戦死者の追悼とは何かを改めて問う
- 2010年 8月 18日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
8月15日の政府(首相や閣僚)の靖国神社参拝が今年は取りやめになった。これについては批判もあるようだが、よかったのではないかと思う。終戦(敗戦)記念日に政府首脳が靖国神社を参拝することについては中国や韓国などのアジア諸国から批判だけでなく、国内でも批判は強い。国内では賛否の声が相半ばしていると言ってもいいのだと思う。僕は政府首脳の靖国神社参拝などは止めた方がいいという考えであり、そのことをいつも表明してきたが内心のわだかまりが存在してもいた。戦死者の追悼とは何だろうという問いかけに応えきれていないという思いが残ったからである。
靖国神社は8月15日に戦死者を追悼する行事を主催するにあたって太平洋戦争やその前の中国大陸での戦争を肯定する立場に近いところに意を置いている。戦死者たちの当時の戦争についての意識や感情にそって追悼しているといえるのかもしれないが、戦死者を追悼する立場としてこれがいいのかといえば疑問を持つ人がいるのは当然である。戦死者を英霊として追悼するのが戦前・戦中の当時の在り方であり、戦死者もそれを望んでいたにしても、それを戦後も継続することがいいのかという疑問だ。何故なら、あの戦争を聖戦する考えが敗戦を契機に大きく変わったことは疑いない。それを戦勝国(アメリカやソ連など)の押し付けと評する人もいるが、戦争に対する反省や認識(対象的になろうと意識や活動)の結果であり、戦争を生きた人々の自覚的行為によるのだと考えている。もちろん、ここにはあの戦争を聖戦と見る人、その考えを変えなかった人もいるだろう。戦争観は一元的ではないと思う。少なくとも戦前・戦中のように一元的ではないことは疑いない。そうであれば靖国神社が戦前と同じような戦争観に立って追悼行事を行い、それを国家行事のように装うのはいいことではない。この批判はあの戦争で死んだ多くの人たち(戦没者)を追悼するのはどうしたらいいのかという問いを生む。これは僕らが戦死者たちにどのような語りかけができるか、ということでもある。戦争を遂行した指導者(政府や官僚)の犠牲者として弔う方法もある。僕はこれには疑念がある。戦争は指導者の力でのみ存在したのではなく、国民(大衆や民衆)の同意や協力なしにはなかったのだからである。戦死者を戦争指導者の犠牲者としてではなく、自ら戦争に同意し、推進する中で死んだ人たちとして僕は追悼したい。それは彼らを歴史の中の死者として追悼することだが、これは戦争の肯定ではなく、否定と矛盾なくある。彼らは戦争を生き抜いたから否定の場所に至った。
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〔opinion097:100818〕
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