「尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」は実在したか (第二回)
- 2012年 8月 5日
- スタディルーム
- 「関東軍司令部爆破計画」尾崎秀実渡部富哉
─小林英夫・福井紳一著『満鉄調査部事件の真相』に反論する─
2011年11月5日 尾崎・ゾルゲ墓参会での記念講演
(http://chikyuza.net/archives/25043 より続く)
4)憲兵の誘導と強制による「小泉手記」の6項目の問題点を反論する
小泉吉雄はゾルゲ諜報団員だったというのか
➀によると「小泉吉雄は尾崎の情報組織に参加し、情報活動をした」とあるが、拙文「尾崎秀実と中共諜報団事件(その1~その3)」において再三にわたって指摘しているように、国防保安法は入手した情報が国家の機密に触れるものであるかどうかが同法の適用の要件になっている。だから尾崎秀実や中西功・西里竜夫などの場合でも、どんな情報を、どこから入手し、誰に洩らしたかが問われており、しかもそれが国家機密であったかどうか、その詳細は箇条書に記録されている。
それは本日この会場で頒布している中西功の「資料 中国共産党対日諜報団並びに之に関連する外患に関する罪及び治安維持法違反事件の取り調べ状況」をみれば一目瞭然である。そこには「諜報要旨」「提報先」が具体的に明記されている。
にもかかわらず、「小泉吉雄手記」には犯罪の成立要件である提報した具体的な情報が何であるか、それが国家機密に属するものであるかは何もない。小泉が尾崎の諜報組織に参加したというなら、取調官の高橋憲兵曹長が「尾崎を吉林憲兵隊に連行している」というから、当然、尾崎からその裏付供述をとるはずではないか。だがその裏付けは全くないのだ。これは憲兵隊の作った筋書きによる誘導による供述以外の何ものでもないということを示している。警保局が所有するゾルゲ事件関係資料のなかにはどこにも小泉吉雄の名は見当たらない。
勿論、尾崎秀実が吉林の憲兵隊に連行された記録など全くない。この点については後述の(6)「岸谷隆一郎と吉岡述直検事の証言」の中で詳述したい。
存在しなかったコミンテルン極東支部
➁昭和16(1941)年9月、尾崎が満州に来たときとは、9月4日に尾崎秀実が大連で行われた「新情勢の日本に及ぼす影響会議」(9月19日まで)に参加したときのことであり、「新情勢」とは、ドイツ軍のソビエト侵攻がモスクワ近郊に迫ったことを指している。この2日後の9月6日、天皇臨席の御前会議で南進が決定され、10月下旬を目途に対米、英、蘭戦争準備の完成を決定したという国際情勢は風雲急を告げるときだった。
尾崎から「コミンテルン極東支部スラウツキーを紹介され、さらに枝吉勇、渡辺雄二等と共に右極東部主任等に再会し、さらに渡辺、湊清、狭間らと共に哈爾浜に赴いて極東部主任ウィリツキー(と記憶す)また通訳アンプリと会談し、われわれの満鉄社内同志組織とコミンテルンとの関係を付けた」と「小泉手記」はいう。
多分この当時、憲兵隊はコミンテルンの地域組織である極東局が存在し、日本共産主義者への働きかけは極東局が担当しているという判断があったのだろう。しかし、事実はコミンテルン極東局はヌーラン事件(1931年6月15日)によって破壊された後、一時は再建したものの、上海事変(1932年2月)や日本の中国侵略が急テンポに進み、日本に対するコミンテルンの指導や資金ルートは極東局経由ではなく、コミンテルンは日本の指導と連絡を「英語圏」に組織替えしていたのである。(在日ロシア大使館文化担当・一等書記官アンドレー・フェシューン氏、から提供されかたコミンテルン資料による)。
それを指導したのは日本がソビエトと国交樹立したときに商務官の肩書で、日本の在日ソ連大使館員として乗り込んできたカール・ヤンソンである(拙文「尾崎秀実は日本共産党員であった」参照)。
彼こそコミンテルンの対日工作の最高責任者だった。ゾルゲ事件で宮城与徳を米西海岸の日系二世の組織から切り離して、日本に派遣したのも実はカール・ヤンソンだったのである。野坂参三の米西海岸からの対日工作で知られている野坂の活動も、米西海岸に活動拠点をセットしたのも、実は彼だった。その経緯は野坂参三の自伝『風雪のあゆみ』(第7巻)に詳しい。
これに関連して、2011年10月22日、沖縄大学で開催された国際シンポジウム「宮城与徳とゾルゲ事件」で、加藤哲郎(一橋名誉教授)は次のように報告した。
「1931年6月『ヌーラン事件』以後、ソ連のアジア工作は、モスクワのクーシネン、マヌイルスキー、ピヤトニツキー、デミトロフらを介して、おおむねアメリカ共産党書記長アール・ブラウダー、同秘密連絡担当ルディー・ベーカー、コミンテルン代表ゲアハルト・アイスラーらの手で進められた。その前線基地は、サンフランシスコのPPTUS=ハリソン・ジョージで、東京ゾルゲ機関の結成、在米野坂機関、在中国アグネス・スメドレーらの活動は米国共産党書記局から別々の工作として進められ、それぞれの横断的なつながりはなかった」(「宮城与徳訪日の周辺─米国共産党日本人部の2つの顔」)と報告している(「ゾルゲ事件と宮城与徳を巡る人びと」第6回ゾルゲ事件国際シンポジウム・レジュメ集「宮城与徳訪日の周辺─米国共産党日本人部の2つの顔」)
したがってこの時期に「コミンテルン極東支部員スラウイツキーを紹介された」とか、通訳アンプリと会談して、満鉄社内の同志の組織とコミンテルンの関係をつけた」などということは憶測以外にあり得ないのだ。
小林英夫氏はこの点について「富田武氏(筆者注、成蹊大学法学部教授、著書に「スターリニズムの統治構造」岩波書店、他がある)によれば、「1941年時点において、コミンテルン極東支局なるものは存在せず、またここにあげられている『スラウイツキー』、『ウイリツキー』なる人物も『ロシア対外諜報略史』(ロシア語)によれば実在しない、との御教示を得た」と脚注(16)をつけている(『軌跡』289頁)。
