(現代史研究会用レジュメ)報告・純粋資本主義論と岩田氏の世界資本主義論
- 2012年 11月 23日
- スタディルーム
- 宇野弘蔵岩田世界資本主義櫻井毅
*これは研究会用のレジュメです。詳細な展開は研究会での報告の中で述べられることになりますので、その点ご承知下さい。(研究会事務局)
(現代史研究会 2012.11.24.)
0、はじめに
1、問題の輪郭
岩田は宇野の純粋資本主義の想定を観念論として否定し、同時に宇野の段階規定をタイプ論として退け、各国分析の単なる集合でない世界資本主義論を提唱し、経済学原理はその内面化論として以外にはありえないことを主張する。
岩田―「宇野の三段階説は、純粋の資本主義社会を想定し、その内部構造をあたかも永遠に繰り返すかの如く法則的に解明する原理論と資本主義の世界史的な発展段階をそれぞれの段階に支配的な資本の形態を中心にしてタイプ的に解明する段階論と各国資本主義または資本主義諸国相互間の関係を具体的に分析する現状分析論の三つに区別しなければならないという主張」
岩田―「現実の資本主義がそれ自体に生成、確立、発展する自立的経済過程をなすとすれば、その場合にこそ経済学は、資本主義の世界的発展段階を一つの必然的な過程として解明しうるものとなるのであるが、しかしその場合には、経済学の理論体系は、この歴史的必然性の内的叙述以外のものではないことになろう」
2、岩田の世界資本主義論
岩田は宇野の段階論が世界史的性格をあらわし、またその政策論も世界的な対外政策を扱っていることを評価するが、他方で、宇野が資本主義経済と非資本主義的経済の関係あるいは国家との相互関係などを、資本主義の発展段階に即してタイプ的に検出するという方法をとっている点を批判し、資本主義はそういう外部的な関係を商品交換を通じて内部的に翻訳して世界資本主義の自立的な必然的展開として理解しなければならないとする。同時にそれは世界資本主義の爛熟・解体の過程としても解明されることになる。岩田はそれを世界資本主義の自立的な運動機構が崩壊して世界戦争になり、それを通して世界体制の危機から次の世界体制の推移にまで、少なくとも当初においては、そう踏み込むのである。そのことはその世界資本主義の自立的発展過程の内面的叙述たる経済学原理にも反映される問題になる。
岩田―「資本主義的生産が『世界市場』的過程のうちにその形成と成長の過程をもつということは、また、その同じ過程のうちに、その資本主義的生産としての爛熟の過程をもつということでもあろう。かくて、資本主義は、他の社会関係を外部に前提し、それに外部的に浸透するような『世界市場』的過程としてはじめて、その内部に生産基軸をもち、それ自身に生成、成長、爛熟するような自立的な歴史的形式をなすということになるのである。事実、資本主義はそういう『世界市場』的過程として以外には存在しえないのであり、いいかえれば個々の国々を単にその一環とするような世界的システムなのであり、そういうシステムとしてたえず自己を形成しつつあるような世界史的な過程にほかならない。しかも、その世界的過程たるや、人類の歴史においてはじめて開始された過程なのである。資本主義は、このような世界史的過程として、すなわち世界資本主義として、それ自身に生成、成長、爛熟するような歴史的形成体をなしているのであって、経済学の性格は、まさにこのことによって規定されているといわねばならない」(鈴木鴻一郎編『経済学原理論』)
岩田―「産業革命による近代資本主義の確立以来少なくとも第一次世界大戦までは、イギリスの国民的な貨幣市場と国民的な中央銀行が、同時に、伝統的に、世界的な貨幣市場と世界的な中央銀行であって、それが古典的金本位制度として知られる19世紀以来の国際通貨体制の実体であった」(「経済学原理論序説【二】」)
岩田―「『帝国主義と現代資本主義』の執筆時期は、1961年末であるが、その一役割は、この時期に、ドル・金決済の停止による、第2次大戦後の世界貨幣システムの崩壊の不可避性を警告することにあった。だが、それから生ずる事態については、1930年代の経験―ポンドの金決済停止、これによる第2次大戦後の国際通貨システムの崩壊の経緯―に依存していた。すなわち,幾つかの為替ブロックへの世界経済の分割とこれらの為替ブロック間の矛盾と闘争の激化、これによる世界経済の不況的停滞の深刻化などなどの事態を予測していたわけであるが、68年3月のドル・金決済の実際の停止それによる戦後通貨システムの崩壊の結果として生じた現実の事態は、今日から振り返れば、その予測はかなり違ったシナリオの展開となっている」(『世界資本主義Ⅰ』)
3、純粋資本主義論の系譜
①古典経済学
②マルクスの純粋資本主義的理解
マルクス―「理論においては資本家的生産様式の諸法則は純粋に展開されるということが前提される。現実においては常にただ近似のみが存在する。しかしこの近似は、資本家的生産様式が発展すればするほど、そして従前の経済的残滓による資本家的生産様式の不純化と混合とが除去されればされるほど、ますます大きくなる」(『資本論』第Ⅲ部)
