旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(19)
- 2012年 5月 18日
- スタディルーム
- 岩田昌征
60.弁護士から裁判官へ
1994年にドイツで逮捕され、ハーグ国際法廷で結審されるまで、12人の弁護士が入れ替り立ち替り私の弁護団に登場した。セルビア人、オランダ人、イギリス人、ドイツ人、ボスニア・セルビア人。私は彼等の各々について弁護制度の本領に照らして恥じ入るであろうような諸事実を何百ページも書き記すことが出来るだろう。結局の所次のようなことが分った次第である。弁護士、ハーグ法廷裁判官、そしてその調査員を結び付けていたのは共通利益、すなわちマスメディアにおける名声、出来るだけ高い報酬、そして最後に彼等が関与する裁判の真と正である。
オランダ人弁護士アルフォンス・オリは裁判の最初から私の弁護団長ヴラディミロフの最も近しい協力者であった。公判で私の主張を熱心に代弁し、セルビアとモンテネグロ(旧ユーゴスラヴィア)が旧ユーゴスラヴィアから分れ出た諸新国家を侵略しなかったと主張した。第一審終結の直前、彼から異例の手紙(1997年3月21日)を受け取った。「私は裁判官の職務につくことになった。3月21日の貴氏との面会は獄の事情で不可能になった。(p.154)私は貴方が大切にする貴国を勉強し、その国が如何に破壊されたかを知ることが出来た。……。明日からは弁護士ではない。もう貴方に会えない。友人のあいさつをもって。」
彼はオランダ憲法裁判所裁判官を10年つとめた後、国連のハーグ国際法廷の12人の裁判官の一人となった。そして、モムチロ・クライシニク(ラドヴァン・カラジチに次ぐセルビア人共和国の内戦時実力者。岩田)と他の諸セルビア人に対して厳しく敵対的人物として聞こえた。旧ユーゴスラヴィア(セルビアとモンテネグロ)軍がボスニア・ヘルツェゴヴィナ(BiH)を侵略したと言う主張の非妥協的支持者となった。(p.155)
61.弁護費用なし
私が悪名高きドイツのシトラウビング監獄に収容されていた時、刑期満了前釈放に関する助力を求めて以前の弁護士ステファン・ウフェルに手紙を書いた。彼は2004年5月26日に返事をくれた。「ドイツ法と国際法によれば、資金的支援を求める権利は貴方に無い。(p.156)貴方の弟(or兄)ムラデンはかつてあなたのために集められたカンパを横領した。……。ハーグ法廷は最も早くて2007年7月14日に釈放することが出来ると決定したと思われる。」
私はムスリム人政権が弟(or兄)ムラデンとその前妻ソフィアをリクルートし、検察証人にするとは夢にも思わなかった。彼は私の写真やビデオをハーグの調査員に提供し、それらはドラガン・オパチチのような偽証人達を用意するのに利用された。
1997年5月7日の判決に次のようにある。「諸証人達が述べたように、被告は民族主義的諸理念を受容した。例えば、被告の弟(or兄)ムラデンの前妻ソフィア・タディチは被告がスロボダン・ミロシェヴィチを唯一の真の人間、真の政治家であると語り、男の子が生まれたらスロボダンと名付けると語っていた、と証言する。また、彼の家族がコザラツの正教会で活動的になって行き、被告はある時ムスリム人達が通るのを見て、『見ろよ、バリイエ(ムスリム人の蔑称。岩田)がモスクへ行くところだ。』と叫んだ、と証言する。(p.157)」
判決には書かれてないが、記録文書と私の記憶に次のようなやりとりがある。反対質問で私の弁護士スティヴェン・ケイがソフィアに問う。「息子にスロボダンと名付けましたか。」「ノーです。娘が生まれましたから。」「スロボダンカという女子の名前もありますね。」「はい。」「それでは被告は娘にスロボダンカと名付けなかったのは何故ですか。」「わかりません。」
判決はこのように検察に都合の良い所だけを取っている。(p.158)