この点について「小泉手記」の供述は富田氏によって否定されたわけだから、小林英夫氏が小泉「手記」を肯定するなら、普通なら「脚注」に反論、または再検討した結論を述べるべきだろう。そうでなければ論理は通らないではないか。しかし、小林氏は再検討した形跡は全く見当たらない。
「極東部主任ウイリツキー」とはゾルゲと連絡をとりあっていたロシア参謀本部諜報総局(GRU)局長ベルジンの後任の諜報局長と同じ名であり、憲兵隊がゾルゲの調書か手記を読んで誘導したのではないかと推測される。
ゾルゲは9月15日以降、完全に日本の脅威から解放されると通報した
➂「その後、尾崎の指令によって、われわれ社内同志にて、関特演後の日ソ戦の危機に鑑み、日ソ戦争勃発防遏のため、輸送妨害、通信施設の破壊、治安攪乱による反戦活動を為すことを渡辺雄二より打ち明けられたときは、自分は此の計画に反対だが、同志としての情誼に基いてこの計画に参加することを約束し、自らは関東軍司令部に爆弾を仕掛け、政府関係者らとの連絡役を果たすことを約束した」という。
「尾崎秀実の指令による関東軍司令部の爆破計画」がここに登場するが、「小泉手記」に書かれているこの数行は憲兵の誘導による全くのでっちあげであるということが、今回の講演の主題だから綿密に反論しよう。この「手記」には2つの問題点がある。
その1つは、小泉吉雄による「関東軍司令部爆破計画」は昭和16年9月に尾崎が満州に来たとき以後のことだという時期の問題であり(233頁)、その2は、この計画の暴露を恐れて延期されるのは昭和16年10月、尾崎が逮捕の後だという点である(234頁)。
この反論のために筆者はこれまで詳細に記録してきた「ゾルゲ事件関係年譜」に基づいて資料を作った。「ゾルゲの極秘電報と年表から見た『尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画』の反論資料」である。
ドイツのソ連侵攻作戦をめぐるゾルゲの極秘電報の詳細を記録した年表からピックアップしたものであるが、ゾルゲの情報活動にとって最大の難問のひとつと思われるのは、70万の軍隊を総動員した関特演の行方の判断だっただろう。ドイツ軍の電撃作戦によるモスクワ攻略と併せて、関東軍はそのまま北進するのか。それとも陸軍が保有している石油は半年分しかないにもかかわらず、日米交渉で石油の輸出はストップされてしまった。交渉打開のメドは全くなかった。底をつきかけている石油を求めて南進するのか。その判断を下すのは全く想像を絶する難作業だったにちがいない。国家の方針が「南進、北進」何れとも定まらなかったからだ。その間のゾルゲの判断の迷走と苦悩は筆者の作成した資料をごらん願いたい。
ゲオルギエフ、ユーリー・ウラジミロビチ(ロシア語月刊誌『今日の日本』オブザーバー、第1回ゾルゲ事件国際シンポジウムのパネリスト)は次のように書いている。
41年9月6日、御前会議で南進決定。帝国国策遂行要領を決定(10月下旬を目途に対英米蘭戦争準備の完成)。この日、ゾルゲは日本の対ソ脅威に関する監視の総仕上げのような4通の暗号電報を送ったが、そのうちで最も重要な電報のメモが残っている。『インベスト(ゾルゲ)によれば、日本政府は本年中には対ソ行動にはでないことを決定。ただし来年、この時期までにソ連が敗北したときには秋に行動に出られるように、部隊は満州国に存置する』
『インベストは9月15日以降、完全に(日本の脅威から)解放されると言明』、この電報にパンフィーロフ(諜報総局長)は、『本情報は念入りに検証の要あり』と判断し、同時に検証のための具体的な指示がなされた。
また、同日付のもう1通のゾルゲの暗号電報、『オット大使の意見では、日本の対ソ行動は現在すでに問題外。日本はソ連極東軍の大量移動の場合にのみ、行動を起こし得る。日本に莫大なる経済的出費を強いた大動員の責任をめぐって激論が始まっている』。この電報に下された採択は『全員に周知させること。特報を起草せよ』だった。
M.クラウゼンのところで押収された電報は、『おそらく1941年8月20から23日まで最高司令部と関東軍代表者との会談で、本年中は対ソ戦を開始しないことを決定した。もし8月15日までに独ソ戦線で予想外の事態が起こらない限り、対ソ戦争開始の問題は来季にもちこされる』(『現代史資料・ゾルゲ事件』第4巻)。
ゾルゲは9月14日以降、ソ連領極東に対する日本の侵略の可能性はなくなったと確信するようになった。日本の対ソ軍事脅威の監視活動の最後を飾るものとして、1941年10月3日付暗号電報を挙げておこう。これはゾルゲの逮捕2週間前に打電された。これはすべて日米関係と日本の南進計画にあてられている。
そしてあらゆる点からみて、ソ連指導部は情報の正しさを納得したようである。赤軍の精鋭部隊が極東からモスクワ防衛戦に投入され、ドイツ軍絶滅に決定的な役割を演じた」(ゾルゲ事件外国語文献翻訳集、№1、ユーリー・ゲオルギエフ著、平井友義訳『リヒアルト・ゾルゲの伝記的スケッチ』)
9月15日付極秘電報で「日本の脅威から解放された」というゾルゲの判断は、直接満州に出張して情報を探った尾崎の判断でもあった。
関特演に関する情報を最初にゾルゲに伝えたのは安田徳太郎のところに出入りしていた宮城与徳であった。「8月6日に宮城さんは嬉しそうに、私のところに駆け込んできて、『とうとう日ソ開戦はくいとめられました。尾崎さんが、先生にくれぐれもよろしく伝えてくれとのことでした。ほんとうなら、みんなよって祝賀会をやるべきですが、それもできません。しかし、いずれ天下晴れて、会えるときが来るだろうと言っておられました。私たちの使命は終わりました。おそらくは今度は日米戦争になりましょう』と言った」(安田徳太郎著『思い出す人びと』258頁)。
対ソ戦の脅威は完全に去った。にも関わらず、「昭和16年9月尾崎が来満した後、尾崎の指令によって日ソ戦防遏のため輸送妨害、通信施設の破壊、治安攪乱、関東軍司令部の爆破」などが計画される筈はないし、また小泉吉雄はそんなことを計画したり、実行できる人物でもない。
