音と音楽――その面白くて不思議なもの(10)
- 2012年 5月 10日
- スタディルーム
- サウンドスケープ石塚正英野沢敏治音音楽
第10回 自分なりのサウンドスケープをイメージする
>往< 野沢敏治さんへ 石塚正英から
今回は、自分なりのサウンドスケープ(音風景)をイメージすることにします。方法として、周囲からなんらか気にかかる音をひろい、その意味を野沢さんにプレセンテーションする、何かを物語る、連想する、空想する、という設定でお話しを進めましょう。採取対象の例として、次の7つを選びました。
Ex1 聴くと安らぐ音、癒される音
Ex2 聴くと気分悪くなる音、不快に感じる音
Ex3 聴くとせつない音、やるせない音
Ex4 とっておきの音、ひとりで楽しんでいる音
Ex5 これを聴くとあれを思い出す音
Ex6 肌に迫ってくる快音、刺激音
Ex7 音のしない音、音を引き立てる無音
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Ex1 聴くと安らぐ音、癒される音
晴れた日の郊外、小川のせせらぎでしょうね。数年前の初夏、日光の戦場ヶ原を散策したときのことです。小川のせせらぎがとても心地よく、しばしその場に佇みました。そこへ一羽のカワガラスがやってきて、川にもぐりました。水中で、羽根は銀色に光ります。餌を求めて川底を這うのですが、カワセミのように急転直下でなく、せせらぎの音と調和しています。妻と二人で眺めやりましたが、そこはかとなく癒されました。唱歌に「春の小川」というのがありますが、あれはのどかさが売りですね。
http://www.youtube.com/watch?v=-OvB5RqHaeg
対して初夏の小川はすがすがしさが売りです。私は、昨年、東日本大震災のああと、上越市の山間部の小さな滝で水車発電を試みました。完成しバッテリーに充電できるようになったのはつい先日ですが、その付近にも小川のせせらぎは聞こえます。鮭の孵化場もあって、自然に満ちています。まさに、聴くと癒される音です。
Ex2 聴くと気分悪くなる音、不快に感じる音
ガラスを釘でこする音、これに尽きます。なぜなのか、なぜ不快に感じるのか、理屈で言い当てることはできません。単刀直入、胃袋がグニュ~、って感じになるのです。ただし、人工ダイヤモンドのメスでガラスを切り裂くのはそれほど不快ではありません。スキッとした印象すらあります。切り裂いたあと、ガラスをパキッと割るのは気持ちいいですね。問題はおそらく、ガラスの表面にあるのでしょう。切り裂く場合はガラスの中にメスが入ってしまうのですから、別の音なのでしょうね。窓ガラスの表面を発泡スチロールの塊でキュッと擦ると、やはり妙な気分になります。気持ちいいものではありません。
急を知らせる音、サイレン。これなど楽しいものでなくてもいいのですが、なぜか懐かしさがただよいます。昔は、現在のような電動式でなく、手回しのサイレンでした。救急車に乗って、消防士の一人はサイレンを回す役目だったのです。「ウ~ウゥ~ウ~」と必死に回します。でも、人力ですので、そのうち疲れてしまうのです。最初は大きく元気よく鳴ります。でもだんだん小さく低調に、といった具合です。それがまた人間味あふれる音でしたので、まぁ、電動式になって久しいこの頃でも、なんとなく懐かしいのです。でも、パトカーのサイレン音は聴くと気分悪くなります。ほれ、聴いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=VxhlPYswawM
Ex3 聴くとせつない音、やるせない音
弔いの鐘です。これはせつなく、やるせない。いわゆる野辺送りの鐘です。昔、土葬が一般的だったころ、埋葬墓地まで遺族が歩いて向かうのですが、その時に叩いて故人の霊を導き、かつまた己の魂を慰めるのです。或いは火葬の時代となれば、読経の最後に一つ、大きな音を鳴らします。私はそのような場面に幾度か立ちあってきましたが、せつなくやるせない思いを禁じ得ませんでした。いまでは葬儀場から霊柩車が発進するに際して、音を引きずるようにクラクションを鳴らします。これも物悲しい。
フランツ・シューベルトの曲に「弔いの鐘(Das Zügenglöcklein)」というのがあって、ヨハン・ガブリエル・ザイドルが詩を付けています。「響け 夜通し響け 安らかな安息をもたらせ お前が音を響かせている人のもとに響け はるか彼方まで そうすればお前は巡礼たちを この世と和解させられよう!」「だが誰が旅立とうと望むのか 愛する他者のもとへと 先に旅立っていった人の その人は喜んで鐘をならすだろうか? 響きに震えるのではないだろうか 「来たれ」と鳴りひびく時には?」you-tubeでニコライ堂弔いの鐘をお聞きください。
http://www.youtube.com/watch?v=8S5sROSiTGU
Ex4 とっておきの音、ひとりで楽しんでいる音
これは秘密です。だれにも教えません。私だけの内緒の音です。ことわっておきますが、オナラではありませんよ。ひとりで楽しむ音をだれかに教えては値打ちがなくなってしまうのです。ただ、一昨年、あるFMラジオのレギュラートーク番組でしゃべってしまいましたがね。「ドン、ドン、ドン、タカタッタ!」ではじまります。意味は私だけのものです。でも、このシリーズ第1回目にしゃべってしまいました!
