10.20現代史研究会レジュメ:ハーヴェイのサブプライム世界恐慌論とポストンの労働時間論
- 2012年 10月 19日
- スタディルーム
- ハーヴェイポストン伊藤誠
ハーヴェイのサブプライム世界恐慌論とポストンの労働時間論
2012.10.20. 伊藤 誠
1 ハーヴェイのサブプライム世界恐慌論
デヴィッド・ハーヴェイは、一九三五年にイギリスのケント週に生まれ、ケンブリッジ大学で地理学を専攻し、1969年にジョーンズ・ホプキンス大学に移籍した後、アメリカや世界の深刻な社会問題の体系的な理解のために、地理学をマルクス学派の観点から革新する試みを提示。ラディカル派地政学の研究を開拓し、欧米マルクス・ルネッサンスに重要な一翼を加えた。『新自由主義』(2005、作品社)など世界中にそのファンが多い。
その新著The Enigma of Capital and the Crisis of Capitalism (2010、森田成也・他訳『資本の<謎>』作品社、2012年) も、魅力的叙述と分析で世界的関心を集めている。世界を揺るがし続けているサブプライム世界恐慌はどうして生じたのか。この経済的災厄の構造と意義を、歴史的、地政学的見地から解明し、未来への可能性を探ろうとする、実践的課題を提示する問題提起。本書は、この問題に応え、『資本論』の恐慌論の再整理と現代的発展により、この世界恐慌の意義と作用とを解明しようと試みている。これに加え、現代世界の経済危機は、地球温暖化や自然資源の制約、さらには自然災害や原発事故のような経済危機の側面とどう関係しているのか。本書はこれらのけっして単純ではない謎の複合的な解明を主題として構成されている。
その中心的な主題は、アメリカ発のサブプライム金融危機に端を発する世界恐慌がなぜ生じたのかを、マルクスの恐慌論にたちもどって解きあかすことにある。ハーヴェイの恐慌論にあたる著作。その接近方法は、基礎理論としての『資本論』の恐慌論についても、その現代世界への適用にさいしても、資本の蓄積が多様な制限との関係で過剰化して、自壊作用を生ずる論理を可能性の束として広く認識して考察をすすめようとする見地にたっている。恐慌論としては、いわば多原因的接近(multi-causal approach)をとるもの。
『資本論』の理論体系のなかで、マルクスは、恐慌の周期的必然性を、資本主義経済の内的矛盾の発現として原理的に解明しようとしていた。しかしその試みは、多分に未完成で、いくつかの異なる類型の恐慌論を、その相互関係が不分明なまま並存させていた。そのいずれに依拠するかで、マルクス学派の恐慌論の研究も対立的な陣営にわかれてきた。本書第4章では、その対抗的な理論陣営をつぎの三つに大別している。その第1は、資本蓄積の過程で実質賃銀が上昇して利潤率が下落する論理を恐慌の原理的要因として重視する利潤圧縮説。第2は、資本の有機的構成(剰余価値の源泉である労働力に投じられる資本比率の逆数)が蓄積の過程で高度化して、技術革新の逆説的作用として利潤率の低下傾向が生ずる論理を基本とみる利潤率の傾向的低下説。第三は、資本主義のもとでの労働者大衆の消費を抑制する分配関係にともなう有効需要の不足傾向による過少消費説。本書で第3章で指摘しているように、資本主義経済に特有な無政府的な投資が、生産部面間に不均衡を生じ、それが累積して「不比例性恐慌」をもたらすという不均衡説も。これらは商品過剰論と資本過剰論に大別しうる。
これらのうち、労賃上昇説的資本過剰論は、資本主義経済の基本前提をなす労働力の商品化に、資本蓄積の進行にとって原理的に緩和も解消も困難な恐慌に発現する内的矛盾の根源があるとする観点から、古典的産業循環の一環としての恐慌局面の必然性、周期性、全面性を論証することができる可能性に富んでいる。日本では、宇野弘蔵(『恐慌論』岩波文庫など)とその後継者たちがこれを強調し、資本主義の発展段階論や現状分析の次元での研究にたいし、原理論としての考察基準を『資本論』によって整備するさいに、この類型の恐慌論を基本とし、さらにマルクス信用論の整理をこれと有機的に接合して、マルクスの恐慌論を完成する作業をすすめてきた。
こうして従来の恐慌論が、『資本論』にみられるいくつかの異なる見地のいずれか一つに「支配的説明を探し求めようとする傾向」があったのにたいし、ハーヴェイは本書で、「はるかに良い考え方がある。すなわち、資本流通の分析はいくつもの潜在的な限界と制限を指し示しており、それらがいずれも恐慌の可能性をつくり出すという考え方である」(146ページ)と主張。その潜在的制限として、たとえば貨幣資本の不足、労働問題、部門間の不比例、自然的限界、有効需要の不足などをリストアップしている。それは、マルクスにみられる多様な恐慌論を、潜在的可能性の束として保持して、史実としての現実の恐慌の解明に役立てようとする接近方法をすすめるもの。こうした発想はとくに独創的でもない。マルクスによる信用論への理解も手薄ではないか。