中西功の証言によれば、「私たちにとっては、11月下旬には、対米英戦争の情況は非常に明白でした。満鉄の情報のアンテナには、すでに進発している南方進撃部隊の編成表がくっきりかかっていたし、日米会談の情況についてもすべて判明していました。すでに日米戦争は時間の問題であって、その日時の予測が私たちの最大の関心事でした」(『中国革命の嵐の中で』256ページ)という。それは必ずしも諜報員としての特殊な情報というわけではなく、いわゆる満鉄左翼といわれる人たちに共通するものだったことは石堂清倫氏の証言でもわかる。
そうした状勢下でもなお尾崎が逮捕される(1941年10月)まで「尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」は何の変更もなしに継続し、尾崎の逮捕によって延期になった、などということがありうるだろうか。しかも「中止」ではなく「延期」したというのだ。計画の巨大さに比べて連絡は極めてお粗末ではないか。つまりそんなことはあり得ないということだ。
さらにもう1つの問題がある。尾崎逮捕の情報を満鉄関係者(小泉たち)は何時、正確な情報を得たのか。ゾルゲ事件および尾崎秀実の検挙は、翌年5月に記事解禁になるまで報道禁止だった。たしかに尾崎秀実の満鉄嘱託の解任は1941年11月1日付で行われている。しかし、事件関係は全く知らされなかった。極秘だったのである。
最初に尾崎逮捕の情報を掴んだのは尾崎秀実と連絡をとりあっていた中西功だった。会場で頒布している『付録資料・中国共産党対日諜報団並びに之に関連する外患に関する罪および治安維持法違反事件の取り調べ状況』(「社会運動の状況 昭和18年、42頁)によると、「昭和16年11月、尾崎秀実の検挙について、菅沼不二夫より入手」とある。菅沼不二夫は連合通信社員でこのほかにも中西功に情報を提供している。彼についてはこれまで全く情報がなかったが、前田光繁氏(延安の日本反戦同盟の幹部)によると、戦後、日中旅行社を立ち上げ、作家檀一雄の妹と結婚したという。つまり女優檀ふみの叔父に当たる人物だ。
中西功著『中国革命の嵐の中で』(青木書店)によると、「1942年1月ごろ、わたしの手元に電報が届きました。それは『白川』という名(尾崎秀実のペンネーム)の暗号電報で、『すぐに逃げよ』という意味でした」(263ページ)とある。すでに尾崎は逮捕されているのだからこの電報を尾崎が打てるわけはない。この謎の発信者は恐らく筆者の推測だが、
菅沼不二夫の名を出せないので『白川』にしたのではないか。この情報が西里竜夫に伝えられたのは翌42年1月のことだという。その間に中西功は上京して日米交渉の決裂、開戦の情報を掴んで中共特科(情報部)に伝えた。尾崎逮捕の情報が満鉄左翼に伝えられるのはその後、ということになる。
そうだとすると、「小泉手記」にいう「昭和16年10月中旬、尾崎が検挙されたことを知ったので自分は計画の暴露を恐れ、またこの計画には反対だったので、渡辺雄二を通じて枝吉勇に対し尾崎の検挙対策の会合を提唱し、金州南山にて会合がもたれたとき、この計画が暴挙であることを強調して、これを中止しようとし、結局、会合では延期することとなった」などということはあり得ない。尾崎逮捕の情報はどんなに早くても翌年1月以後のことだ。つまり、爆破計画そのものが存在しなかったのだから対策会議などあるはずはない。
さらにこれが仮に事実だとすると渡辺雄二も枝吉勇も共犯者にならないか。小泉にそんな重要な手記を書かせたのなら、憲兵隊は当然その裏付け証言を会談に参加した渡辺雄二、枝吉勇たちからとるはずではないか。それは捜査の常道だろう。小泉の「回想」によると、「大連で尾崎と調査部の仲間と一緒にロシア人経営のホテルで会合を持ったような気がする。高橋曹長がいろいろナゾをかけるので、それで思い出が浮かぶ。大連のホテルで会合したことについて、一緒に逮捕されている石田七郎に会わせろと要求して高橋曹長の立ち会いで対決した。石田も不意のことであり、私が自信を持って強く言うので、そんなことがあったような肯定的返事をしたが、翌日、先方から面会を求めてきて、全面否定した」(60頁)とある。
あまり重要でもない尾崎と大連のホテルの会合についてさえ憲兵立ち会いで対決が出来たのなら、憲兵隊の幹部に責任が波及するかも知れないとされる「関東軍司令部爆破計画」について、渡辺雄二、枝吉勇たちと高橋曹長立ち会いで対決されるはずではないか。監房が離れている場合でも双方の証言はとれるはずだろう。またこの文面によれば渡辺雄二のほうが上司でもあり、主犯のように受け取れるが、渡辺雄二の「手記」にそれ関する記述がないのはどういうわけだ。
小泉のほかに誰か共犯者の供述があるのか、誰もいないではないか。
結局、満鉄事件は1945年5月 新京法院で判決が言い渡され、松岡瑞雄、渡辺雄二が5年の刑(執行猶予5年)、他2名に3年(執行猶予4年)残りの全員が1年の刑、(執行猶予3年)という判決が下った。判決を言い渡されたもの全員が執行猶予付きで処理され、全員が釈放された。
結局この事件は判決によると、満州国治安維持法の適用要件としての組織がなかったとされ、犯罪行為はなかったとされたのである。にもかかわらず、「石堂清倫、石田七郎、渡辺雄二の3名は釈放と同時に軍に召集された。渡辺雄二は3箇月後に侵攻してきたソ連軍と興安嶺山脈で交戦中に戦死した。(草柳大蔵『実録・満鉄調査部』下337頁)という。もう一人の「石田七郎もソ連領内に拉致されてのち死亡したと伝えられる」(田中武夫『橘僕と佐藤大四郎』352頁)。
その渡辺雄二と石田七郎と石堂清倫の3人だけが、なぜ「懲罰召集」にかけられたのだろうか。「小泉手記」にある「尾崎秀実の関東軍爆破計画」に同調する証言を渡辺が拒否したからではないだろうか。渡辺にしてみれば「小泉手記」の裏付け証言(関東軍司令部爆破計画)をすれば死刑はまぬがれなかったろう。石田七郎が小泉証言に反論したことは前述の小泉の「回想」にある。憲兵隊の意向(筋書き)に逆らって「小泉手記」の「尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」を否定しきったのであろう。関東憲兵隊の目論んだ筋書きは完全に崩壊したのである。憲兵隊の腹いせの報復がこのような悲劇を生んだのであろう。
