現実と未来―長めの論評(その1)
- 2012年 9月 30日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
自民党の総裁選が話題になりはじめたころはまさか安倍晋三が出てくるとは思わなかった。谷垣前総裁と石破茂の対決になるのかと思っていた。安倍の再登場には政権交代後の民主党政権のだらしなさがあるのだが、民主党の政治路線《戦略》にかつての小泉―安倍路線への回帰が見られるからこれはある意味で当然の帰結といえるのかも知れない。一見すると複雑さが増し、未来のことが一層視界不良になるように見えるが、僕らはここで小泉―安倍路線が登場した2000年の初め位まで政治的―社会的動向を顧みることで流れというか方向を見定めねばならない。これは現在から未来の像がビジョンとして描きだされるというよりは、現実の存在する像の否定によって、その重ねによって視界が開けるというように出現するものだ。僕らは否定による可能性という形でしかこの像に接近できないのであるがこの課題に挑んでみる。
尖閣諸島問題を契機にする日中間の対立の進展が安倍晋三の自民党総裁への返り咲きの後押しになったことは間違いあるまい。その意味では安倍再登場の最大の功労者は石原慎太郎である。何故なら、石原がこの間の尖閣諸島問題の演出者であるからだ。この石原の背後にはアメリカの存在がある。つまり、アメリカのアジア重視戦略(中国脅威論も含めた)があり、その意を受けた日本の国家戦略の方向化があったのである。アメリカの国家戦略の転換(アジア重視戦略)に対応した日本のアジア戦略の明確化のために尖閣問題は格好の素材であった。石原の行動がどこまでアメリカと打ち合わせの上のことかは定かではないが、アメリカの戦略への同調化という意味では露払い的な役割を演じたのである。石原が「安倍の再登場を結構なことだ」と述べたのは当然であるといえる。民主党の小泉―安倍路線、とりわけ日米同盟を中心にした軍事―外交路線への傾斜の中で自民党がより保守化し、その結果として安倍の再登場があったことは必然であるといえる。このことをはっきりさせるために記憶に留めて欲しいのは日本での民主党への政権交代時の軍事―外交路線のことである。日米同盟の堅持はうたっていたけれど日米関係の見直しアジア関係重視が構想されていたことである。東アジア共同体構想が存在したのである。オバマ政権はこれに危険を察知しアジア重視戦略を打ち出し日米同盟強化を強めてきたのである。これには北朝鮮問題を軸とした韓国の同盟強化と軌を一にしていたけれど、中国脅威論によるアジア戦略があり日本をどう取り込むかが中心だった。民主党は政権交代時の構想を放棄しアメリカの戦略に同調してきた。
尖閣諸島の領土的帰属の問題はこの40年来の日本と中国の条約下で棚上げされて存在したし、それが歴史的現実であった。どちらかが領有権を言いだせば泥沼的な紛争状態になるし、解決など考えられないものとしてあった。日本と中国の双方が国内的には自国の固有の領土であることを主張しながら、棚上げにして置くという矛盾状態にあったのだ。この国内向けの建前と本音は矛盾であるが、これは現在の国家問題の矛盾であり、国家矛盾の解決としては棚上げが最良の方法であり、武力での解決を否定する方法にほかならないのである。
尖閣諸島の領土的な問題はかつて日本が清時代の中国と琉球の分割支配で交渉していたものであり、その意味では帰属の不明なものであった。この交渉が日清戦争で日本の帰属として決着づけられたが、敗戦後に浮上する契機はあった。結局のところ中国がサンフランシスコ条約に参加せずに曖昧なまま持ちこされ、1972年の日中条約段階で解決が要請された。この段階でこれは棚上げという政治的解決で処理され今日に至っている。それが尖閣諸島をめぐる歴史的現実である。日本が韓国・中国・ロシアの間で領土問題を抱えていることは歴史的な現実であって領土問題は存在しないというのは現実に反することである。
国家的立場では「領土問題は存在しない」「我が国の固有の領土である」と主張せざるを得ないというだけでそれが建前の主張であり本気でそれを貫けば武力衝突になる。武力で解決するというのはその結果を想定すれば馬鹿馬鹿しいというのが大方の判断であり、それは棚上げが矛盾であっても合理的な矛盾として大方から認められてきたことである。「領土問題は存在しない」「固有の領土」であるということの相互主張の中から矛盾的な解決として出てきた「棚上げ」は矛盾だからそれ自体が揺れ動くのは必然であり、結局のところ領土的主張で対立を深めるか、「棚上げ」の先の解決をめざすほかはない。はっきり言えばこの問題が国家的な対立に波及する方法をやめるべきであり、領土問題が現実に存在することを認めて棚上げから→共同開発へという方向をめざすべきだ。何故、そうならない。解決はなくても中国の脅威を引き出し、国家戦略にこれを使う政治的存在があるからだ。アメリカの戦略や石原慎太郎の演出を想起して欲しい。僕らはどう考えるべきか。唐突に聞こえるかも知れないが、今一度、日本国憲法を思い出してもらいたい。そこには「国際紛争を解決する手段として戦争に訴えることを否定する」とある。この日本の国家指針は国家的な対立の中でそれが困難なところに追いつめられているが、そこが一つの方向であることを確信し得る。この現実化は反日をさけぶ中国の若者をではなく事態を見守る中国の民衆との連帯、韓国も含めたアジアの民衆と連帯し、ナショナリズムの大波を超えて行くところにある。憲法の精神に国家の行方を託せだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1015:120930〕
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