宇野理論の観点からすれば、その方法は、『資本論』でマルクスがめざしていた資本主義経済の内的矛盾の発現として、現実資本と貨幣資本の対抗的な蓄積の展開が周期的で全面的な恐慌による自己崩壊を必然的に生ずることになるか、その原理を論証しようとする研究次元での課題に応えようとするものではない。むしろそのような原理論とは異なる資本主義の発展段階論や現状分析としての、より具体的で多様な形態に様相を変転させる恐慌の現実分析に主たる関心をおくものといえる。その問題関心にそって読めば、宇野理論による原理的恐慌論を考察基準としながら、恐慌の現実分析には、ハーヴェイのいうような多様な制限との関わりがフレキシブルに用いられてよい側面も認められてよい。
たとえば、本書も認めているように、1973年に戦後資本主義の高度成長を終焉させた世界経済危機は、先進諸国における労働力商品に対する産業資本の過剰蓄積による労賃の騰貴にともなう利潤圧縮を一因として発生した(89ページ)。もっとも当時の労賃騰貴と利潤圧縮の危機がインフレの悪性化を介して発現したのは、古典的で原理的恐慌の場合とまったく異なるところで、ブレトンウッズ国際通貨体制の崩壊にともなう通貨信用の膨張が、労賃や一次産品の需給逼迫と接合していたためであった(伊藤誠著作集第4巻『逆流する資本主義』社会評論社)。
他方、本書によれば「2008-09年の恐慌を利潤圧縮という観点から理解することは不可能である。むしろ、過剰に豊富な労働供給による賃銀抑制とその結果としての消費者の有効需要の不足の方がはるかに深刻な問題なのである。」(90ページ)。ハーヴェイの『<資本論>入門』(A Companion to Marx’s Capital, 2010、森田成也・中村好孝訳、作品社、二〇一一年、四七一ページ)では「2008年の恐慌を利潤圧縮説で解釈することは、遠回しの言い方を除いては(そして、伊藤誠の場合のようにこの理論のある種のバージョンは実際にそうしているのだが)、難しい」とも述べていた。たしかに、このいわゆるサブプライム恐慌をもたらした、2002年以降の景気の回復過程では、企業の多くが高収益をあげながら、先進諸国では実質賃銀が抑制され、労働分配率は低下しがちであった。とはいえ、この恐慌は、1973-05年の経済危機とは原因を異にする、過少消費説的観点での理解を要するものと、多原因説的に対比するだけでは、十分な分析とはいえない。
第1にサブプライム恐慌に先行する景気の回復・上昇は、本書でも内容的には記述しているように、住宅・建設・家具・不動産の分野にわたる消費ブームとそれを助長する金融ブームとが主要因となっていた。労働者大衆の有効需要の不足が直接の原因となり、商品の過剰生産が生じた結果とはいいがたい。第2に、過剰資金の投機的運用にともなう株式や不動産価格のバブル的膨張とその崩壊は、1980年代末の日本、97年にかけての周辺アジア諸国、2001一年にかけてのアメリカのIT関連株式などに連続的にくり返されるようになり、サブプライム恐慌もそのような金融の投機的不安定性をアメリカの住宅金融との関連でより大規模に露呈するものであった。それは先進諸国における資本蓄積が、IT化による生産性の上昇の成果を労働者の実質賃銀の上昇に均霑せず、新自由主義的グローバリゼーションのもとで、不完全雇用と賃銀の抑圧、内需の不振、生産設備の過剰化と産業的投資の不振、それにともなう貸付可能な貨幣資本の過剰化の傾向を、この時期の基調としているためである。それは、古典的景気循環の不況局面にあたる困難が、70年代初頭の労賃騰貴にともなう利潤圧縮の経済危機後の長期不況において、大規模に継続している事態である。サブプライム恐慌と70年代初頭のインフレ恐慌とを、対比するだけにとどめず、両者の有機的な関連を、理解することも必要。
本書も事実上こうした関連に着目し、新自由主義的グローバリゼーションのもとでの公企業の民営化攻勢、IT合理化、中国などのアジア諸国の工業化などにより、労働者階級が政治経済的に抑圧され続ける傾向を批判的に解明している。そのような考察のためにもマルクス恐慌論の適用方法が再考されてよいであろう。マルクスの資本の蓄積過程論での資本主義的人口法則論と信用論の意義。