小林氏は「回想」が「小泉手記」の内容に及んでいないと書いているが、これらの事情を考えると、あまりにも痛ましい悲劇をもたらしたその遠因が「小泉手記」にあることを思うと、釈明することもできなかったのではないだろうか。
石堂清倫は当時、匍匐前進もままならぬ41歳の老兵だった。彼の奇跡の生還劇については『わが異端の昭和史』に詳しい。石堂が老兵だったと言うならば、渡辺雄二も同じ事だろう。彼が逮捕時の年齢は「当36年」とあるから、石堂より4歳年下ということになるから、応召当時の年齢は37歳だったことになる。老兵にはかわりがない。
「もし、この供述が公判で述べられたとしたら、関東軍の中枢の軍人たちの責任問題に発展する事態は不可避だからである」と小林氏はいうが、果たしてそうか。被疑者の「手記」は必ず公判に提出されるはずである。「手記」はそのためにとったものだからだ。その場合「関東軍の中枢の軍人たちの責任問題に発展す-る事態は不可避」であろうか。そんなことはあり得ない。
満州抗日組織は常にそのような計画を建て、各所で行動を起した。その場合計画することは抗日連軍の自由であり、当然の権利でもある。その計画があったことを以て関東軍の中枢が責任をとらされることなどあり得ない。沢地久枝編集による「満州日報紙の抗日運動記事集」(1~2 アジア経済研究所)には数えきれないほどの事例が挙げられている。
ゾルゲ事件の場合を考えてみよう。ゾルゲは来日して8年間も諜報活動を行ってきた。尾崎秀実は上海時代からゾルゲに協力してきた。事件が摘発されたとき、防諜関係者(憲兵や検察)に責任をとらされた者が1人でもいただろうか。事実はく正反対に、警視庁始まって以来の最高の事件を摘発したことを以て、「内務大臣功労賞」、「検事総長表彰」、「警視総監賞」など、数えきれないほどの表彰に関係者は輝いたではないか。
「関東軍爆破計画」を事前に暴いて逮捕に導いたなら関東軍の中枢の軍人たちの責任問題に発展するどころか、表彰ものではないのか。
「防諜、ことに消極防諜といったものは、本来、予防制圧にあるのであるから、平素における適切な指導、施策が、その本命であって、こと消極防諜に関する限り、いわゆる予防制圧、無事故であっても、そこに払われた努力は、高く評価されるべきであろう」(大谷敬二郎著『日本憲兵史』379頁)。これが東京憲兵隊長を経て敗戦当時、中国憲兵隊司令部付の経歴をもつ人物の証言だ。したがって小林氏らのいう「大きな衝撃」などあるはずはない。
「この供述は『捏造』とは考えにくい」という根拠はなにか。何もないではないか。
もし仮に計画があったとしても、「インベスト(ゾルゲ)は9月15日以降、完全に(日本の脅威から)解放されると言明」しているにもかかわらず、関東軍司令部の爆破計画は中止も延期もなく、準備をすすめていたと言うのか。そんなことはありえないというもう一つの理由である。
GRUはゾルゲに政治工作は任務外だと厳禁した
ゾルゲ研究にとって非常に興味ある報告が第2回モスクワシンポジウム(2000年9月)では次々に報告された。コーシキン、アナトリー・アルカディエビチ(東方総合大学教授)の報告もそのひとつだった。「日本の対ソ攻撃計画の挫折にソ連軍事諜報員の果たした役割」と題して、彼は次のように報告した。
ゾルゲは1941年4月18日付の手書きの報告書の中で、参謀本部諜報総局に、「モスクワが日本の対シンガボール攻撃について関心をもっているか、それがソ連の国益にどうからむのか」と問題提起したのです。諜報総局は6日後の4月24日、かなり厳しい回答をゾルゲに通告しました。
『日本の内閣総理大臣近衛文麿とかトップクラスの人びとを政治的に動かすとか、影響を与えるというような行動は、貴殿の責任外のことだから慎んで貰いたい』というものでした」(白井久也編『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』228ページ社会評論社)。
ゾルゲが提案した「政治工作とか謀略」などは次元の異なる問題だ、として撥ねつけられたのである。これも「関東軍司令部の爆破」など計画そのものがあり得ないという根拠のひとつになるだろう。
憲兵の無知をさらけだすナンセンスな社会主義革命論の誘導
➃「自分はマルクス主義の見地から、この戦争に勝利を得ることで、日本の社会主義革命の実現が促進されるものと見通し、この戦争の勝利のために協力し、協力過程を通じて自分たちの勢力の拡張と、戦後の状勢に対処すべきだと考えて、吉植、吉原、湊らの同志が戦争に対する見解について、同人らに対しこの戦争に敗北すれば、社会主義の実現は不可能となると述べ反省を促した」と「小泉手記」はいう。
これは正しく憲兵隊の誘導による供述であり、真実は何もないと断言できる。「小泉の手記」は「マルクス主義者として」正論であるかのように書かれているが、これは憲兵の訊問におもねった供述であり、全くナンセンスなでたらめ極まる供述なのである。
帝国主義間の侵略戦争の勝利は支配者の権力が強化され、対する革命勢力にとっては困難な状況に追い込まれる。したがって戦前の革命を志す勢力は帝国主義戦争には反戦の立場をとり、開戦後は自国の敗北のために活動するのがテーゼであった。
ロシア革命をみればすぐにわかるだろう。日露戦争は日本にとっては軍事大国にのしあげ、その後、満州事変を引き起し、中国と15年戦争に引き込まれ、挙げ句の果てに太平洋戦争で300万を越える戦死者を出し、人民大衆は戦災で焼け出され、その生活は悲惨なものとなり、戦後革命で民主的な諸政策を勝ち取り、平和な生活を取り戻した。
一方ロシアでは日露戦争の敗北が革命の糸口になり、1905年の革命から1917年のソビエト革命につながった。その場合のスローガンは「平和とパン」だった。
「この戦争に敗北する場合、社会主義の実現は不可能」とは全く逆ではないか。マルクス主義者としての回答としてはあり得ない。
