米軍占領下における日本人インテリの能力活用の一事例 ―信書検閲官5000名の従米無精神とその普遍を覗く―
- 2012年 8月 30日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
孫崎享の『戦後史の正体』(創元社)が広く読まれているようである。良い事だ。
ここで私は本書の評をしたいわけではない。孫崎大使が第三章「講和条約と日米安保条約」の一節「占領期の日本人には、象徴的なふたつの道がありました。ひとつは公職追放、もうひとつは占領軍による検閲への参加でした。」で指摘している検閲に関して興味深い資料を提供したいのである。まず、本書の関係箇所を引用しておこう。
「占領中、米国は日本の新聞や雑誌、書籍などを事前に検閲し、印刷を中止させたり、・・・。さらに個人の手紙に関しても、年間何千万通と謂う規模で開封・翻訳し、日本人全体の動向を把握し、コントロールしていたのです。」(p.127)そして岡崎久彦著『百年の遺産――日本の近代外交史話』から引用して次のように記す。「占領軍の検閲は大作業でした。そのためには高度な教育のある日本人五千名を雇用しました。給与は当時、どんな日本人の金持ちでも預金は封鎖され、月に5百円しか出なかったのに9百円ないし千2百円の高給が支払われました。その経費は全て終戦処理費だったのです。」
それでは、「高度な教育のある日本人五千名」とは具体的に誰だったのか。「これまでに、ほんのわずかな人たちが、自分が検閲官だったことを明らかにしていますが、その人たちはいずれも大学教授や大新聞の記者になっています。」このような後暗い経歴を知っているのは本人とアメリカだけですから、占領が終わった後でも米国の諜報部隊が利用しやすいインテリ層が戦後日本に最小限五千名もいたことになる。
偶然であるが、ポーランド文学翻訳家故工藤幸雄教授の著書『僕の翻訳人生』(中央公論)を読んでいたら、工藤が若き時代に信書検閲に参加していた事実を正直に、良き想い出として、心の痛みなしに描いている箇所にぶつかった。若干長いが全文引用しよう。
(引用開始)
CCD(民間検閲局)
戦災者として「貧窮証明書」を地元の役場で手に入れたお蔭で、僕自身は運良く高等学校も大学も授業料免除となったが、家からの送金はむろんない。浪人四年で培った英作文の実力を発揮して、中央郵便局にあった「民間検閲局」と謂う進駐軍機関の雇用試験に合格し、そこで初の勤め人の生活を始めたのは、終戦の翌年の二月からであった(進駐軍による検閲活動を目の敵(かたき)にした観のある評論家、江藤淳は民間検閲局Civil Censorship Detatchment〈略称CCD〉のことを、わざわざ「検閲支隊」と軍事組織風の訳語に呼び改め、形容詞には市民だったか公衆だったかをその前に重々しくつけた。短期間ながら、実地に仕事に携わった人間から見れば、そんな怖い機関とは思えない。闇取引の打ち合わせ、進駐軍の施政に関する批判などを郵便物から拾い出して、重要部分を訳出すれば、それで役目は終わった。逆さまに押された検閲済みのスタンプに見覚えのある人もあるだろう。封書の場合、CCDと黒い文字で印刷された透明のマジックテープがわれわれには目新しかった)。
働き手のなかには、ぼくのような貧乏学生が多かった(大小の闇屋を除けば、一億総貧乏であり、おなかを空かせていた)。CCDには元英字新聞のジャーナリストや学者クラスの英語の達人もずらりといた。唯一の失敗は、ぼくの働き始めの日があいにく給料日の翌日に当たっていたことだ。これだとまるまる一ヶ月、一文も無しに勤務という憂き目を見る。芝浦の米軍倉庫に通訳の職を得た海兵帰りの弟(四つ年下)と共同生活をしていたから、借りる都合は付いたが・・・。
のちのち、「なんだ、同じ検閲局にいた仲間か」と笑い合った男に、多摩美術大学で同僚となった美術史家の佐々木静一がある。外交官だった父親のせいで、ぼくと同年輩の彼はワルシャワ生まれ(ロシア語遣いの外交官の父君がそこの公使館に赴任中の子)という珍しい日本人、その彼とは一高志望、浪人学校までが同じと知った。