もっとも、ハーヴェイの恐慌論の多原因的接近方法は、地理学を政治経済学的に革新する学問的作業のなかで、資本の運動の論理が、各地域の多様な歴史、文化、政治、自然制約などとの関連で、それぞれの国や都市の地政学的空間構造の特性に重要な特徴を与えることを、「共進化」論としての複合的観点で分析してきたことに由来しているところがある。本書での恐慌論とその2008年恐慌への適用にも、ことにアメリカと世界の不動産ブームとその崩壊の史実についての地政学的で具体的な指摘が、第6,7章などで現実分析としての魅力を与えている。その反面で、労働力の金融化をふくむ債務危機の構造的深化、金融諸機関の危機、国家債務危機への転化による総合的金融危機の分析は、不十分ではないか。
本書の2011年ペーパーバック版「あとがき」で指摘されているように世界恐慌はいまやユーロ圏などで国家債務危機に転化され、「たらい回し」されているという分析記述も適切だが、十分な分析とはいえない。09年の米日民主党への政権交代にともなう「ケインズ主義のちょっとした復活」も、国家債務危機を「口実」に緊縮政策に反転し、中国その他のアジア諸国に対し、先進諸国は「赤字恐怖症」に陥っていると論評される。本書では十分分析されていないが、日本にもそれは及んでいる。もっとも、先進諸国の経済的危機と衰退は、新自由主義的緊縮政策の方針選択の誤りに由来するものとのみ理解してよいかどうか。新自由主義的政策が復活している背後には、1980年代以降の資本主義先進諸国で、IT化にともなう多国籍化、とくに東アジア諸国への生産、営業拠点の移転の進展が、先進諸国内部の雇用の不振、内需の冷え込み傾向、財政赤字の増大などをもたらしてきた蓄積基盤の変化も大きく作用している。さらに検討を重ねたいところである。
2 なにをなすべきか
本書の最終章は「何をなすべきか?誰がなすべきか?ー変革の課題、主体、戦略」と題されている。この部分は、世界の読者の関心を集めている。というのは、つぎのような一連の諸問題が広範な人びとに訴えかける切実さを増しているためである。すなわち、新自由主義のもとでの資本主義の市場原理主義にもとづく発展が、サブプライム恐慌の災厄においてゆきづまりを示している事態のなかで、どのような代替路線に期待をよせることができるか。政権交代後の米日民主党政権に多くの民衆が期待をかけ新たな環境政策や子育て支援をともなった社会民主主義やケインズ主義への現代的回帰が、どうして容易に定着させてゆけないのか。さらにまた資本主義の枠組みを超えてゆく変革運動が、世界恐慌による経済生活の危機から、あらためてチャンスをむかえているはずなのに、社会主義や共産主義をめざす社会運動にも閉塞感が強いのはなぜか。ソ連型集権的計画経済社会の崩壊後、資本主義を超えて歴史を前進させるべき社会運動にも主体の危機が生じているのではないか。
「何をなすべきか?」レーニンが一九〇二年に提起した問題が、ハーヴェイによって現代的にどう解読されるか。現代世界の政治経済の混迷の解読の鍵をマルクスの思想と理論にもとめる世界の批判的知性の多くが、いまそれぞれに緊急な問題として、本書のこの章の表題と展開に期待し惹きつけられるのは不思議ではない。それは、E・ホブスボウムHow to Change the World (2011), A・ネグリ『戦略の工場』(新版2004、作品社)への広い関心とも共鳴している。
ハーヴェイの基本的視点のひとつは、『共産党宣言』をわれわれの時代にどのように活かせるかという発想にある。本書でも、資本主義を超える社会を、共産主義と規定し、そこから、社会主義は資本主義を前提に所得再配分により平等性をめざす社会民主主義をさす用語としている。それは『共産党宣言』による用語法であろう。晩年になるとマルクスとエンゲルスも、ドイツ社会民党を支援する観点からも、共産主義とごく近い意味でも社会主義という用語も使用しており、自らの立場を科学的社会主義とも述べていた。その意味で、マルクスによりながら、本書の用語法とは異なり、平等主義を確実に実現するために、その基礎として生産諸手段の共有をめざす社会主義は、資本主義を前提とする社会民主主義とは区別して理解することも十分可能。もっとも、本書は、「共産主義」の名称は不幸にしてあまりに重荷を背負った用語となっており、アメリカでは、これを政治的言説に再導入することはさしあたり困難であるとして、「名称は重要ではない」とも述べている(314ページ)。われわれの期待する社会運動は、たんに反資本主義的運動と定義してもよい、ともしている。
いずれにしても、本書の著者は、世界の「今日の状況はかつてないほどにマルクスが描写した様相に近いものとなっている」(67ページ)ことに強く注意をうながしている。そのひとつの重要な証左は、グローバル経済の進展のなかで、冨と所得が一部のブルジョアジーに集中し、社会的格差と階級的不平等が拡大する傾向に示されている。こうした冨と所得の不平等の拡大は(日本でもこの間、顕著な傾向となっているが)、有効需要の回復をさまたげ、不安定な投機的バブルとその崩壊による恐慌の災厄を生じやすくし、またそのなかで公的資金による銀行や企業の救済措置をも介しさらに再拡大され続けている。