野坂参三は延安で日本人捕虜に教育をほどこして反戦同盟を組織し、日本兵士に銃を捨てろと呼びかけた。その実践例が何よりの実例であろう。
これは共産主義理論と事情に疎とかった憲兵の訊問に迎合したもので、この「小泉手記」には何らの真実はない何よりの証拠といえるだろう。小泉と同じく満鉄事件で検挙された石堂清倫は次のように書いている。
「板倉軍曹は誰かの作文にもとづいて訊問するのであるが、書いてあることを理解しているとは見受けられなかった。たとえば2段革命論を自明のこととしてあげていたが、2段階革命についてはそれ以上に詳しいことは知らされていなかった。3千万人の中国人抜きに、わずかな日本人で革命などできるわけがない。調査部員のうち中国人の友人をもつ者がいくらもいないという現状で、どうして中国人とともに2段の革命がやれるのか」(『わが異端の昭和史』上巻303頁)。
高橋曹長と板倉軍曹との間にどれほど革命理論の理解に差異があるかは分からないが、いずれも下士官であるからそれほどの相違はないだろう。小泉が尾崎の諜報組織の一員として参加したのは昭和14(1939)年10月のことだという。前述したように尾崎の情報は何を、誰から、何処へと具体的に判明している。それは電波局に保存されていた東京の上空を飛ぶ「謎の暗号無線の電文」が保存されており、事件後、通信士クラウゼンによって簡単に解読されたからだ。ゾルゲがGRUに送った電文を突きつけられて、ゾルゲも尾崎秀実もその出所を供述せざるを得なかった。その情報群には小泉が関与する余地など何もなかった。
さらに尾崎と小泉の連絡ルートがあったのか、その具体的な疑問に小林英夫氏は何ら答えていないのは何故だ。
「尾崎秀実が満鉄調査部における業務活動を通じて得た情報の量と質が問題になるが、犯罪事実として挙げられている日本に関する諜報件数52件のうち、満鉄からの情報が関わっているものが21件(ゾルゲに提供した調査報告書類を除く)で、約40%を占めている」(宮西義雄編著『満鉄調査部と尾崎秀実』亜紀書房)。この満鉄調査部出所の諜報はすべて判明しているが、そこに小泉吉雄らの入り込む余地などは全くない。
「小泉吉雄は尾崎と満鉄調査部と企画院のいずれの組織、人物とも関連した結節点にいたスタッフである」(『軌跡』307頁)という記述は憶測以外のなにものでもない。たまたま小泉が企画院に派遣されていたというに過ぎない。「結節点」にいたというのはどういう意味と内容を伴うものか。その内容こそ明かにすべきだろう。それがゾルゲ事件と如何なる関係があるというのか。小泉はゾルゲ事件とは如何なる意味においても全く関係はない。小泉は尾崎にとってそんな立場にはいなかった。小泉吉雄の「回想」(後出『愚かな者の歩み』)を見れば明かではないか。そこには尾崎秀実に対する追想など何ひとつ書かれていない。
「尾崎の行動も、勝ち目のない戦争を阻止するという意味では合理性の発露だったというべきであろう。しかしこれらの行動はいずれも『国体変革の行動』として取り締まりの対照となったのである」(「軌跡」307頁)という小林氏の尾崎論は全く論点がずれている。勝ち目があるか、ないか、などの問題ではない。共産主義者尾崎にとって帝国主義戦争そのものに反対することは当然の義務なのだ。この点については後述の「石堂清倫の回想」を参照されたい。
「企画院事件とゾルゲ事件と満鉄調査事件は3大弾圧事件」の評価をめぐって
さらに小林氏は、「1941年から42年に連続して起きた企画院事件、尾崎・ゾルゲ事件、満鉄調査部事件は、摘発された人たちが互いに交流があったというだけではなく、総力戦体制の前提というべき『合理的思考』の排斥という意味でも一連の動きであった。これらを戦中の『3大弾圧事件』というのもこうした共通性に着目してのことである」(『真相』256ページ)という。小林英夫氏以外に「それらを戦中の3大弾圧事件」などと評価する研究者が一体どこにいるのか。これまでゾルゲ事件を永年研究してきたが、こんな評価は寡聞にして聞いたことがない。
これは小林英夫氏の我田引水の独善的な判断であり、歴史を無視したものであり、全く客観性がない。ゾルゲ事件は警視庁始まって以来最大の事件のひとつであり、国際諜報団事件であるが、事実存在した事件であり、冤罪事件ではない。それは「合理的な思考の排斥」などの範疇の事件ではない。
さらに不思議なことは「合理的な思考の排斥」「戦中の3大弾圧事件」というなら、戦時下最大の言論弾圧事件といわれる「横浜事件」(1942年)を挙げないわけにはいかないのではないか。「中央公論」や「改造」、「朝日新聞」などの言論、出版関係者の約90名が「共産主義を宣伝した」として神奈川県特高警察に逮捕され、約30名が有罪判決を受け、4人が獄死したという大事件であり、これは全くの冤罪事件だった。
4次にわたる再審請求(1978年)から34年間をかけて、免訴・実質無罪をかちとるのは昨年2010年2月のことで、まだ記憶に新しい問題である。小林氏はこの事件の再審問題に全く関心をもたず、記憶になかったというのであろうか。
書き方まで強制され何回も書き直された「手記」
➄この問題は既に➁で採り上げたものと同じである。小泉が2度同じことを「手記」に記録したのはなぜだろうか。そのことにも当然疑問が生じる。小泉の回想録『愚かな者の歩み』によると、
「高橋曹長は、何がなんでも、私たちが満州国の近代化を図ることによって、共産革命への条件を整備せんと企図しているという結論に誘導しようとする。憲兵隊の方針は一定しているようで、近代化による資本主義化をはかることは共産主義への条件を備えることであると、無理にすべてをこの公式にあてはめなければ承知しない。何度も書き直しを命じられる。
終わりころには大分急いでいるようで、書き方まで具体的に指示してくる。仕方ないからいわれる通り書き上げた。約2カ月でこの作業を終わった。検挙以来、約1カ年で満州国の未決に移された」(62頁)とある。
小泉が自分で同じ内容のことを重複して間を置かずに書くはずはない。「回想」の記述が正しいことを証明していると思われる。
小泉の関東軍司令部に爆弾を仕掛ける約束はあったのか?