62.ヴゥインの場合
ヴゥインはベオグラードの弁護士会会長をつとめたこともある人物だ。外国人弁護士達が私の弁護にとって本質的な証人達に到達できなかったので、ハーグのセルビア大使館に助力を求めた。大使は控訴審に重要な証人を見付けるように努力すると約束した。(p.159)但し、それには条件があって、ヴラディミロフ、ケイ、シルヴィヤ・ベルトダノを解任し、すべてをミラン・ヴゥインに任せることだった。私はそんなことを望まなかった。私は妥協を求めて、ヴラディミロフ教授にヴゥインとの協力を受け容れるように手紙を書いた。これまでアクセスできなかった証人達の証言を得るための主要条件だったからだ。
ヴラディミロフの返事は以下の如し。「貴殿の4月16日付手紙拝読。私はスティヴェン・ケイとシルヴィヤと共にこれからも貴殿の弁護を行なうつもり。ミラン・ヴゥインとコスティチとは一緒にやるつもりなし。」(p.160)
63.虚偽の約束
弁護士ヴゥインが面会に来て、私が第一審で有罪とされた諸事件の目撃証人5人の証言をとると堅く約束した。弁護チームの指揮をミラン・ヴゥインに任せた。局面転換の最後のチャンスだと信じたからだ。大使ロピチチと弁護士ヴゥインの堅い約束を得たのだ。まもなく、弁護団にスラヴォニア出身のセルビア女性を妻としているイギリス人弁護士ジョン・リヴィングストンが加わった。一年後、リヴィングストンは新証拠収集において現地でぶつかっている諸問題について報告を書いた。そのほかの各種情報とあわせて、私の主任弁護士ヴゥインが私の有罪の根拠とされた諸行為の実行者達に関する真実を明るみ出す事を妨害している事がはっきりした。約束とは反対に、ヴゥインはドルリャチャとヤンコンヴィチ、プリェドルの地元権力者達の協力者となっていた。ショックと絶望。私はヴゥインとの関係を絶った。その後、彼の行動はハーグ法廷の調査対象となった。(p.161)
64.法廷軽視
国際法廷控訴院は1999年2月10日ヴゥインを召喚して、法廷軽視(不敬)し、正義の遂行を意図的・意識的に妨害した事に釈明を求めた。私と私の新弁護士アントニ・アベルは「利害関係者」のステイタスを得た。ヴゥインの要請と検察の同意によってヴゥイン裁判の大部分は非公開となった。ヴゥインは私の裁判の証人達に彼以外の共同弁護士の質問以前に供述すべきこと、すべきでないことを指示していた。共同弁護士の質問中に身ぶり・首ふりでイエスと答えるか、ノーと答えるかを示唆した。国際法廷で虚偽証言をするように証人達を教育した。教えられた通りに供述した者に金を払い、そうならなかった者に金を支払わなかった。このような事態は1997年9月から1998年4月に起こった。
また、コザラツにおけるムスリム人警官2人の殺害者がタディチではなく、他の誰かである事に関する証人「W」をめぐって情報を混乱させた。具体的名前を出すなとの指示。1999年1月ヴゥインはベオグラードの新聞『ドネヴニ・テレグフ』で彼のタディチ弁護団離脱に関してインタビューを受け、「彼は私がプロとして同意できない要求をしたからだ。例えば、彼は個別的犯罪の実行者を私が暴露するように求めた。」と語っている。ヴゥインは有罪となった。控訴院第二審で彼の上告は2001年2月27日に棄却された。「法廷軽視(不敬)罪」である。
控訴院はヴゥインが重大な法廷軽視(不敬)を働いたと判断した。弁護士は裁判において特権が与えられている。しかし、その特権は悪用されてはならない。(pp.162-167)「残念ながら、その特権はしばしば悪用される。多くは弁護士の顧客を有利にする為だ。本件においては彼の顧客(タディチ)を不利にするためだ。彼が獄中にあり、弁護士に頼ることすこぶる大である時、この事はより悪質である。」「拘禁刑ではなく、多額の罰金刑が相当である。」(p.168)