Ex5 これを聴くとあれを思い出す音
電気ヒゲソリの音を聞くと、チェーンソウを思い出します。話せば長いことですが、手短にお話しましょう。10数年まえ、信越県境の妙高山麓をフィールド調査していたとき、遠くでチェーンソウの音が響いていました。樹木の伐採に精を出す人たちが一所懸命働いているのでしょう。で、その音、いつまでたっても鳴り響くのです。私の行く先向かう先に、それは響いてくるのです。まるで私のあとを追いかけてくるかのようでした。歩きつかれたので、しばし休憩をとろうと、草むらに腰をかけて背のリュックを下ろしました。そしたら、その中の、私のヒゲソリが音をたててうなっていたのです。「アリャまぁ~」何かの拍子にスイッチが入り、ずっと背中でうなっていたのですが、それを私は遠くでチェーンソウが響いているものと思い込んでいたのです。それ以来、ヒゲソリを使うたび、例の音をほのかに思い出すのです。
Ex6 肌に迫ってくる快音、刺激音
野球ファンならホームランの快音でしょうね。サッカーサポータならゴールを揺らすネット音でしょうね。私にとっての快音は、フィールドワーク中の靴音です。草むらに分け入るザックザック、次々と進むサッサッサ~、軽快に駆け上がるトントントン、一仕事を終えて降りてくるスットン、スットンスットントン。先日、糸魚川市の勝山城跡に登りました。眼下の浜辺は翡翠のカケラが見つかるスポットです。標高328メートルをけっこう勢いよく登りました。上杉景勝と豊臣秀吉が歴史的会見を行ったという言い伝えがあるので、「ホントかいな?」と思いつつトントン登りました。40分かけてへとへとになって登ってみて、これはお偉い武将でなく、家来のだれかが登ったのだろうと想像しております。偉い武将は、むしろ海岸で翡翠のかけらを拾って楽しんだと思います。この日も、練馬ナンバーのクルマから翡翠目当ての女性たちが降りて、城に登るのでなく、いそいそと海岸に降りて行く様子が観察されました。きっと、その女性たちは一刻もはやく少しでも大きなカケラを見つけたい気持ちからスットンスットン小走りで浜辺に向かったことでしょうね。
Ex7 音のしない音、音を引き立てる無音
ベートーヴェンの運命交響曲の出だしです。とりあえずは音楽ではありません。8分休符のことです。休符ですので、音はしません、鳴りません。「ダ・ダ・ダ・ダーン」の前に記されている、始まる前のお休みです。
ベートーヴェンが第五シンフォニー冒頭においた8分休符は、無音なのではありません。音は発せられないが、明確に音が関係しているのです。8分休符の長さにわたってゼロの時間が、すなわちからっぽの時間が介在するのです。音楽における休止は、ジョン・デューイ(John Dewey, Art as Experience, p.179.)によればけっしてたんなる無音ではありません。「律動的秩序においてはあらゆる終了と停止は音楽の休止と同じく、限界づけ個別化するとともに、関係づけるものである。音楽における休止は空白(blank)ではなく、律動ある無音(silence)であって、過去のものに区切りをつけると同時に前進的衝動性を表わすものであり、休止によって明確にされた箇所に停止させるものではない。絵を観たり、詩や戯曲を読む場合に、我々はその決定的な最後的性質の中に、時にはまた一時的な作用の中に、しばしば以上と同様の特徴を看て取ることができる」のです。(詳しくは石塚正英「始まりとしての8分休符」、石塚『感性文化学入門』東京電機大学出版局、2010年参照。)
>復< 石塚正英さんへ 野沢敏治から
環境音から音楽へ
サウンドスケープという片仮名は最近知りました。高校時代の友人・丸山亮君が送ってくれた論説「都市騒音とサウンドスケープ理論」からです。その論説でサウンドスケープの意味、1970年代から始まったその後の展開、そして問題点を知りました。ですから今回の石塚さんの論題提供はグッドタイミングです。「音風景」についてはこれまでの対論で特に意識せずとも話題にしてきたものですね。今日はまず石塚さんの手法にぼくも乗ります。その上で環境音について考えてみます。
