事件報道の「気になる表現」
- 2012年 10月 1日
- 時代をみる
- 藤田博司
最近、何人かの知人から、ニュース報道の文章で「気になる表現」を指摘された。新聞でもテレビでも、事件報道にしばしば登場する、「・・・が、警察への取材でわかった」というものである。「まったく無意味」「何を言わんとしているのか不明」と読者、視聴者は手厳しい。
「警察への取材でわかった」?
確かにこの表現、このところやたらと目につく、耳に障る。どんなふうに使われているのか、実際の報道記事に見てみよう(事例はともにNHKウェブサイトに掲載されているニュースから)。
{事例1}4日夜、広島市で小学6年生の女の子が、東京の20歳の大学生の男に旅行かばんに押し込められタクシーで連れ去られた事件で、大学生は逮捕された際、警察官に対して「大学のサークル活動がうまくいかず自暴自棄になり、女の子を乱暴しようと思った」などと話していることが、警察への取材で新たに分かりました。
(中略)小玉容疑者は、逮捕された際、警察官に対して、「大学のサークル活動がうまくいかず自暴自棄になり、警察に捕まろうと思った。女の子を乱暴しようと思った」などと話していることが、警察への取材で新たに分かりました。(9月5日)
{事例2}名古屋市で今月、小学生の女の子を自宅に監禁したとして、23歳の男が逮捕された事件で、男が調べに対し、「犯行前、自宅の玄関のドアを開けたままにして外の様子をうかがい、1人でいる女の子を狙っていた」と供述していることが、捜査関係者への取材で分かりました。(中略)
また、犯行前の行動については、「自宅の玄関のドアを開けたままにして外の様子をうかがい、1人でいる女の子を狙っていた」と供述していることが、捜査関係者への取材で新たに分かりました。(9月7日)(傍線筆者)
それほど長くはないニュースのなかで、まったく同じ表現がそれぞれ2回、繰り返されている。繰り返しの煩わしさはいまは問うまい。問題はこの表現が「まったく無意味」「なくもがな」と受け取られていることである。この種のニュースの取材対象が通常警察や捜査関係者であることは読者、視聴者にとっては自明のことだ。あえて「○○への取材で」などと断ってもらう必要もない。「新たに」などとわざわざ付け加えるのもわざとらしい。ニュースは常に「新たに」わかったことを伝えているはずだから。
「何を言わんとしているのか不明」という指摘も、大事な問題を含んでいる。「警察への取材で」「捜査関係者への取材で」となってはいるが、「警察」なり「捜査関係者」が具体的にどのような立場にある人への取材なのか、情報源がどのような人物かが伝えられなければ、読者、視聴者にとっては何も意味はない。わざわざ、「警察」「捜査関係者への取材」と断る理由はどこにあるのだろう。
裁判員裁判きっかけに
この種の表現が事件報道に現れ始めたのは3年ほど前、裁判員裁判が実施に移されたころからのことである。理由は、事件報道に際してメディアが情報源を明示する努力を迫られていたこと、と筆者は理解している。裁判員制度開始にあたって司法当局側が公正な裁判実現のために報道側に求めたことは、メディアによる犯人視報道や一方的な決めつけ報道を避けることだった。そのために必要と考えられたのが、情報の責任の所在を明らかにするための「情報源の明示」だった。
報道各社は裁判員裁判実施に先立って、事件報道で極力情報の出所を明らかにすることをそれぞれの社の報道指針などに盛り込んで現場記者に徹底を図った。しかし報道現場は、情報源を実名や役職で明示することは実際的ではないとの理由で「明示」はほとんど実行されず、代わりにいわば妥協の産物として登場したのが「・・・への取材でわかった」という表現だった。
これならあいまいながら「警察」「捜査関係者」とあいまいながら取材先に言及しており、情報源の性格を「明示」したことになる、と報道現場は言いたいところなのだろう。しかしこれは本来の「情報源の明示」には程遠い。
情報源の明示の目的は、情報提供者に責任を負わせ、読者、視聴者に情報の信頼性について判断の手がかりを与えることにある。「警察」や「捜査関係者」の話、というだけでは情報の確かさを読者、視聴者は判断のしようもない。しかしこの新しい表現は、報道側の事件報道改革への努力を裏付けるものとして、新聞でもテレビでも、いつの間にか市民権を確立してしまった。
裁判員裁判以前の事件報道では、この表現に相当する部分は「・・・署によると」「調べによると」という表現で済まされていた。「・・・によると」を前置きに付け加えておけば、続く文章で書かれた情報の中身についての責任は「・・・署」なり「(どことは明示されない当局の)調べ」に押し付けることができた。こうした責任の所在をあいまいにしたニュースの伝え方を多少とも正確、公正なものにしようというのが「情報源の明示」を目指す理由だったはずである。「警察への取材でわかった」という表現に変えたことで、ニュースが正確、公正になったと言えるだろうか。首を縦に振る読者、視聴者は多くはあるまい。
安直な決まり文句
「・・・への取材でわかった」という表現はニュース報道文の一部としては、明らかに不必要、冗長で、無意味である。常識を備えた読者、視聴者ならその表現のおかしさに気づいている。にもかかわらず、この表現がテレビや新聞の報道で、当たり前のように広く使われているのはなぜだろう。最前線の若い記者たちは先輩に言われるままにこの種の表現を取り入れ、何気なく使っているのかもしれない。決まり文句を使えば、情報源の明示にあれこれ苦労する必要もない。しかし現場記者の書く記事の品質管理に当たっているデスクはどう考えてこの種の表現が多用されるのを認めているのだろう。少しでも日本語に敏感であれば、こうした表現を使うことの不自然さに気づいていいのではないか。新聞やテレビでこの表現に出くわすたびに、メディアの日本語(簡潔で分かりやすい日本語)を守ろうとする意思も感覚も、報道現場ではすっかり擦り切れてしまっているのではないかと不安になる。
このままの状態が続けば、この表現がいずれ事件報道だけでなく、政治や経済、その他社会一般の報道にまで及んでくることになりかねない。「警察」や「捜査関係者」が他の役所や「政府関係者」に置き換えられることになれば、たださえあいまいにされがちな情報源がますますあいまいにされ、ニュースの信頼性を判断する手がかりがいよいよ乏しくなる。そうした事態だけはひらにご免こうむりたい。
読者、視聴者としては、情報の提供者がだれか、どのような立場にある人物かを具体的に、実名や役職名で知りたい。それがわかれば、情報の信頼度を自分で判断できる。情報源があいまいにされたニュースの信頼度は、明示されたニュースに比べてはるかに劣る。メディアには、「・・・への取材でわかった」式の安易な報道ではなく、情報源をきちんと明示する報道に徹するよう努力してもらいたいものである。メディアにそうした姿勢がうかがえれば、報道に対する信頼もおのずと高まるに違いない。
言葉に厳しく、期待できるか
政治家が公の場で語る言葉がいかにも軽い。無責任な発言、前言を翻すような発言が繰り返される。それを許している一半の責任はメディアにもある。政治家の言葉を厳しく監視し、中身を検証し、間違いや食い違いがあれば指摘し、正すのがメディアの仕事であるはずだ。それを実践するにはメディア自身も自分たちのニュースを伝える言葉に厳しくなければならない。
不必要で、意味のない表現を安易に繰り返し使いまわすような報道記事があふれている現状では、報道現場に政治家の言葉に対する厳しい監視を期待するのはもはや無理な相談だろうか。
(「メディア談話室」2012年10月号 許可を得て掲載)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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