マルクス―「資本家的生産の本質的諸関係の考察に当たっては、商品世界全体、物質的生産-物質的富の生産-のすべての部面が、形式的または実質的に資本家的生産様式に支配されていると想定することが出来る。なぜならこうしたことは概して絶えず起こっていることであり、原理的な到達点であって、この場合にだけ労働の生産力は最高点にまで発展するのである。このような前提は極限を現わしており、したがってそれは厳密な正確さに近付いて行くのであるが、その前提のもとでは商品の生産に従事するすべての労働者は賃労働者であり、生産手段はこれらすべての部面において資本として労働者に対立している」(『剰余価値学説史』)
マルクス-「経済的諸形態の分析では、顕微鏡も科学試薬も役に立たない。抽象力がそのこの両方の代わりをしなければならない。・・・物理学者は、自然過程を観察するに際しては、それがもっとも内容の充実した形態で、しかも攪乱的な影響によって不純にされることがもっとも少ない状態で観察するか、またもし可能であれば、現実の純粋な信仰を保証するような条件の下で実験を行う。この著作で私が研究しなければならないのは、資本家的生産様式であり、これに対応する生産関係と交易関係である。その典型的な場所は、今日までのところイギリスである。これこそイギリスが私の理論的展開の主要な例解として役立つことの理由である」(『資本論』初版序文)
③マルクスの歴史=論理説
マルクス―「『このような研究の科学的価値は、ある一つの与えられた社会的有機体の発生、存在、発展、死滅を観察し、また他のより高い有機体とそれとの交替を規制する特殊な諸法則を解明することにある』(カウフマン)――このように的確に私が現実的方法と呼ぶものを、そして私個人によるこの方法の適用に関する限りでは、このように好意的に述べているのであるが、これによって彼が述べたのは、弁証法的方法以外の何者であろうか」(『資本論』第2版後記)
マルクス―「生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本の資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本家的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」(『資本論』第Ⅰ部)
エンゲルス―「論理的な扱いは、実はただ歴史的形態と攪乱的偶然性を取り去っただけの歴史的な扱いに他ならない。この歴史の始まるところから同じように思想の歩みも始まらなければならず、その歩みのその後の進行は。抽象的で理論的に一貫した状態での歴史的経過の映像に他ならないであろう」(マルクス『経済学批判』への書評)
④宇野弘蔵の純粋資本主義論
16,7世紀以降の資本主義の歴史的発展を資本主義の純粋化傾向としてとらえ、それを極限まで思惟によって延長することによって純粋資本主義の想定が可能になる。それを模写することによって、さらに対象を模写する方法まで模写することによって、経済学原理が成立する根拠がえられる。
宇野―「資本主義の発展の傾向に即して純粋化されたとき、始めて現実の資本主義に基づく理論的想定がなされるのである。理論的に想定された純粋の資本主義社会は、スミス、リカルドにあってはもちろんのこと、マルクスの時代にも決して現実にあったわけではない。マルクスにとっては資本主義の発展が、現実的にも、スミス、リカルドの時代よりも、この理論的に想定せられなければならない純粋資本主義社会に一層近付いてきており、さらにまた益々近づいてゆくものとして、かかる想定が許されたのであった」(『経済学方法論』)
宇野―「かつて経済学の原理論は、単に対象を模写するだけでなく、方法自身をも模写するものであると言ったことがあるが、それは対象の模写が同時に方法の模写であることを意味するものに他ならない。それは・・・原理論の対象をなす純粋の資本主義なるものが、単に現実の資本主義社会から主観的に抽象して想定されたものでなく、資本主義の発展そのものが、客観的に純化作用を有しているものとして想定されるものであるからである。方法自身が客観的に対象とともに与えられるのであって、対象に対して何らかの主観的な立場によって立ち向かうわけではない」(『経済学方法論』)
⑤岩田以外の宇野純粋資本主義論批判者たち
重田澄男はマルクスの言う近似は「不純化と混合の除去」による諸法則の純粋の展開を述べているだけで、宇野のような純粋資本主義の想定ではないと批判する。(『マルクス経済学方法論』)
黒田寛一はプロレタリアートの主体的立場を強調して宇野の認識論の欠如を批判する。(『宇野経済学方法論批判』増補改訂版)
佐藤金三郎は宇野の純粋資本主義の想定が対象の歴史的発展とは一致せず、他方で方法摸写説を主張すれば純粋資本主義の想定と矛盾するとして、宇野を批判した。(『資本論と宇野経済学』)
⑥残る問題
純粋化傾向とは? 純化傾向を思惟によって延長するとは? 模写とか内面化はいかにして可能か? 経済学史の持つ蓄積の意味!