佐々木が大英博物館を訪れたある夏、日本語で話しかけてきた外国人が、ワルシャワ大学のぼくの教え子の女子学生の一人でびっくりしたと、その報告を休み明けに聞いた。世の中は狭いものだ。廃校となった日本翻訳学院の同僚で、日本大学商学部の英語教師、武富紀雄(みちお)は、我が家の入居したマンションの建設功労者だが、「佐々木さんとはCCDで同じデスクにいた」と話が出て、ひどく懐かしがり、早稲田の先輩、佐々木教授をまもなく彼の自宅に招いた。その機会に三人で呑みながら中央郵便局のアルバイト時代を語り合った。それから十数年、二人ながら在職中に病死した。世の中は儚く(はかなく)もある。
もうひとつ、お百姓さんが愛人かだれかに宛てた手紙に記した名文句が忘れられない。検閲の仕事中、デスクに回ってきた(エンピツ書きだった)拙い(つたない)文字の郵便物には、こう書かれていた。「去年、帰りたつばくろが、また苗代を見に来ます。肥えたごかついで帰る道、たとえ二里が三里でも、決して厭いはせぬけれど、この道ふたり通ったと、思えば涙が滲みます・・・」――あの農民詩人は、慕う女性と結ばれ、幸せな生涯を送っただろうか。禁を犯し、人目に隠れて、エンピツでこっそり文面を書き写した紙切れは、永いことぼくの手元にあった(このことは「歴史読本」だったかに寄稿を頼まれた折に書いたことがある。武富もそこに書いた。退職時にたっぷりと手当ての出た部分が記憶に残る)。
(引用終わり)
ここに見られるように、工藤は占領軍(工藤は進駐軍と書く)による検閲活動を目の敵にした江藤淳に好意的ではない。Civil Censorship Detachmentの江藤による訳語「検閲支隊」を軍事組織風だと文句をつけている。辞書的に言えば、Detachmentは「分遣隊」、「支隊」を意味する軍事用語のはずなのに。手元にある英語・ポーランド語辞書、英語・クロアチア語辞書、英語・セルビア語辞書などをひいても、この単語は組織論的に使用する場合軍事組織にかかることが自明である。「実地に仕事に携わった人間から見れば、そんな怖い機関とは思えない。闇取引の打ち合わせ、進駐軍の施政に関する批判などを郵便物から拾い出して、重要部分を訳出すれば、それで役目は終わった。」とさえ言い切る。仮にだが、日本を占領したのがアメリカ軍ではなく、ソ連軍であって、社会主義計画経済を日本に導入し始めていたとしよう。そして同じ形の検閲体制をしいたとして、「闇取引」やソ連軍政「批判」を私信から拾い出して、英語でなくロシア語へ翻訳して提供していたとしたら、どうであろうか。リベラル知識人が「そんな怖い機関とは思えない。」とたんたんと書けるであろうか。工藤がソ連圏ポーランドにおけるあの「連帯」運動の熱烈な支援者だったことを想起すれば、アメリカとソ連が同じ人権侵害をしても、前者はそれほど怖くなく、後者は許しがたいと感じるリベラル知識人の二重基準が見えてくる。
工藤の思い出の記にこの件に関して登場する美術史家や英語学者も検閲に対する自責の念なく、三人で検閲機関勤務時代を懐かしく語り合ったようである。人文学者が他者の人権を侵害することにかくも無感覚だったとは、今日の価値観からすれば信じ難い。最も、村の若者の詩情あふれる恋文を彼の人権を侵害してでも後世に伝えてくれたのは、人文インテリの検閲者の怪我の功名であろう。
米国国立公文書館所蔵CIA・MIS作成文書の中に日本人検閲者5000人のリストが保存されているかどうか、国際歴史探偵氏に調査して欲しいものである。
孫崎享は言う。「このように米国の方針に逆らえば追放される。逆にすり寄れば大きな経済的利益を手にすることが出来る。この構図は今日まで続いているのです。」(p.128)。私のように、NATO空爆後、かつミロシェヴィチ追放後のセルビア社会を観察している者には、セルビアでも全く同じ構図が見られ、それだけに孫崎大使の戦後史も生々しく感じられる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0971:120830〕
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