『枕草子』ばりに
気持ちよき音(1)――それは春にひばりが空高く姿が消えいるまで舞いあがりながらさえずる時。それに聞きいっていると、身体がけだるくボーっとしてしまう。ぼくは市川に住んでいて、よく江戸川に自転車で散歩に出ます。そのあたりは日本100名鳥の1つの地域に指定され、ヒバリとシギが棲んでいます。自然の音空間が公共空間になっています。このような指定は行政がサウンドスケープ論を応用したのかも知れません。シギは夏にギッ、ギッ、ギョギョ、ギギッ、と鳴きます。
反対に、鳥の鳴き声がいやになる時があります。ぼくは北海道でよく郭公の鳴き声を聞きました。山を背景にして鳴く時はその山が反響板になって遠く離れていてもよく届きます。それが頭の真上を飛びながら鳴くときは、スコーンと抜けるような音になります。これは発見でした。その北海道から千葉市の稲毛に住居を移したころです。外でカッコー、カッコーと鳴き声がするんです。最初は、やッ、ここでも郭公が鳴いていると、家族で思わずベランダから身を乗り出して耳を澄ましました。でもそれはスピーカーから出たものであることが分かりました。だまされたのです。ある時間になると必ず聞こえるんですから。
気持よき音(2)――ぼくが住むマンション1階の庭に接した生活道路から入ってくる音。子供たちが通学しながらするおしゃべり、親が幼児に声をかけながらの通行、お年寄りが買い物車を押して歩く音。そして郵便局の配達オートバイやマイカーのエンジン音、小学校から聞こえる運動会の準備の太鼓音。ぼくは身近にあるグッド環境音地区としてはこれを推しますね。
不快な音(1)――普通の程度であれば気にならないが、図書館でハックショーンと大くしゃみを聞かされる時。
それがイギリスでは反対であって、小さなものでもくしゃみはこちらが気の毒になるくらいのどの奥に閉じ込めてしまいます。反対に鼻をかむときのすさまじいこと、もうびっくりです。喉が引きずり出されるかのようです。日本とではこうも音感覚は違うんですね。
不快な音(2)――また言うことになるが、鉄道駅で聞かされる乗客への挨拶と注意喚起、そして案内の放送のしつこくて親切なこと。前後にメロディが付いている。YouTubeで検索してあちこちの駅放送を比較すると、それはそれで面白いのですが。
もっともイタリアなどでは列車は時刻通りに動かず、乗客にその説明もないことが多い。どっちもどっちです。
案内放送が苦痛なのはぼくだけでないと思うのですが、どうだろう。昔、スキーが盛んであったころ、ゲレンデにスピーカから「音楽」が流されていました。奇妙にアンバランスでした。これらは音の公共感覚のない「ノイズ」です。日本サウンドスケープ協会という立派なものがあると聞きました。ぜひこの問題を解決してほしいものです。
音環境条例みたいなものはできないか
ぼくは景観条例と同じものが音に対してあってよいと思う。社のこんもりした森、リズムと対称性のある街並みなど、これらは景観として生活者にとって大切なものです。同じく環境音に対しても考えられます。それがどういうものかを積極的に言うのはちょっと難しい。それよりもこうしたら困る、余計な工作はしないでほしいというものは多いです。
ぼくがかつていた小樽でも今住んでいる市川でも、毎日午後5時になると、『新世界』の第2楽章が流れます。「家路」の名で親しまれている曲です。これなどは街に対して働きかけるサウンドスケープなのだろうか。
「ノイズ」が音楽に入ったのは現象としては20世紀に入ってからです。プロコフイエフのものなどその1例です。ピアノはまるで打楽器のように叩かれ、速射砲みたいでした。ヴァイオリンはキーキー軋みます。それまでの19世紀的なロマン主義に代わって、都会と産業開発の騒音が音楽に入り出したのです。でもプロコフイエフはそれだけに終わらせず、リリシズムの静寂な歌を続けていました。その音配置が斬新でした。ソ連政府はそれを排すべきモダニズムと批判したのでした。
環境音を切り取る