➅「若干日後、尾崎が逮捕されたので、自分はこの計画を中止しようとして、尾崎検挙対策会議が金州南山で開かれた。そこで計画は暴挙であることを指摘し、中止を主張し、延期と決まった」という。「小泉手記」のこの箇所で一番重要なことは、「日ソ戦勃発防遏のため鉄道関係の同志が輸送妨害を敢行し、通信施設の破壊、治安攪乱」などの行動に出る時期が昭和16(1941)年10月のことだと言う。これについては既に「ゾルゲの極秘電報と年表から見た『尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画』の反論資料」によって反論した通りである。
『真相』で「小泉の手記は憲兵隊の上層部に衝撃を与えた」と小林英夫氏は書き、『満鉄調査部の軌跡』では「自らは関東軍司令部に爆弾を仕掛け、また政府関係者との連絡役の任務を果たすことを約束したと供述しているのである。これが事実なら、事は重大である。尾崎~渡辺~小泉とつながる線で『ケルン』は見事にコミンテルンの活動の一環につながることになる。したがって憲兵隊は必死になってその証拠固めに熱を入れた」(『軌跡』288頁)と書いている。
これは問題のたて方が逆様ではないのか。憲兵隊の描く筋書きに沿ってありもしない「中核体」を自供させ、諜報組織を作りあげたのだ。「憲兵隊は必死になって証拠固めに熱をいれた」などということはありえない。これがでっちあげであることを何よりも一番よく承知しているのは他ならぬ憲兵隊であり、満州国最高検察庁に日本内地から事件の処理のために動員された検察官たちでさえ、全く信用していなかったからだ。これは後述する石堂清倫証言にもある通り憲兵隊によるでっちあげによるものである。
小林英夫氏の著作では「関東軍司令部の爆破計画はあり得る」「この供述は『捏造』とは考えにくい、憲兵隊にとっても大きな衝撃となったことは間違いない」のか、「真相は闇の中」であり、「供述が真実か否かは、今もって定かではない」(「真相」210頁)というその判断の根拠はどこにあるのかは示されていない。「学問的論争の深まりを期す」のであればその判断の根拠を示すべきであろう。何も根拠がないではないか。
さらに小林英夫氏は以下のように書いている。
「小泉吉雄は尾崎と満鉄調査部と企画院のいずれの組織、人物とも関連した結節点にいたスタッフである。ところが小泉が語るように憲兵隊はその物証を挙げられないままにこの筋書きを貫くことができず、中途で断念したのではないかと思われる。つまり憲兵隊は尾崎・ゾルゲ事件、満鉄調査部事件、企画院事件を1つながりの事件と見ていたと想定される。ところが物証が挙げられないため、それぞれを別個の事件として扱うよう中途で方針転換をしたというのが、新資料と『在満日系共産主義運動』の筋書きと主役の違いを生み出した理由」だという(『軌跡』307頁)
筆者もそれらの事件は「一つのつながりの事件」つまりゾルゲ事件の捜査に関連するものだと思っており、拙文「尾崎秀実は日本共産党員だった」に具体的に書いた。つまり企画院事件は京浜労働者グループの芝寛(東亜同文書院卒で企画院の嘱託)の研究会の講師に尾崎が頼まれて、尾崎に代わって尾崎の同志であり、親友の松本慎一と哲学者古在由重を紹介したことが端緒になっていると明確に書いた。
これに対して小林氏はどういうつながりがあると言うのか、それが具体的に示さなければ「一つのつながり」をもつ事件だとはわからないではないか。その肝心なことは何も示されていない。それは単なる憶測を書き、並べているだけではないか。「論戦」であるなら示すべきは憶測や推測ではなく、事実そのものではないのか。
「小泉吉雄は尾崎と満鉄調査部と企画院のいずれの組織、人物とも関連した結節点にいたスタッフである」とは随分思わせぶりな表現だが、「結節点にいた」とはどんな意味なのか。小泉が3大事件の要の位置にいて、何か重要な役割を果たしたといわんばかりの記述であるが、そうならばなぜ小泉が結節点にいて、何をしたのか(しようと目論んだのか)を具体的に書かないのか。小林英夫氏はここでも単なる憶測を書いているだけで、何一つ事実を挙げていないではないか。
「尾崎と満鉄調査部と企画院のいずれの組織、人物とも関連した」人物ならば、和田耕作も小沢正元や上海時代の尾崎秀実の後継者だった堀江邑一なども同じだ。彼らは昭和研究会でも、支那問題研究会も尾崎と一緒だったし、より親密な関係だった。だからといってそれがどうしたというのだ。たまたま小泉たちはそこにいただけではないのか。そんな立場の人ならばまだ他にもいるが、その根拠を示さなければ「学問的論争の深まりを期す」ことにならないのではないか。争うべきは事実関係だけである。重ねて言う、著者の憶測を聞いても歴史学や社会科学にとって何の意味を持たないのだ。
5)小泉吉雄の私家本「愚かな者の歩み」の真実
この小泉吉雄著『愚かな者の歩み』は本人の回想録ではあるが、市販されたものではなく私家版である。
これは小泉吉雄が関東憲兵隊の弾圧による誘導と強制によって虚構の「手記」を書かされたが、戦後、満鉄調査部事件が研究対象になり、「小泉手記」がどんな形で出現するかわからず、家族のために真実を語り遺す必要を感じて、私家版として書き残したもので、「小泉手記」に対する「釈明」の書でもある。したがって厖大な「手記」そのものの内容には立ち入った記述はないし、それに関連して多くの犠牲者がでているから触れたくなかったのであろう。
その真相は現在も健在な遺族から、小泉が戦前に体験した憲兵隊の取り調べの実態をどんなふうに遺族たちに語っていたか、直接聞くことが一番手っとり早い方法ではないのか。もし小林氏が小泉の「回想」を読んだのなら、遺族の名前と年齢、所在と簡単な経歴が書かれているから、到達するのは簡単なはずである。なぜ小林英夫氏は直接遺族から生前の小泉の証言を聞き取らずに、憶測だけで書きまくったのか。それは歴史学者のやることではない。それは故人を冒涜する結果になるかも知れないのだ。慎重に書くべきだろう。
