重慶事件における新左派の役割と政治改革のゆくえ(下)
- 2012年 6月 22日
- 時代をみる
- 新左派石井知章重慶事件
http://chikyuza.net/archives/23836より続く。
4、鄧小平と趙紫陽の政治改革の今日的な意味
今回の重慶事件が示すように、仮に部分的にであったとしても、毛沢東主義という名の中国の「伝統」への回帰によって「革新」をもたらそうとする試みとは、文革の際、全面的に復活していった前近代的非合理性を、再び呼び起こすことに帰結するだけである。いいかえれば、毛沢東主義という「伝統」への復帰による「近代化」の推進とは、あたかも清末の洋務運動での「中体西用」(伝統中国を基底にして近代西洋を用いる)がことごとく失敗したように、たんに前近代的なものへの後退、とりわけこの10年余りの間、「新左派」の拡大とともに復活し、ますますその「伝統」の力を強めてきた「封建専制」(=アジア的専制)の再来をもたらすだけなのである。では、いったいここではなにが求められるのか。
毛沢東体制の終焉という歴史的転換点で開催された中国共産党第11期三中全会(1978年12月)では、「10年の災難」と呼ばれた「極左」路線、文化大革命が全面的に否定され、新たな現代化路線への一大転換が方向づけられた。この会議では、文革期における毛沢東の個人崇拝、その独裁的政治手法によってもたらされた「党の一元的指導」による数々の弊害が指摘され、党・政府・企業指導の不分離現象の改善、管理体制の機能化・効率化の必要性が提唱された。ここでは社会主義=労農国家という本来の理念とは大きくかけ離れてしまった中国社会主義体制下において、「人民民主主義」を実現すべき「プロレタリアートの独裁」が、実際のところ「党の独裁」、さらには「個人独裁」へと導いてしまったという政治システムをめぐる根源的諸問題を直視し、それを国家と社会との関係でいかに解決すべきかが真剣に問われたのである。この新たな改革開放の時代において、中国共産党が取り組むべき重要課題として注目されたのが、単に党や政府という「国家」の指導機構の改革だけでなく、それをとりまく「社会」における企業の党政ガバナンスのあり方、そしてそれを「下から」支える利益表出団体としての労働組合(工会)のあり方といった「社会」主義的諸制度をめぐる「民主的」改革であった。
こうした中で行われた鄧小平による「党と国家の指導制度の改革についての講話」(中国共産党政治局拡大会議、1980年8月)とは、中国共産党史上はじめて、過去における「封建専制」という名の「アジア的」専制主義の存在そのものを公式に認めて、それが文革という悲劇を招いた根本原因の一つとみなした画期的な内容であった。ここで鄧は、「(文革の発生が)わが国の歴史上の封建専制主義の影響と関係があり、また国際共産主義運動時代におこなった各国の党の活動において、指導者個人が高度に権力を集中させていたことと関係がある」と認めつつ、それを如何に克服するかという現実的政治課題に結び付けたのである。
こうした改革開放政策のなかでも、とりわけ注目すべきなのは、趙紫陽が第13回党大会(1987年10月)で、さまざまな具体的政治体制改革を提起したことである。その「政治報告」で趙紫陽は、(1)「党政分離」の方針、(2)国家行政機関の中心で実権を握っている党組の撤廃、(3)「党指導下の工場長責任制」から「工場長単独責任制」への切り替え、(4)基層民主(村民自治と住民自治)の推進、(5)情報公開の推進および社会対話制度の整備、などの大胆な政治体制改革を提起したのである。ここで趙紫陽は、現代化により生産力を発展させ、そのための改革を全面的に推し進め、公有制を主として大胆に計画的商品経済を発展させるなどの諸条件づくりを提唱した上で、その民主的改革遂行の困難さの原因として、中国の伝統的「封建専制」の影響に言及した。趙はいう。「必ずや安定的団結の前提の下で、民主政治を建設すべく努力しなければならない。社会主義は、高度な民主、完成された法制、安定的社会環境を有すべきである。初級段階においては、不安定要因がきわめて多く、安定的団結を維持することがとりわけ重要となる。必ず人民内部の矛盾を処理しなければならない。人民民主の独裁を弱めることはできない。社会主義的民主政治の建設は、封建専制主義の影響が深いという特殊な緊迫性の存在ゆえに、またその歴史的、社会的条件の制限を受けるがゆえに、秩序ある段取りでしか、進めることができないのである」(同「政治報告」)。つまり、ここでも趙紫陽は鄧小平と同じように、文化大革命という悲劇をもたらし、民主主義の健全な育成を妨げる根本原因の一つとして、中国の歴史的、社会的伝統である「封建専制」の問題を取り上げ、それを社会主義初級段階論に結びつけつつ、長期的視野に立って、「封建」遺制の克服を企図したのである。
これはかつての資本主義論争において、いわゆる「二段階革命論」として議論された「ブルジョア民主主義」をめぐる現代的再論である。趙紫陽はここで、「中国人民が資本主義という十分な発展段階を経ることなく社会主義の道を歩めることを認めないのは、革命の発展という問題上の機械論であり、かつ極右的な誤りの認識上の重要な根源であるが、生産力の巨大な発展を経ずに社会主義の初級段階を越えられると考えることは、革命の発展という問題上の空想論であり、極左的誤りの認識上の重要な根源である」と述べ、いわば「遅ればせのブルジョア革命」の必要性を提唱したのである。だが、天安門事件以降、こうしたオルタナティブとしての前向きな政策提言とは、中国国内ではすべてタブー扱いされ、公的に議論することすら許されなくなったばかりか、日本の中国研究者の間でさえ、ほとんど取り挙げられなくなったというのが実状である。このことはまた、日本における中国研究の現在が、たんに中国国内における権力=言説構造をそのまま反映したものにすぎないことを示唆している。
