「鶴八鶴次郎」の優しさと美しさ ―20世紀の銀幕を飾った山田五十鈴―
- 2012年 7月 14日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市山田五十鈴
《映画女優山田五十鈴》
女優山田五十鈴が7月9日に95歳で逝った。
2012年1月25日の拙稿『日本女性の激しさと優しさ―NHKの「姉妹3作品」を観て』で、彼女の主演映画『祇園の姉妹』に触れた。「透徹した溝口の精神は76年を生き延びて今も我々に感動を与える」と書いたとき、私にとって山田五十鈴は幻想のなかの女性だった。半世紀以上前の青春時代に、同世代の仲間は欧米映画を熱く語った。私は小便臭い日本映画が好きだったので懸命に邦画の魅力を説いた。
私にとって山田五十鈴は「映画女優」である。新聞やテレビの追悼は彼女の「舞台」(たとえば『たぬき』)と「テレビ」出演(たとえば『必殺仕掛け人』)にウェイトを置いている。しかし、私には丸の内の演劇街を楽しみ、夜のテレビ番組を観る余裕はなかった。それは私の「働き盛り」の時期であり、預金集めの「ドブ板外交」や「売りか買いか」の株式投資という仕事に集中していたからである。
《長谷川一夫との共演》
私の記憶に残る山田五十鈴の出演作品は次の通りである。
『浪華悲歌』、『祇園の姉妹』(監督溝口健二・1936年)、『蜘蛛巣城』(黒澤明・1957年)『どん底』(同)、『東京暮色』(小津安二郎・1957年)、『或る夜の殿様』(衣笠貞之助・1946年)、『現代人』(渋谷実・1952年)、『鶴八鶴次郎』(成瀬巳喜男・1938年)、『流れる』(同・1957年)。勿論、他にも沢山―例えば『新妻鏡』(渡辺邦男・1940年)―あるが書ききれない。
戦前から戦後まで長谷川一夫と共演した作品が多い。戦中の観衆は緊張感からの解放を求めていた。長谷川・山田の作品はその目的を果たしたと思う。
『鶴八鶴次郎』におけるこのコンビ演技は絶品であった。川口松太郎原作による新内芸人の悲恋物語である。結婚すると思われた二人が、小さな行き違いから、山田は人の良いパトロンに嫁いだ。芸を忘れられぬ彼女は長谷川との舞台に復帰し大ヒットする。しかし長谷川がコンビの継続を断る。それは長谷川の愛情表現であった。成瀬巳喜男の抑制の利いた演出、二人の好演、脇を固めた助演者、それがこの人情劇を「崇高な愛情劇」に変えた。
《『東京暮色』と『或る夜の殿様』》
小津作品としては陰鬱な『東京暮色』のラストシーンで、都落ちする山田と信欽三の夫婦が不和になった娘が送りにくるのを車窓で待つ。ホームでは明大学生の一群が「白雲なびく駿河台」の校歌を大声で歌っている。同窓生の歓送でもあるのだろう。娘は現れなかった。このときの山田の表情が忘れられない。
戦後の開放感に溢れた『或る夜の殿様』における長谷川との明るい演技も記憶に鮮明だ。明治初期の鉄道開発をテーマの洗練された喜劇。その中で山田は、書生実は華族に扮した長谷川一夫に惚れて必死にサポートする健気な女中を演じた。令嬢に扮した美しい高峰秀子とともに、実に良かった。
恋にも思想にも積極的だった彼女は、俳優加藤嘉と結婚していた頃か、独立プロのイデオロギー色の強い映画にも出演した。しかし山田の汚れ役を私は評価できなかった。
《20世紀日本映画を支えた名花》
山田五十鈴はどんな女優だったのか。
銀幕で観ただけである。本質解明などは到底不可能である。山田は「役者にとっての男女関係は芸の肥やし」という見方を否定したという。山田は自分の努力で芸を磨いたのだと思う。それは求道者のようにも思われる。山田五十鈴は半世紀以上にわたって我々に、芸の美しさ、芸の楽しさ、芸の厳しさを見せてくれた。
田中絹代、高峰秀子、山田五十鈴。20世紀の銀幕に咲いた名花たちは日本庶民の誇りである。
(2012年7月11日記す)
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