悪いことがなければ、良いことは来ない─バイオリニスト黒沼ユリ子、32年のメキシコ音楽教室を語る
- 2012年 6月 8日
- 評論・紹介・意見
- メキシコ鈴木顕介黒沼ユリ子
メキシコを拠点に活動してきた世界的に知られるバイオリニスト黒沼ユリ子さんが、旭日小綬章受章で来日した機会に7日、日本記者クラブで「囲む会」が開かれた。
話の中心は、受章理由で挙げられた日本メキシコ文化音楽交流振興の舞台ともなった音楽教室「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」の盛衰。子どもにバイオリンを教える場が全くなかったメキシコで徒手空拳、私塾を立ち上げたのが1980年だった。アカデミアはすぐに全メキシコに知られるようになった。最盛期には長期在籍者が多く空席待ちでもなかなか入れず、在籍者は125人を数えた。メキシコ各地の音楽界だけでなく、国際的舞台で活躍する逸材も育てた。音楽のプロでなく、音楽を通じて培った集中力で、経済人、弁護士など一流の社会人として活躍する卒塾者も数多い。
音楽教育と並んで努めたのが、音楽を通じた日本との交流。開塾当初、メキシコで全く作られていなかった子ども用バイオリンは日本で調達した。1985年を初回にたびたびアカデミア在籍者からすぐった楽員と来日した。今では国際的にメキシコを代表するバイオリニスト、アドリアン・ユストゥスは、初来日のメンバー12人の一人。来日の時の演奏に対する日本の聴衆の反応で音楽にかける決意が固まったという。歌うのが誰でも根っから好きなメキシコ人ならでは “歌うバイオリニスト”と呼ばれる彼は、黒沼さんの秘蔵っ子の第一人者だ。
東日本大震災と、福島原発事故の直後に、日本に対する支援と連帯の証として呼び掛けた9時間のマラソン募金コンサートに、卒塾生ら220人の音楽家が無料でかけつけた。黒沼さんのメキシコでの30年を超える音楽教育と、両国交流での業績のたまものといえるだろう。
黒沼さんはアカデミアをこの6月学期を最後に閉じることにした。理由は音楽環境の変化。2001年から国が子どもの音楽教育に本格的に乗り出した。国立少年少女オーケストラも創られた。1980年とは隔世の感だ。いまだ貧しい人々が多く、非行に走る子どもも多いメキシコで、音楽の力でこれを正そうというベネズエラで始まった方式のメキシコ版。
裏の理由は音楽家庭教師の激増。東ヨーロッパの社会主義政権が倒れ、それまで国家の厚い支援で活動してきた音楽家たちが失業した。特種技能者の一つとして音楽家にビザを発給するメキシコに、いわば“音楽移民”として多数の音楽家が流入した。公的ポストのかたわらのアルバイトが増えた。治安が不安なメキシコでは、バイオリンを習う子どもは、金持ちの子とみられやすい。アカデミアに通うには親の送り迎えが不可欠。そこでより安全で手間のかからない家庭教師が歓迎されるようになった。
アカデミアの在籍者は20人に激減、6月で72歳になったこともあり、閉塾を決めた。これからは各州に作られた子どもオーケストラの指導者養成に力を尽くすつもりという。
桐朋女子高校音楽科を出た18歳、あまり知られていなかったチェコのプラハ音楽芸術アカデミーに留学。そこで出会ったメキシコ人と結婚、メキシコに活動の場を持って現在に至った。「マイナーなものをメジャーなものするのが私の好きなこと」と型破りの音楽人生を振り返る。苦労も多かったが、「悪いことがなければ、良いことはやってこない」座右の銘のメキシコのことわざを引いて話を結んだ。
質問に答える中で、メキシコの治安の悪さの原因と言われる麻薬の対米密輸に触れた。「アメリカはメキシコからの麻薬の密輸を非難するが、アメリカ人が麻薬をほしがることが第一の原因だ。アメリカ人が麻薬をほしがる原因はアメリカがやってきた戦争にある」ときっぱり。黒沼さんに初めて出会った1960年代後半、私のメキシコ時代に学んだ、アングロ・アメリカとラテン・アメリカの深淵を思い起こさせてくれた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0911:120608〕
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