(私、岩田がヴゥイン裁判の箇所を読んでも、ハーグ法廷が事実と法理に忠実であろうとする姿勢に好感がもてる。ヨーロッパ文明の正義の根深さを感じさせる。しかしながら、「三日間の虚偽証言」におけるハーグ検察とムスリム人側の偽証工作に関しては調査実施が空言となっている。政治的敵対者に関しては事実と法理をとことん追求するが、政治的味方に関しては事実と正義を封印する。これがヨーロッパ文明というものであろう。司法もマスコミもこの点同じらしい。)
65.ベオグラードからの誠実な支持
デンハーグの獄中の私を旧ユーゴスラヴィアと諸外国から様々な諸組織の代表者達が面会に来た。もっとも印象深い人物は元セルビア国防相でベオグラード軍医アカデミー長のDr.ゾラン・スタンコヴィチ将軍であった。私達は私が実験用うさぎであって、いつの日かセルビアとセルビア人共和国の軍と政の首脳部を丸ごと被告席にすわらせるために、私の裁判を通して法廷はルールを練り上げつつあると分析した。首脳部の大多数は私のケースが彼等にとってデンハーグへの道である事を全く理解してなかった。(p.169)
(pp.170-171にゾラン・スランコヴィチ将軍のタディチあて手紙が紹介されている。省略。岩田)
66.ガレージの中の狂乱
ドラガン・オパチチに次ぐ私に反対する冠証人は被保護証人「H」であった。検察は彼の供述を起訴状に採用した。「ドゥシコ・タディチと何人かの看守達は1992年6月18日ガレージからムスリム人捕虜5人、エミル・カラバシチ、ヤスミン・フルニチ、エンヴェル・アリチ、フィクレタ・ハラムバシチ、エミル・ベゴヴィチを呼び出して、数時間にわたり、強打した。タディチ等は彼等相互に性的交渉を強制し、いじめぬいた。」(p.172)
67.face to face
検察によれば、これら5人は生き残らなかった。証人「H」と証人「G」が生き延びた。証人「H」の証言は第一にガレージの半開きドアからの見聞と第二に自分自身の実際の行動から成る。
「髭面の男」、すなわち35才位、身長180センチ位、茶褐色の髪の男は「H」と「G」が強打された囚人達を外へ運び出すように命じた。フルニチは息があり、抵抗しかけたが、髭面の男が彼の首を踏み付けた。(p.173)ガレージの前にある溝にハラムバシチの裸で全身血まみれの身体を投げ込んだ。戦争前はプリェドルの警察官だった。髭面の男は証人「G」にハラムバシチの睾丸を噛むように命じた。証人「G」が両手で彼の口をふさいだ。「G」は抵抗するハラムバシチの両股を開かせた。髭面の男は「G」に近寄って「ハラムバシチのたまを噛み切れ」と命じた。ハラムバシチはもはや抵抗する力がなくなっていた。「G」はたまを噛み切って、ペッと口からはき出した。睾丸はころがってマンホールに。私(「H」)はハラムバシチを机の所まで運び、床にねかせた。彼は水をくれと言った。水がないと答えた。一人の看守が「逃げろ。『髭面の男』に殺されるぞ。」と私(「H」)に言った。全速力で自分の部屋に逃げかえった。
証人「H」の供述はマスメディアが存分に活用した。あの「髭面の男」に当るのは私、ドゥシコ・タディチだけである、と。
しかしながら、メディアは証人「H」の証言の肝腎な箇所にあまり関心をよせなかった。「その虐待にドゥシコ・タディチがくわわっていたか」と言う検察の質問に証人「H」は「ノー」と答えた。「私の部屋にもどった時、囚人達もそれを知りたがった。あれはドゥシコかときかれた。あの『髭面の男』はドゥシコ・タディチではないと答えた。1年間彼の所で空手をならったので、ドゥシコを良く知っている。私は『髭面の男』とface to faceで会ったけれど、誰なのかは知らない。」と「H」は付け加えた。(p.175)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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