戦後学生運動の“最後の輝き”か -50年代学生運動を回顧し検証する動き-
- 2012年 5月 6日
- 評論・紹介・意見
- 学生運動岩垂 弘
1950年代は、学生運動が盛んな時期だった。占領軍(連合国軍総司令部=GHQ)による反共政策が強まったり、日本の独立をめぐって全面講和か単独講和かの論争が高まったり、米ソによる核軍拡競争が激化した時代であったから、これを反映して学生運動が高揚したわけだか、このところ、その50年代の学生運動を回顧し、その意義を検証し、後代に伝えようという動きが目立つ。戦後学生運動の“最後の輝き”といえるかもしれない。
5月8日、早稲田大学29号館の早大生協本部会議室で「第2次早大事件60周年記念の集い」が開かれる。主催は、1950年代の学生運動に参加した同大学OBによって結成された第2次早大事件60周年記念の集い実行委員会(共同代表・芹澤寿良、中藤泰雄氏)。
実行委によれば、52年5月8日夕刻、5月1日のメーデー事件(注1)に参加した学生の調査のために身分を偽って早大キャンパスに立ち入った神楽坂警察署の2人の私服刑事が学生に見つかった。学生たちは「警察官の大学構内無断立ち入りは、これを禁じた文部事務次官通達に違反する不法行為」として、始末書、陳謝文を書くよう要求。刑事がこれを拒否したため、学生側が抗議を続けたところ、9日午前1時過ぎ、300人を超す警官隊が実力行使を開始、座り込んでいた無抵抗の学生たちを排除し、学生26人を逮捕、学生・教職員100余人に重軽傷を負わせた。警官隊の大学構内侵入と無抵抗学生への暴行は社会的にも批判を浴び、国会でも取り上げられた。これが、第2次早大事件である。
この事件を記念する集いが、事件から40周年の1992年に、50周年の2002年に開かれてきた。今回の集いは、こうした2回の集いの延長線上にあるものだが、50年代に学生運動に参加した人も80歳前後に達したことから、第2次早大事件を記念する集いもおそらくこれが最後になるだろうとの実行委メンバーの思いから、集いが目指す回顧・検証の対象も第2次早大事件に限らず、50年代に早大で行われた学生運動全般に広げることになった。
このため、当日は、第1次早大事件についての発言も予定されている。この事件は、50年10月17日に早大で起きた、レッド・パージ(注2)反対闘争にからむ事件。この日、全日本学生自治会総連合(全学連)の呼びかけに応えた、早大学生自治会主催の「全早大平和と大学擁護学生大会」が開かれたが、レッド・パージ反対闘争参加を理由とした学生の退学処分に反対して、大会参加の学生が大学本部で開会中の学部長会議に乱入。学生と、大学当局の要請で出動した警官隊とが衝突し、学生143人が逮捕され、双方で20数人が負傷した。この事件により学生97人が退学処分を受けた。
この時、逮捕され、退学処分となった学生の1人が、当時早大学生自治会委員長だった吉田嘉清氏(元日本原水協代表理事)だ。
このほか、50年代の学生生活、学生による生協活動、文化活動などに関する報告も予定されている。
当時、早大は東大と並んで日本の学生運動の拠点と言われていた。それだけに、早大における学生運動の検証は、当時の日本の学生運動を検証することにもつながりそうだ。
50年代の学生運動に詳しく、「50年代の学生運動は、公布され施行されたばかりの新憲法(日本国憲法)の定着過程を担う大衆運動の役割を果たしていた」「50年代初頭の学生大衆運動は新憲法感覚の発露」と見る高橋彦博・法政大学名誉教授も報告する。
昨年2月、『蒼空に梢つらねて――イールズ闘争60周年・安保闘争50周年の年に北大の自由・自治の歴史を考える』と題する本が、株式会社柏艪社(札幌市)から発行された(発売は株式会社星雲社)。2010年5月16日に北海道大学で開催された対話集会「北大の自由・自治・反戦・平和の歴史を考える――イールズ闘争60周年・60年安保闘争50周年の年に――」の全記録だ。同書によると、この集会にはイールズ闘争の関係者や60年安保闘争の参加者を含めた北大のOBら250人が集まったという。
イールズとは、GHQ民間情報教育局高等教育顧問ウォルター・C・イールズ博士のことである。日本で占領政策を進めたGHQは、第2次大戦後に東西冷戦が激化すると、日本を反共の砦とする政策に転換した。このため・レッド・パージを各分野で推進し、大学にはイールズ博士を派遣した。イールズ博士は1949年7月に新潟大学で「共産主義的教授を大学から追放せよ」と講演し、その後も全国の大学で同じ趣旨の講演を続けた。50年5日2日、東北大学で講演を行おうとしたが、学生が抗議して講演会は中止となり、学生14人が退学を含む処分を受けた。
北大でイールズ博士の講演が行われたのは、その直後の5月15、16の両日。ここでは「初日の講演会はイールズ博士が教職員の理路整然たる反論にまともに答えることができないまま終了し、翌日は約束に反する一方的なイールズ博士の講演に対して学生が質問を要求し演壇に向かったため、司会者が講演会の中止を宣言しました」という事態となった(『蒼空に梢つらねて』)。GHQは事件の責任者の処分を日本政府と北大当局に迫り、退学を含む学生10人の処分が発表された。
『蒼空に梢つらねて』には、こうした北大におけるイールズ闘争の経過や真相が、事件の当事者や関係者の証言で明らかにされている。
昨年9月には、田中貞夫・太田雅夫編著の『50年代の群像 同志社の青春』が刊行された。田中氏は元同志社学友会中央委員長、太田氏は元同志社学友会中央副委員長。発行者は「50年代の群像刊行会 木原泰男」。
池本幸三・50年代同志社平和の会代表が「まえがき」の中で書く。
「私たちのなかには、広島と長崎で被爆したものや、空襲や学童疎開の体験をしたものが多い。そして同志社大学で学ぶことで、戦争放棄、国民主権、基本的人権、男女平等を謳った日本国憲法の重要性を学んだ。しかし、それはアメリカの核独占と軍事的、経済的世界支配と、ソ連との東西の冷戦態勢の構築、強化、それに応じて起こった政治の逆コースに直面した。自我の形成と社会への目覚めの時期に、私たちは全面講和、再軍備反対、日本の真の独立を求めて、さまざまな形で異議申し立てを行った。その間の状況については、本書の前半部分で明らかにされている。しかし、本書は大学卒業後の人生の軌跡を辿ることに力点がおかれた。……多くの直情径行な青年たちはどこへ行ったのか。その頃の志はどのように持続されているのか。どのように変容していったのか。そうした『生き様』を、多様な形で発掘し、これを記録に留めて、後世に伝えたい」
ここには、50年代に同志社大学で学んだ学生たちが在学中どんな運動に取り組んだか、卒業後はどんな軌跡をたどったかがビビッドに描かれていてまことに興味深い。
(注1)メーデー事件 日本が独立を回復した直後の1952年5月1日、第23回メーデーが東京の明治神宮外苑で行われた。皇居前広場をメーデー会場として使用することを禁止されたことに抗議するメーデー参加者約1万人が皇居前広場に入って警官隊と衝突。2人が死亡し、約1500人が負傷、1232人が検挙された。「血のメーデー事件」と呼ばれる。
(注2)レッド・パージ 1950年にGHQによって行われた、共産主義者やその同調者の公職または民間企業からの追放をいう。共産党幹部のほか、官公庁から約1200人、民間企業から約1万1000人が追放された。
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