このような不公平で不安定な資本主義の発展は、「世界のいたるところに反資本主義的運動を生み出してきた」(二七四ページ)。ソ連崩壊後にオルタ・グローバリゼーション運動が宣言したように「もう一つの世界は可能だ」という感覚は存在している。しかし「中心的となる問題は、全体として、資本家階級の再生産とその権力の永続化に世界的規模で的確に挑戦しうるような、堅固で十分統一された反資本主義的運動が存在しないことである」。ここには「二重の閉塞が存在する」。人びとを鼓舞するような構想なしには、本格的な反資本主義運動は出現しえないであろうが、逆にまた、そのような運動の不在がオルタナティブの明確化を排除している(275ページ)。
そのような閉塞状況から抜け出してゆくためには、社会諸運動をつうずる共通の目標に関し、おおまかな同意が必要となる。そこには、自然の尊重、ラディカルな平等主義、共同利益の感覚にもとづく社会的諸制度、生産手段の共同所有の発想、民主的行政手続き、直接生産者の組織する労働過程、新しい社会関係と生活様式の自由な探究、などがふくまれる。こうした目標に向けての協力と連帯の共-革命運動にとって、現在生じつつあるマルクス主義と無政府主義との(マルクスとバクーニンとの対立以降の伝統をのり越える)収斂傾向も重視したい(273ページ)。また、反資本主義運動の担い手としても、伝統的左派が依拠してきた職場での労働者階級の組織運動にとどまらず、その外での地域社会での階級意識の形成、農民運動との同盟、さらに広く都市開発や信用制度のもとで、住まいや職場や所得を奪われ剥奪された人びとの反抗や生活権の要求などにも可能性が求められてよい。労働組合とともに協同組合、ワーカーズ・コレクティブ、NPO,NGOなどとの協力も必要とされる。こうして「何をなすべきで、なぜなすべきなのかに関する構想と、それをなすための、特定の場所を越えた政治運動の形成、この両者の関係を一個の螺旋に転化させなければならない。どちらにおいても、なんらかのことが現実に行われるならば、他方が強化されるだろう。」(276ページ)。
いままさにニュヨークで始まりアメリカ各地にも伝播しつつある、街頭占拠運動、ユーロ圏での緊縮政策反対のデモやスト、日本での反原発運動や震災復興への支援活動などが、これまでにない広い自生的な関心を集め、新たな政治運動の可能性をも開きつつあるのではないか。これらが、本書のいう二重の閉塞からの反資本主義運動の螺旋的反転攻勢再生への契機となるよう期待したい。
3 ポストンの労働時間論
モイシェ・ポストンのThe Labor, and Social Domination (1993, 白井聡・野尻英一監訳『時間・労働・支配』筑摩書房、2012)は、1942年生まれでシカゴ大学の近現代史講座を担当しつつ、フランクフルト学派の問題意識を継承しつつ、抽象的人間労働論を中心に、反資本主義運動の課題を伝統的マルクス主義の発想を超えて提示する試みを示している。そこでは、現代資本主義のもとでの格差の拡大の根底に、資本に支配される労働の危機があり、とくに時間の社会的分割における過度労働と労働機会の希少化を促す構造がある。
この問題を追究するためにポストンは、交換価値=抽象的人間労働=抽象的時間という関係の意義を批判的に検討。『資本論』の恐慌論より、価値論の再読から問題を提起。価値論研究の観点からすると不十分な論点も。とくに価値の形態と実体の理解、経済原則としての労働の二重性論、ルービン価値論の問題点、抽象的人間労働論、など。
しかし、人間労働の根本的で普遍的な特性を強調し、それが資本のもとで疎外された姿で過度労働や過少就業の困難を生ずるとする観点は同意できる。『経済学批判要綱』における時間の経済論を『資本論』にも読み込んで、自由時間拡大の可能性を重視している視点も共感できる。それは資本主義をこえても抽象的労働時間の生活時間のなかでの意義が問われ続けることを示唆しているとも読める。価値論研究の深化、恐慌論の観点での補充も望ましいところであろう。
注記:第268回現代史研究会
10月20日(土)1:00~5:00
専修大学・神田駿河台校舎1号館102号室
テーマ:「アメリカ・マルクス思想の新展開」
論者:伊藤誠、野尻英一、白井聡
資料代など:500円
*どなたでも参加できます
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study568:121019〕
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