5、天安門事件が今日に及ぼしている社会的影響
中国における新自由主義を支えている最大の理論的根拠とは、2000年2月、江沢民によって提出された「三つの代表」論にある。ここで中国共産党は、「先進的な社会的生産力の要請」、「先進的文化の発展」、「広範な人民の根本的利益」の3つを代表するとされたが、とくに新自由主義の拡大との関連で最大の根拠となるのが、この「広範な人民の根本的利益」であろう。ポスト天安門事件期のいわゆる「権威主義」体制下において、この一項目こそが、改革開放政策で勢力を伸ばした私営企業家の入党を促し、人権など普遍的価値の実現よりも、むしろ経済成長を優先する「開発独裁」のさらなる強化をもたらすこととなったのである。たとえば、2010年春、広州ホンダで繰り広げられた若き非正規労働者らによるストライキでは、既成の労働組合(総工会)が存在していたものの、その代表とは人事管理課次長であり、けっして労働者を代表するものではなかった。だが、こうした明らかな社会的矛盾が堂々とまかり通ったのも、この「三つの代表」論がきわめて有効に機能していたからに他ならない。
さらに、労働組合に対する法規制に関連していえば、この「三つの代表」論が出された後にまとめられた改正工会(労働組合)法(2001年10月施行)では、かつての50年法、92年法と同様に、「工会は労働者が自発的に結合した階級的大衆組織である」(第2条)と規定されたうえ、「中華全国総工会およびその各工会組織は、労働者の利益を代表し、法に基づき労働者の合法的権益を守る」(同)との項目が付け加えられてはいた。だが、その最大の目的とは、工会が「憲法を根本的活動の原則として、独立自主的に活動を繰り広げる」(第4条)とした92年法の条文に挿入する形で、「憲法に依拠し、経済活動を中心として、社会主義の道、プロレタリアート独裁、中国共産党の指導、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論を堅持し、改革開放を堅持し、工会規約に基づき、独立自主的に活動を繰り広げる」(同)とし、それまでの工会の「独立自主的活動」を、鄧小平の「四つの基本原則」(社会主義の道、プロレタリアート独裁、中国共産党の指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)で限界付けることにあったといえる。ところが、新自由主義を批判すると称する「新左派」と日本の一部の知識人たちは、この「新自由主義派」の最大のよりどころである「三つの代表」論には、けっして触れようとはしないのである。
おわりに――「第三の道」としての政治改革への可能性
すでに述べたように、89年の天安門事件以来の政変とも呼ばれた今回の解任劇とは、「政治改革の推進か、文化大革命という歴史的悲劇の再来か」の選択を迫るものであった。しかるに、新自由主義を批判してきたはずの「新左派」の代表的論客である汪暉は、この重慶の「改革」モデルについて、「この改革が一種の公開政治であったこと、また民衆の参与に開かれた民主のテストであったことを証明している」といまだに熱心に擁護し、逆に毛沢東時代の文革型大衆迎合「運動」にノーを突きつけた温家宝に対しては、デマを撒き散らす「密室政治」であると批判している(前掲『世界』)。これはほとんど本末転倒であり、それこそ「何の根拠も持たないもの」としかいいようがないのだが、むしろここでの根源的問題は、汪暉ら「新左派」が現代中国社会になおも強固に存在し続ける「前近代的」遺制への直視を拒否し続け、さらに日本の「進歩的」とされる知識人やメディアが、いまだに背後でこれを支え続けている、という事実にこそある。これらの人々はみな、「新自由主義派」の理論的根拠である江沢民の「三つの代表」論を批判することもなく、かつ80年代後半に追求された「第三の道」の可能性に対しても、いっさい口を閉ざしたままなのである。
だが、今回の重慶事件は、明らかに薄熙来が後ろ盾としていた江沢民閥というトップリーダーたちの政治力学を大きく変化させ、その権力基盤を瓦解の危機に追いやり始めている。たしかにこの薄熙来おろしの成否次第では、次の習近平体制の力関係が決まってくるといえるが(矢吹晋『中国・薄熙来解任騒動が写す権力闘争』、朝日WEB新書)、見方を変えれば、今回の事件を契機とする「改革派」の巻き返しによっては、いまも政治的基盤として残っている胡耀邦の「伝統」をはるかに越えて、趙紫陽の提唱した「第三の道」としての政治改革へと復帰していく可能性もけっして否定しきれないであろう。なぜなら、この可能なるシナリオ自体が、「伝統」に回帰しつつ「革新」を求める「伝統的」中国政治のあり方の一部をなしているからである。その意味では、新たな習体制の成立する次の党大会まで、今回の重慶事件が中国の国内でどのように扱われていくのかを見極める必要があり、いましばらくは、中国の動きから目を離せない状況にあるといえる。
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