学問の道を歩む―4―
- 2012年 7月 3日
- スタディルーム
- ナチズム村瀬興雄石塚正英
わが恩師、村瀬興雄先生は2000年3月に亡くなった。その少し前、何か虫が知らせたのか、私は1999年末に先生に電話で連絡をとり、ナチズム研究に関して先生の近況を尋ねた。そして、村瀬学説に関して解説文をまとめることにしたのだった。その原稿「村瀬興雄教授のナチズム研究によせて」は残念ながら先生死後に脱稿となった。その冒頭「はじめに」を以下に引用しておく。本文は『立正史学』(第88号、2000年)に投稿した。いまは『歴史知と学問論』(社会評論社、2007年)に収められている。
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戦後我が邦のドイツ現代史研究における第一人者であった村瀬興雄教授(1913~2000)は、ハンブルク大学のフリッツ・フィッシャー教授の唱える〈ドイツ支配勢力の 連続性〉に学問的な賛意を表明した。ナチズムをドイツ史とドイツの風土の自然な産物として歴史的に説明する立場である。その際この立場は、ヒトラーとナチズムをドイツ史の例外、アクシデントとみてナチズムをドイツ社会とその歴史から断ち切ろうとする諸学派に批判された。あるいは冷戦時代を反映して、フィッシャー派は共産主義国東ドイツの回し者といった非難をうけた。村瀬教授はそのことを十分確認した上で、あえて自らフィッシャー学説に賛意を表明したのである。そうした断固たる学問的態度は、著作『ナチス統治下の民衆生活』(1983)および『ナチズムと大衆社会』(1987)によく記されている。それら二著のもとになった原稿はあらかた、当時所属していた立正大学の史学会会誌『立正史学』の諸号(1978~83)において発表されたものである。上記2著刊行後、1980年代末から1990年代前半にかて村瀬教授は内外の研究者たちから賛否両論の注目を浴びた。教授はその都度これに応答し、真摯な態度で反論ないし補遺を行なってきた。その大半は、立正大学のあと特任教授として転任された創価大学の社会学会会誌『ソシオロジカ』の諸号に掲載された。
ところで、1978年から81年まで立正大学大学院博士課程で村瀬教授より現代史研究の指導を受けた私は、けっして師弟関係だからというのでなく、ヨーロッパ社会思想史を守備範囲とする自らの学問的見地からして、村瀬教授の築いた業績を現在までのところ最も優れた学説と思っている。例えば西川正雄氏の批判的所見(『江口朴郎著作集』第二巻「解説」、青木書店、1975年、290頁)などは的外れの代表であり、幾多の批評を読んでみても私の村瀬ゆずりの学問的信念はいまもって微動だにせず、その見地でもって20年近く諸大学で歴史学を講義してきた。ただ、齢80をすぎた恩師を前に、満50歳をすぎた私はそろそろ自らの確証として師に何を学んできたか、と改めて深く自問自答しておきたくなった。そこで昨(1999)年末、「村瀬興雄教授のナチズム研究によせて」といった内容の原稿執筆を発起し、12月5日、村瀬教授に直接電話連絡をとった。最新の執筆状況を問うためにであった。すこぶるお元気であった。「先生、あの『民衆生活』のモティーフにいまでも変更はございませんね」「えぇ、基本的にはありません」。この一言は明快だった。饒舌ですらあった。しかし本(2000)年正月、毎年欠かさず頂戴する年賀状が来ない。ご様子うかがいを兼ねて2月12日、不確かな点について今一度調査の電話を差し上げた。電話ごしのお声には艶がなく、口数が少なかった。約3週間後の3月2日、村瀬教授は多臓器不全で逝去された。
しかし、いったん執筆を決めたこの論文はなんとしても形あるものにしたい。そう考え、村瀬教授追悼の意味をもこめ、以下においてナチズム研究上における村瀬学説の意味について解説をしたためてみることとする。以下、村瀬教授ほかの方々の敬称や肩書きは省略する。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study524:120703〕
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