筆者が所持している『愚かな者の歩み』は直接本人、つまり生前の小泉吉雄に直接インタビユーした人から譲り受けたものであり、小泉の証言も聞いている。
実は小泉吉雄は伊藤律が満鉄東京支社に入社するとき、面接試験をした当事者だったのである。この回想録にはその経緯が書いてある。筆者は伊藤律のゾルゲ事件端緒説に反論(拙著『偽りの烙印』)五月書房)するときに、尾崎秀樹らが「思想犯前歴者の伊藤律が満鉄にすんなり入社できた」ことに対する疑惑を書いているので、その入社の経緯を調べたとき、この著書を提供されたという経緯である。
これまで『満鉄調査部事件の真相』の「小泉吉雄手記」をめぐって解説してきたから、直接本人の著書『愚かな者の歩み』から『真相』や『軌跡』で触れられなかった問題点を検討してみよう。小泉吉雄の私家本「愚かな者の歩み」(以下「回想」と略記)は、普通の図書館には所蔵されていないから研究者のために該当部分を80%縮小して資料に掲載したので問題の証言は要約にとどめる。関連する部分は「第4章 憲兵隊に2カ年抑留される」(55頁以下)である。
取調官は高橋憲兵曹長である。「君は今回の事件では大物で、10数年は社会に出られぬだろうが、人間的には義に強く惜しい人だなどという。高橋曹長はまず、小泉がコミンテルンの一員だと決めつけている」「彼は声を大にし、また机を叩いて自白せよと迫る。私には、そんな事実はないから否認すると彼は、証人として東京から尾崎を連れてきているという。
毎晩こんなことが続くうちに、高橋曹長は嘘をつく人ではない、寧ろ、私は東京では毎晩遅くまで酒を飲んで遊んでいたので、忘れてしまったのではないかと考えはじめた。それから1週間も経ったころ、取調後、房に帰って室内をぐるぐる歩き回っていると、右股のあたりが温かくなって、尾崎が側にいるような気持ちになってきた。そして、尾崎から入党の証として、ソ連金貨(裏面に『万国の労働者団結せよ』)と書いてある)を貰ったこと、これをある日、東京板橋の借家の庭に埋めたことが思い浮かんできた。埋めるときには焼いて埋めたことを思い出した。この金貨は家内の父にも見せ、また埋めるときには家内が側にいたような気になった。早速このことを高橋曹長に話した。
釈放後、知ったことだが、この金貨のことについて家内も憲兵隊に呼ばれて何回も訊問され、また東京の憲兵隊からは、家内の父に問い合わせがあった由である。家内も窮して、私の先輩で満州国の警務庁長や省次長の経験がある岸谷隆一郎氏に相談したところ、『知らぬ事は知らぬで明快に主張せよ』との事であった由。
義父と家内には大変迷惑をかけたわけだが、私の供述は高橋曹長の要請で文書にしたし、私としては間違いないと妄信した。追及はさらに毎夜半続く。高橋曹長はまだ他に隠していることがあるという。いくら、怒鳴られても思い出せぬ。また尾崎が大連に来たとき調査部の仲間と一緒にロシア人経営の小さなホテルで会合をもったような気もする。高橋曹長がいろいろなナゾをかけるのでそれで思い出が浮かぶ。
大連のホテルで一緒に会合したことについて、石田七郎に会せろと要求して高橋曹長の立ち会いで対決した。石田も不意のことであり、私が自信を持って強く言うもので、そんなことがあったような肯定的返事をしたが、翌日、先方から面会を求めてきて、全面否定した。
肝心の尾崎と何をしたか何も思い出せぬ、せいぜい酒を飲んだ位だ。高橋曹長は何がなんでも、私たちが満州国の近代化を図ることによって共産主義革命の条件を整備せんと企図しているという結論に誘導しようとする。憲兵隊の方針は一定しているようで、近代化による資本主義化、そして共産主義の条件を備えることであると、無理にすべてをこの公式にあてはめなければ承知しない。「手記」は何度も書き直しを命じられる。終わりころには急いでいるようで、書き方まで具体的に指示してくる。仕方ないから言われる通り書き上げた」(62頁)とある。
要するに小泉は強度の拘禁性ノイローゼ(精神病)になって、高橋憲兵曹長のいうままに『手記』を認めたというのだ。逮捕前の体重が70キロ以上あったものが、40キロにまで痩せてしまったという(成人が体力を維持する限度の体重は40キロだといわれている)。
尾崎から入党の証として貰ったというソ連の金貨をめぐる一連の話は単なる憲兵の誘導による供述などではなく、明かに精神病の症状を示している。これが唯一の物証だというのだ。憲兵隊は懸命にその物証を東京憲兵隊に依頼して探したというが、そんな妄想の証拠品などあるはずはない。
日本共産党は既に1934年に検挙をまぬがれた唯一人の中央委員、 袴田里見の検挙をもって壊滅している。小泉が尾崎の紹介で何処の共産党に入党したと言うのだろうか。もらったロシアの金貨を自宅の庭に埋めたというから、ソビエト共産党に入党したというのであろうか。コミンテルンは在住する国の共産党に加入することが原則である。入党する党はどこにも存在しないではないか。「手記」は全くナンセンスだが、拘禁性ノイローゼでは誰も咎めだてすることはできないだろう。
6)岸谷隆一郎と吉岡述直検事の証言
小泉の「回想」には極めて重要な2人の証言者が登場する。岸谷隆一郎と吉岡検事である。
岸谷隆一郎は満州国通化省警務庁長を務め、東北抗日連軍の首領楊靖宇を追い詰めて斃した関東軍、満州の治安にとっての功労者で、加藤豊隆著『満州国警察小史』(第3編)に大きく写真入りで何枚も掲載されている。
岸谷隆一郎は日本帝国主義の敗戦の2日後、自室に鍵をかけて自殺を遂げ、満州国と運命を共にした。夫人と2人の娘も青酸カリの服毒自殺を遂げた。彼について語ることは多いが沢地久枝著『もう一つの満州』に詳しい。本日は岸谷隆一郎について語る時間がないが、岸谷隆一郎の姪和さんが来聴しているので、この後の2次会の折りに岸谷隆一郎の人となりを聴くことが出来るし、彼女は楊靖宇と岸谷隆一郎の終焉の地を訪ねて岸谷隆一郎の回想(私家版)をものしている。
