旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(あとがき)
- 2012年 5月 25日
- スタディルーム
- 岩田昌征
2011年12月9日に始まった「ハーグ法廷戦犯1号の日記」(2011年増補版、初版は2010年)、Duško Tadić、Dnevnik Prvog Haškog Zatočenika、drugo prošireno izdanje、Hrišćanska Misao、Beograd、2010、の抄訳と要約による紹介は今回で終了した。人権支援市民組織の国際的ネットワークからはずされて、自分の言い分を精一杯述べた最初の著書をベオグラードのブックフェアで一人プロモートしている時に、通りがかった中年女性から読んでくれるかも知れない人間として私の東京のアドレスを知ってわざわざ贈送してくれた著者ドゥシコ・タディチにバルカン的、あるいは大和的義理人情を感じた事がこの多数回の紹介の心動因であった。
本書とほぼ同時に『戦争犯罪を裁く(上)ハーグ国際法廷の挑戦』(ジョン・ヘーガン著/本間さおり訳/坪内渡監修、NHK出版、2011年)を読んだ。多くのページを割いて被告ドゥシコ・タディチ「が関与していた、オマルスカの収容所およびプリエドルにおけるエスニック・クレンジング」(p.134)について縷々記述されている。欧米市民社会人が書いたものであるから当然と言うべきか、被告タディチの一貫したアリバイ(現場不在証明)主張や彼に酷似する「髭面の男」の存在主張は全く取り上げられていない。私を含む多くの第三者的常民・市民は紛争(犯罪)現場の事実認定を行なう能力を有していないが、紛争(犯罪)当事者達の相異なる諸主張を突き合わせる能力を有している。但し、それぞれの立場の諸主張が公平に眼の前に提示されるならば、の話である。ヘーガン著のタディチ部分はタディチ日記と対読されるべきであろう。
ここで私、岩田が対読してみて検察側と言うよりどちらかと問われればタディチの主張に傾く心証―義理人情とは別の―について述べておこう。私見によれば、ハーグ法廷初期の被告達には司法取引の大きなチャンス、一種の「特権」があったと思われる。タディチにもエルデモヴィチの選択肢があったと思量される。エルデモヴィチ(ボスニア・セルビア人軍所属のクロアチア人兵士)は1995年7月スレブレニツァで起ったセルビア人軍によるムスリム人捕虜1200人の虐殺に関与し、自身も70人を射殺した事を認め、かつ続く諸裁判において検察側証人として出廷証言する事を承諾したので、司法取引によってわずか5年の刑期で済んでいる。70人を殺害してもわずか5年の禁錮刑である事を念頭におけば、タディチが司法取引に応じて、オマルスカで例えば「10人」を「殺害」した事を「自供」し、その後の関連する諸裁判で検察側証人として出廷証言する事を承諾していたならば、おそらく刑期は1年ないしは2年で済んだかも知れない。そして、エルデモヴィチと同じく、家族は西側のある国で安全な市民生活が欧米権力によって保証保護されたであろう。ドゥシコ・タディチが第一に検察が告発する類の犯罪を犯していたならば、そして第二に彼が近代個人的・合理的人間であれば、司法取引のチャンスを利用した方が彼および彼の家族の個人的効用は圧倒的に高まったであろう。ところが、事態はそうなっていない。彼は20年の刑を受け、14年の獄中生活を耐えた。その理由は、第一に無実の信念、第二に近代民族的人間性。第二に関して、タディチが検察側の証人として証言すれば、その被害は同民族のセルビア人被告達が負うことになる。従って個人的合理性に徹し切れない。特に第一の無実の信念が強い。エルデモヴィチの場合、第一の無実の信念に欠けるし、第二に自分の証言の被害はセルビア人被告等が負い、同民族のクロアチア人被告等に及ばない。
いずれにしても、紛争認識には「羅生門」性がつきまとう。「ハーグ国際法廷の挑戦」を特筆大書するのも構わないが、ハーグ国際法廷による冤罪創出の蓋然性をも心の片隅にとっておく必要もあろう。
ドゥシコ・タディチの無実証明執念は根深い。しかし残念ながら、欧米市民社会が文明の新機軸として打ち立てた国際戦犯法廷の被告第1号の法的地位は変更されないだろう。第1号が冤罪であるとは法廷の権威、文明社会の権威にかけて承認されないであろう。彼が例えば「第30号」であれば、別かもしれないが。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study503:120525〕
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