相馬御風とシュティルナー自我論―学問の道を歩む(9)
- 2012年 8月 4日
- スタディルーム
- シュティルナー相馬御風石塚正英
2006年にさしかかった頃のわが日記に、農本主義に関する読書記録が記されるようになる。『農本思想の社会史』(岩崎正弥)などなど。その過程で私は、早稲田大学出身の文学者・詩人である相馬御風の思想と行動に鋭く注目することとなった。論文「東アジア協同体論の偏差」を書き上げたのが同年3月下旬であり、それから1ヶ月後の4月末、日記に「相馬御風について少々調べる」と書き込むに至った。以後、5月上旬のゴールデンウィークいっぱい、御風に夢中となるのだった。そして、6日、「相馬御風の農本的自我思想」を脱稿した。なにが私をそこまで突き動かしたか? それは、「相馬御風とシュティルナー自我論」と改題して雑誌『理想』677号(2006年9月刊)に寄稿した、その最初と最後とを読めばわかる。以下に引こう。
「はじめに
童謡『春よ来い』の作詞で知られる相馬御風は、本名を相馬昌治と称し、1883(明治16)年、新潟県糸魚川町(現糸魚川市)で代々宮大工を営む旧家に生まれた。2006(平成18)年五月現在の糸魚川市役所ホームページによると、御風の生涯はおおよそ以下のようである。幼少より詩作に親しんだ相馬昌治は、早くも頸城郡高田町(現・上越市)の高田中学(現・高田高等学校)時代から「御風」と号して、短歌を詠んでいた。1906(明治39)年、早稲田大学を卒業すると早稲田文学社に入って『早稲田文学』を編集し、主に自然主義的文芸評論を担当した。さらには早稲田詩社の結成にも参加して「口語自由詩」を提唱した。その間、1907(明治40)年には早稲田大学校歌「都の西北」を作詞した。その後大正時代に入って、トルストイに代表される人道主義的文学作品を数多く翻訳しつつ、かたわら、幸徳秋水ら無政府主義者の運動に共感し、とりわけ大杉栄と交友をもった。だが、1916(大正5)年に『還元録』を刊行し、直後、郷里糸魚川に隠退した。以後御風は、1950(昭和25)年に亡くなるまで、良寛や一茶などの研究と思索、執筆の日々を送った。
本稿では、そのような御風の生涯のうち、30代半ばに若くして帰郷した理由や背景について、「相馬御風とシュティルナー自我論」と題し哲学思想的に検討する。主な論点は、一、還元に至る経緯、二、郷土観、三、農民観、四、農本的自我思想、五、時局への対応、である。その中でとくにオリジナルな議論は、次の4点である。一、御風の思想と行動を分析するに際しては、19世紀ドイツのアナキズム思想家シュティルナーと大杉栄を抜きに論じることは不可能である点。二、御風が芭蕉の俳風を民衆的俳句としては一時代古いもの、ないし先駆的なものとし、良寛や一茶の俳風をシュティルナー自我論の思想圏で括りつつ真に民衆的とした点。三、良寛や一茶の自我思想を御風以後の郷土的現実を生きる人間の未来に托した点。四、第二次大戦中に日本の政界・学界・論壇で議論された『東亜協同体論』について御風は独自の自我論的協同を展望したと思われる点、以上である」。
「おわりに
いままで、本稿に類する相馬御風論は存在したであろうか。大杉栄との関係での類似をみると、金子善八郎『相馬御風ノート――「還元録」の位相』(1977年)、および大沢正道「御風と大杉栄――「近代思想」の誌面より」(1982年)だけではなかろうか。マックス・シュティルナーから説き起こしたものは見当たらない。しかも、シュティルナー自我論なくして御風自我論なし、という位相での扱いは皆無であろう。
理論社の創業者で卓越したジャーナリストである小宮山量平は、2006年5月13日、卒寿・金剛婚・自著『悠吾よ!――明日のふるさと人へ』出版のトリプル記念パーティ(日本出版クラブ会館)における記念あいさつで、良寛に言及したが、そのエッセンスを前もって『悠吾よ!』でこう記していた。『もともと相馬御風や『赤い鳥』文化によって発掘された良寛と言えば、類まれな童心の人でありましたが、戦後に唐木順三や吉野秀雄たちによって再認識された良寛像は、すでにポスト・モダーンへの陰影を深く帯びておりました』。
小宮山の良寛評価に賛意を表する私は、この「相馬御風とシュティルナー自我論」を、今後、21世紀をすすむ過程でようやく実現されるであろう「近代の超克」に関連させていきたく思う」。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study544:120804〕
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