忠告』を与えたであろう。注意深く『練られた』話だけをするように忠告したであろう。」「セルビア人のコザラツ攻撃時にタディチがコザラツにいなかったこと、諸収容所にいなかったことを証言するのは許容範囲だったろう。しかし、誰がコザラツでムスリム人警官2人を殺害したのか、オマルスカ収容所で誰が囚人達を虐待したのか、それを語るのは完全に許容外であったろう。収容所内で行われた囚人達の性器の相互損壊について語ることは誰にも許さなかった。そんな事態が起こったことを否定する。それが彼の立場だ。」(p.129)
51、判事への脅迫
アルソヴィチは続ける。
「私が語ったようにドルリャチャ氏が行動したことを私はどこから知ったのか。私は司法省の職員にこれらの事柄について報告するように要求した。そして情報を得た。私はドルリャチャ氏を呼び出して会った。彼はすべてを否定した。
1995年のプリェドル市におけるムスリム人市民殺害の捜査中にも同様の脅しやマニピュレーションがなされた。プリェドル警察に嫌疑がかけられた。ミチョ・クレチャ判事が担当したが、シモ・ドルリャチャが数人の警官をつれて裁判所にやって来た。彼は武装しており、調査を中止しなければ殺すぞと脅迫した。判事はうまく逃げたけれど、後になってプリェドル警察官の一人が判事の女性書記を殺害した。この事件はバニャルカに送付されねばならなかった。プリェドルではシモ・ドルリャチャの力が強くて調査できなかったからだ。」(p.130)
アルソヴィチ判事は私の弁護士ミラン・ヴゥインがセルビア人共和国司法相の彼に一回もコンタクトをとっていない事実に注意を向けて、次のように意見を述べた。「ヴゥインが弁護証人となりうる人々のリストをシモ・ドルリャチャに渡していたことが事実とすれば、それは彼が私を避けた明白な理由となる。これは彼がタディチ裁判でドルリャチャと同じ立場を取っている事を示す。証人聴取をプリェドルで警察の臨席の下で、あるいは警察の助けをかりてやろうと提案した事とも符合する。ドルリャチャが弁護士ヴゥインにこのような立場を押し付けること、それは可能だった。」(p.131)
52、命令は実行されなかった
ハーグ法廷控訴院は私の弁護チームが証人にアクセス出来、証拠物件を閲覧出来るようにせよと言う命令を1998年2月2日付けでセルビア人共和国政府に発した。そこで、1998年3月9日にセルビア人共和国政府は内務省とプリェドル公安センターに以下の書面を送付した。
「セルビア人共和国政府はプリェドル公安本部に以下のことを命ずる、弁護士ミラン・ヴゥインとジョン・リヴィングストンに証言聴取を可能にすること、ドラガン・ヴゥチェト、モムチロ・ラダノヴィチ、…、…、ミロラド・ダニチチ、ドラガン・ルキチの身分証明書及び運転免許証に関する諸文書を発行すること。政府は国防省、プリェドル軍区に命ずる、この命令書に列挙された38人全員に関する諸文書を発行すること。この命令遂行に関連する諸困難すべてについてただちに首相に報告せよ。」
セルビア人共和国首相 ドディク・ミロラド (p.132)
53、額へ弾丸を
私の弁護団の調査員2人、ブランコ・ドラジチとミオドラグ・コスティチがプリェドルにおける調査からベオグラードに戻って出した報告書は、ハーグ法廷裁判院に提出された。(p.133)そこには、シモ・ドルリャチャの彼等への応答がのせられている。
「私と公安本部はドゥシコ・タディチが三収容所に1992年5月から1992年末までの期間出入することが出来なかった事を知っている。彼は予備警察官としてオルロフツィで交通規制をやっていた。諸収容センターで犯罪を犯すことも出来なかった。しかし、私は彼の弁護士が求めるこの地域の証人への聴取を許可しなかった。タディチはドイツへ逃亡したからだ。」「この地域の証人は私の同意なく証言できない。署長職から私を解任することは出来るだろう。そうなったならば、私はこの地域全体をクロアチアに合併させるだろう。私達は倉庫に460万トンの鉄鉱石を保有している。それをシサク(クロアチアの都市、製鉄所がある。岩田)へ運搬して加工するだろう。こうして金が入る。」
ボサンスカ・クライナの人民が地域の分離を許すだろうか、との批判にドルリャチャは答える。「人民に問うだって!くそくらえだ。」更に自分達はタディチ弁護に全力をつくしていると強調しつつ、「私の許可なく弁護材料を収集する者は額へ弾丸をくらうか、逮捕されよう。」と言った。
「私とアルカン(セルビアの犯罪者かつ義勇部隊組織者、ベオグラードのホテル『ユーゴスラヴィア』で暗殺された。岩田)がプリェドルを守り抜き、ノヴィグラドを解放したのだ。セルビア人共和国軍はノヴィグラドを見捨てたのだ。それ故に、分離してトゥジマン(クロアチアの独立後初代大統領。岩田)と合併する権利が私達にある。」(p.134)
調査員がシモ・ドルリャチャに会っている時、彼はカラジチ(セルビア人共和国大統領。岩田)やミロシェヴィチ(セルビア大統領。岩田)への一連の軽侮を表明した。
かくして、私の運命とボスニア戦争に参加して、後になって無根拠のまま起訴された真の愛国者セルビア人達の運命は、ハーグ検察側の虚偽証拠だけに握られてしまった。(p.135)
54、鋼線の檻
1996年2月初まで、ハーグ監獄の囚人は私一人であった。それでも看守10人、医師1人、看護師(女)1人、管理者1人がいた。
6時起床。10時散歩・運動。但し、その前に身体の隅々まで検査される。検査後一階へエレベーターで降り、廊下を通り、「ケイジ」と呼ばれた鋼線の檻の中へ。手錠がはずされて、(p.136)看守はバスケットボールをころがし、「お前等ユーゴ人はバスケが好きなんだろう。」バスケをやり、また「ケイジ」の中を歩く。新鮮な空気への出口、それが「ケイジ」だ。房に戻ると、各地からの手紙を読み、返事を書く。(p.137)
55、サルマは規則違反
昼食は12時。オランダの昼食はインドネシア風で香辛料がきつく、バルカン人には奇妙な味。
午後はムスリム人証人達の私への告発内容を分析研究する。そして1時間ほど空手の練習をする。
無性にサルマ(ユーゴスラヴィアの庶民料理、ロールキャベツ。岩田)が食べたくなった。看守に友人や家族からのサルマ差し入れを頼むと、規則で食料の差し入れは禁じられているとのこと。サルマ1個も駄目。しかし看守の助言あり。「セルビア正教の坊さんが儀式をやりに来る時、サルマを儀式用に必要だと獄当局に申請すれば良い。」(p.138)1998年の正教クリスマス(1月7日。岩田)の前に私は「教区僧にドイチロが祭儀用にワインとサルマを持って来る。許可を申請する。」と願い出た。当局はOKを出した。ドイチロは50個以上のサルマを持参した。私達は儀式用サルマを嬉しく食した。同囚のクロアチア人キリスト教徒にも分けた。(p.139)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study486:120503〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。