市場原理主義の幻想 ―内外金融市場のスキャンダルを考える―
- 2012年 8月 6日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市野村證券金融スキャンダル
《LIBORの不正操作疑惑》
国債金融市場では「ライボー」の不正操作問題が深刻化している。
「ライボー」(LIBOR=London Inter-Bank Offered Rate)とは、ロンドン市場で日々決まる銀行間取引の基本利率である。英国バークレイズ銀行など大手銀行によるその決定が、公正、公平でなく「カルテル」的だったという疑いが浮上し、英国中銀のイングランド銀行までが関わったとも報道されている。スキャンダルがどこまで発展するかはわからない。金融関係者は固唾を呑んで推移を注視しているが、「大きすぎて潰せない(too big to fail)」というテーゼが今度も作動するかも知れない。
ロンドン金融市場は世界金融の最も聖なる競技場とされてきた。
資本主義を奉ずる者たちには、特に最近まで繁昌していた「市場原理主義者」には理想的で現実的な市場であった筈である。市場原理主義者は「市場が正しく機能すれば資源配分が円滑に行われ最大限効率的な経済活動が可能になる」という。「規制撤廃万歳!」、「自由市場万歳!」である。中曽根行革以来、日本もそれをやってきた。小泉・竹中路線で完成したと思ったら、松下政経塾の一派たる野田政権やその別働隊である「みんなの党」や「維新の会」は、自由化はまだまだ足りないから「もっとやれ」といっている。
しかし、「純粋な市場なんてない」のである。私の業界経験がそう言うだけではない。常識で考えてもそうである。「純粋な市場」は教科書上にだけある幻想である。
《純粋な「市場」はないし「市場」は誤るのだ》
第一に、現実の市場は、言語、制度、習慣、文化、歴史が異なる法人、個人が集まって形成しているのである。そういう社会的な文脈を離れた「市場」はあり得ないのである。国民性、文化のレベル、技術格差、といった要素が、良くも悪くも、個性ある取引形態を形成していくのである。同じ事をやっているつもりが違う結果を招くことが往々にしてあるのである。
第二に、市場参加者は自分の利益のために参加している。
自分だけが得をする。相手よりも大きく得をする。これが市場参加者の基本動機である。アダム・スミスは、自己利益の追求が「見えざる手」に導かれて社会全体の利益、すなわち「公益」に結果するといった。しかし、洗練されたIT技術主導の21世紀の市場において、18世紀経済学の原則が通用するとは私には思えない。その証拠に数年前に、「サブプライム問題」から「リーマン・ショック」までの深刻な経験をしたばかりである。すでに「合成の誤謬」は繰り返し叫ばれているのである。
そういう観点に立てば、現在進行中の「LIBOR不正操作」の発生を知って私には何の驚きもない。金融市場の歴史は、欺瞞・隠蔽と摘発・規制のせめぎ合いの歴史である。
《インサイダー取引で業務改善命令》
日本の大手証券でインサイダー情報を悪用した取引が処罰されている。
野村證券は、取引先企業の公募増資計画というインサイダー(内部者)情報を、会社の発表前に自社の法人営業に利用した。これは内部情報の利用による取引であり、外部投資家からみて不公平であり禁止されているのである。金融庁は12年8月3日に、野村證券に対して「金融商品取引法」(「証券取引法」が発展したもの)に基づく業務改善命令を出した。これより先、野村では、親会社である野村ホールディングスの最高経営責任者(CEO)が辞任している。
LIBOR問題で、市場は社会的な文脈に規定されていると書いた。
ここで証券業界のカルチュアについて触れておきたい。第二次大戦前の証券業界が、「株屋」といわれ投機的な市場とそれを好む顧客に支えられた業界だったのは通説である。
それは戦後変わったのか。財閥解体によって大量の株式が個人、法人の投資家に分散され保有された。個人は貧しかったが貯蓄意欲は旺盛であり、企業は資本市場からも資金調達を欲していた。米国からは「大衆資本主義」という思想が入り日本の資本市場が発展する環境は整備されつつあった。
《洗練された証券市場・金融市場の形成に失敗》
しかし結論だけいうと日本の株式市場、債券市場は「世界第2の経済大国に見合う洗練された市場」になり得なかった。バブルの頂点で、たしかに日本株式の時価総額、株式取引額、海外営業網なとが世界最高水準であった。なぜ洗練された市場になり得なかったといえば、本格的な経営理念がなかった。本格的な経営者が存在しなかった。戦術あって戦略なし。白兵戦に強いが兵器開発と兵站に弱い組織。業界内競争の論理を超えるものがない組織。それが証券業界の体質であったからである。口では何とでも言える。事実、色々綺麗事を言った。しかし人々の記憶に残る証券界は、バブル破裂と同時に露見した「トバシ」や「暴力団」との関係である。スキャンダラスな業界という記憶である。更にいえば、人々は証券売買で「儲かった」という記憶が殆どない。これは致命的である。
私は自虐的になっているつもりはない。
証券業界だけがダメだったのではない。銀行業界も同罪である。バブル崩壊、公的資金導入、低金利政策(銀行救済のため)、という様々な局面―失われた20年間の各場面―があった。我々は、銀行経営者から「これは立派だ」と思う発言を聞いたことがあるだろうか。私は聞いたことがない。最近まで現役だった同僚の話でも、銀行業界は「護送船団方式」は大分変形したものの、「慇懃無礼な集団」として存続し続けているらしい。「大蔵省銀行局」が「金融庁」に変わっただけでなお「お上」への屈従は大きいという。
「慇懃無礼」は店頭でもそうである。銀行カウンターの応対は「コンプライアンス遵守」と称する顧客モルモット化の進行である。例えば顧客「本人確認」の厳重さ。読者はそんな印象を持たないであろうか。
《賢明な消費者になろう》
内外金融機関のスキャンダルを論じてきた。それでどうするのかという話になる。
大したことはできない。
一つは、金融市場への過大な期待を持たないこと。金融には「ベニスの商人」的な要素がついてまわること。応用能力のない学校秀才がルーティンワークをやっているのだと考えればよいのである。実際そうなのである。
二つは、賢明な消費者になること。文句があったら店頭でも金融庁へでも、それを言えばいいのである。銀行の株主総会へ行って電力会社への原発融資は止めろと言えばいいのである。消費者としての預金者、投資家が相手に比べて弱すぎる。この点については稿を改めたい。
(12年8月4日記す)
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