岸谷隆一郎の墓は故郷の青森県黒石市の感随寺にあり、記念碑が建てられている。そこには「飛龍在天」と隆一郎の筆で刻まれている。易学にある言葉だそうだが、楊靖宇のことだという。
その岸谷が小泉に「入党の証として、ソ連金貨を貰ったこと、これを東京板橋の借家の庭に埋めたこと、埋めるときには焼いて埋めた」などと供述したことについて、「知らぬことは知らぬで明快に主張せよ」と家族に伝えたという。岸谷は満州国通化省警務庁長だから憲兵隊のでっち上げを十分知りすぎていたのである。戦時下の吉林憲兵隊の監獄に何回も小泉に面会し、激励し、差し入れしたことを「回想」は伝えている。それはどんなに勇気がいることだろうか、岸谷も思想前歴を憲兵隊に疑われていたからである。小泉は「回想録」や追悼集『岸谷隆一郎』(同刊行会編 「満鉄時代の岸谷さん」105頁)で岸谷の名を何回も挙げながら感謝している。
ゾルゲ事件の主任検事吉岡述直の述懐と判決
この点についてもう一人の重要な証言者吉岡という検察官が登場する。「回想」によると、吉岡は自分は尾崎事件の主任検事であった」と自己紹介した上で、「君と尾崎は個人的に友人かも知れないが、尾崎事件に君は関係がない。何か自分で考えて不思議なこと、或いは無理に強要されたことはないか」と質問した。
私は供述書に書いた尾崎との関連の事柄は、憲兵隊で毎晩、毎晩遅くまで取り調べられている間に、尾崎が側にいるような感じになり、ボツリボツリと思い出したもので、今では書いたことは頭にこびりついていると返事した。
数日後、吉岡検事は『なにか思い出したことはあるか』と再び質問する。私は尾崎との関係の供述は、逮捕されてから少しずつ思い出したもので、憲兵が嘘を言う筈はないと思って一生懸命考えていると、ボーッと情景が思い浮かび、それをそのまま記したと述べた。しかし、こんな重大なことを逮捕されてから思い出したのは、不思議であるが供述書は頭にこびりついていたままだと述べた。吉岡検察官は黙って聞きながら、最後に『かなり誘導訊問が酷かったようだと一言』」とある。(「回想」66頁)。
小泉は全く知る由もなかったし、小林英夫氏も折角小泉吉雄の「回想」を読みながら、「ゾルゲ事件の吉岡主任検事」が、「君は尾崎事件と関係がない」と言った言葉の重みを全く理解しなかった。小林氏はなぜか吉岡が「尾崎事件の主任検事」であることも故意に書かず、伏せてしまったが、吉岡が「尾崎事件の主任検事」という点に調査が及ばなかったことは極めて残念なことだった。実はこれが小泉証言のキーポイントだったのである。
この吉岡検察官とは野々村一雄著『回想・満鉄調査部』によると、「われわれを取調べる検察官は全部で三人、主任検察官はのちに松川事件の主任検察官になった吉岡隆直検察官」(334頁)と書いているが、「隆直」は明かに間違いで、正しくは吉岡述直検事のことで、昭和6年に東大を卒業し、盛岡、仙台、東京の各区裁検事を担当し、東京区裁当時、ゾルゲ事件に遭遇し、宮城与徳の取り調べを担当した。
「宮城与徳の検事調書」(『現代史資料』第3巻「ゾルゲ事件」みすず書房)を見ると、第21回までは「警察訊問調書」であり、吉岡によって第22回「検事訊問」が昭和17年3月5日に行われ、第29回「訊問調書」昭和17(1942)年4月1日が最後で、第30回は伊尾宏検事に引き継がれている。そして吉岡は昭和17年10月に満州国新京高等検察庁検察官に転じ、満鉄調査部事件を担当した。拙文「尾崎秀実と中共諜報団事件─彼らは戦争に反対し中国革命の勝利のために闘った」(社会運動資料センター刊)より関連部分を以下に引用する。
ゾルゲ事件処理方針を協議した秘密会議の記録『ゾルゲ事件処理に関する検事打合会議』と銘打たれた国家権力の最深部の極秘会議の記録(第2回、昭和17年2月28日。第3回、昭和17年4月2日)が残されている。(『現代史資料・ゾルゲ事件』第2巻、541~547頁)
その出席者の豪華な顔ぶれを列挙する。検事総長以下、大審院側から総長、次長、思想係全検事、控訴院側から検事長、次席検事、吉江検事、地検側から検事正、次席検事、中村登音夫部長(思想)、玉沢光三郎検事(尾崎秀実担当)、吉河光貞検事(リヒアルト・ゾルゲ担当)、本省側から桃沢事務官など。この豪華な顔ぶれをみるだけでも、その事件の規模の大きさと権力側の危機意識の深刻さは容易に判断されるだろう」とある。
この権力の最高メンバーが総結集した会議に思想係検事として吉岡述直は出席していたのである。この会議は何回も開かれた。その吉岡が「君は尾崎事件とは関係がない」と言い切ったのである。当然、満州の実質的支配者である関東軍の最上層部にも報告されている筈だ。吉岡述直はゾルゲ事件については、憲兵隊の誰よりも遥かに詳細な事情に通じていたのだ。だから吉岡検事は「小泉手記」が一片の真実のかけらもない虚構だということは充分に承知済みだったのである。「小泉が執行猶予付となった」のは当然のことだ。
もし実行されなかったにしても、計画そのものが実在していたら執行猶予などになるはずはない。「関東軍司令部」は満州国の実質的な支配者なのだ。日本内地で言えば天皇の暗殺計画にひとしい大罪なのだ。「関東軍司令部爆破計画」など精神異常の所産だったことはこのことでも明らかだ。「あり得る」などの判断が生まれる根拠はどこにもない。
さらに付言すれば、「吉岡は戦後の松川事件の主任検事となった」というのも風聞に過ぎない。吉岡述直は松川事件の上告審を担当した検事であることは確かだが、主任検事は山口一夫検事で佐々木衷、吉岡述直の三名の検察官という構成であった。(大塚一男著『私記・松川事件弁護団史』141頁ほか)
岸谷隆一郎と吉岡述直検事が小泉に示した対応は『愚かな者の歩み』)に詳しい。
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〔study546:120805〕
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