写真は対象を映すが、写真をとるのは写真機でなく人間です。ですから、対象は特定のある角度や位置から切り取られます。アングルがその人にとっての対象となります。富士山が工場の煙突の横にあったり、山々の峰からぽっとのぞいたりすると意外な感じがします。ジェット機で火口の真上から富士山を見ると、プリンに砂糖をまぶしたように見えます。富士山の全体をとらえるのでなく、どこかを捨象したり、他の対象と組み合わせたりする。すると、富士山はいろいろな姿をぼくらに見せてくれます。こんな富士山があったのだと知ると、ちょっとうれしくなります。
同じように耳は環境音を聞き流したり、そのどこかに聞き入ったりする。そこに耳と対象との間に装置が、意識や文化が介在します。隣で女房がぼくに話しかける。いつものことかと、左から右へ素通りです。でも街中で夏の夜に聞こえてくる蛙の鳴き声には耳をそばだてます。
西洋音楽には西洋の環境音が背景にあると言えるでしょう。日本人は明治以来、西洋の技術を使って日本の感情を作曲しようと努力してきましたが、成功しただろうか? これがわれわれの曲だとはっきり言えるものは少ないと思います。これが他の文学や美術、演劇の場合と違う点です。音楽では西洋技術・東洋精神という方法じたいに無理があったのでしょう。あるいはそれが克服できるまでにまだ時間が必要なのかも知れません。戦前の吉田隆子の苦悩――西洋の音楽技術を用いて江差追分のような冴え冴えとした音楽を書きたいという悩みは今でも続いていると思う。
戦後、外山雄三が管弦楽「ラプソディ」を作曲し、その中で炭坑節や八木節をオーケストラに演奏させることがありました。ぼくは高校時代にそれを聞いた時、ちょっと笑ってしまいました。節自体が滑稽味のあるものでしたが、生の民謡が直接闖入してきた感じで、ちぐはぐに聞こえたからです。バルトークのように民謡素材を徹底的に分析して加工するのと違いました。でもそう聞こえたということは、やはり洋楽は日本人の音環境から切れていて、自分たちのものになっていなかったからでしょう。今は少し落ち着いて味わえますが。ふり返ってみると、あのマーラーだって自分の子供時代のサウンドスケープのなかから初期のシンフォニーの素材を得ています。でも素材はそれだけでは音楽になりません。環境音を切り取る人間の「主観」が音楽を作ります。ぼくの場合にはこの音環境とクラシックとの間にまだ溝があるのです。
ベ-トーヴェンの第6交響曲、これは標題音楽か、絶対音楽か、よく論じられました。ベートーヴェンは珍しく自分の曲に「田園」と標題をつけ、各楽章にプログラムを書きいれています。第2楽章は「小川のほとりで」と標題がつけられていて、その終わりの方で郭公の鳴き声が4度音程で出てきます。これは確かに自然界の鳥の鳴き声を模していますが、それは耳の聞こえなくなっていた彼が、聞こえていた頃の鳴き声を思い出したものであり、ウィーンの郊外で実際に聴いたものではありません。それに第2楽章全体が小川の水の揺らぎを表現しています。聴く人はその音のゆりかごの中で気持が平安になります。全楽章が感情の表現です。第1楽章が田舎についた時の心躍るようなうれしさを、第3楽章では村人の踊りのユーモラスを、そして第4楽章では嵐の雰囲気を――ベルリオーズは驚いたことでしょう――、最後が、嵐の後に捧げる感謝の気持ちを表そうとしています。
ベートーヴェンの曲は他の音楽家のものと違って音が出にくくなっていると思いますが、その中でも交響曲「田園」はヴァイオリン・ソナタ「春」と同じく、音がすっと流れるように伸びていく。
その「田園」ヘ長調がその前の第5番「運命」ハ短調と同時並行的に作曲されていた――そう言えば、最初の八分休符と動機の終わりのフェルマータのつけ方は同じである。テーマが繰り返し繰り返し展開されるところも――ことを知ると、ベートーヴェンの精神のダイナミックさに言葉がでません。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study495:120510〕
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