4、岩田の世界資本主義の内面化論による理論形成
岩田―「内面化の方法、有機的な弁証法的な抽象の方法を一貫させるということになると、想定された純粋の資本主義ではなく、対外関係をもち、またその内部にも非資本主義的な不純要因を抱え込んだ、現にある資本主義を、これらの諸要因を、生産過程を軸にする資本・賃労働関係の内に内面化しつつ叙述するのが原理論だ、ということにならざるを得ない。/さらに出てきた最大問題は、金融資本段階の資本の支配形態をなす金融資本の問題で、・・・金融資本とは、産業資本と貨幣資本を貨幣資本の形態で統合する株式会社の具体的・歴史的な現実形態以外の何物でもない。・・・そこで株式会社を原理論の中でどう規定するかが、原理論の性格に関する最大問題になってくる。」(『国家論研究』vol.4)
岩田-「資本主義的生産は、恐慌による既存生産力の破壊と不況期におけるあらたな生産力の形成という方法によらないで、生産力と生産関係の矛盾を解決し、その全体的編成を実現していくあらたな形態は、もはや、生産力と生産関係の矛盾を回避ないしは隠蔽しつつ、資本主義的生産の全体的編成をいわば形式的に達成していく形態以外にはありえないのであって、これがほかならぬ利潤の利子化であり、あるいはこれを実現するものとしての株式形態による資本の商品化であるといってよい」(鈴木編『経済学原理論』)
岩田―「貨幣市場と資本市場の金融的連関の役割の増大は、資本主義的経済過程に対する中央銀行を頂点とする貨幣市場の統括機構を、したがって、その現実的な世界気候をなす世界市場的な景気循環機構を、形式的には完成させるが、実質的には、それを犠牲化し、虚偽化し、形骸化せざるを得ないのである。/そしてこれは、そのようなものとして、世界市場的システムとしての資本主義の経済的組織原理の自己完結性とその制度的限界性を、最終的に示すものとなるのである」(「経済学原理論序説【二】」)
宇野―「理論的に限定されなければならない純粋資本主義社会が、現実的には実現されないままに、資本主義派末期的現象を呈することになるのであるが、しかし資本主義の発展期における、その純化傾向の内には、すでに純粋の資本主義社会における機構が展開される。商品経済は、社会を形成する経済的構成体として、その自立的根拠を得るとともに、基本的諸現象を展開するわけである。金融資本の時代としての転化を示して後も、別に新たなる形態を展開するわけではない。金融資本の時代を特徴づける株式資本の産業への普及も、純粋の資本主義社会において、すでに論理的には展開せられざるをえない。いいかえれば、ここでもその歴史的過程は、純粋の資本主義社会を想定して得られる基本的規定によって、これを基準として解明せられうるし、またせられなければならないのである」(『経済学方法論』)
大内力―「いうまでもなく原理論は、その対象となる純粋資本主義を背後から支えている生産力水準については具体的規定を与えているわけではない。・・・しかし他方、それは暗黙にではあれある生産力水準を前提せざるをえない。その場合、低いほうの世界はかなり明瞭に与えられている。・・・/高いほうの限界はどう考えているのであろうか。・・・ここでは生産過程が・・・もっぱら個人企業によって担当されており、株式会社企業なるものは無視して差し支えないという事実、及びここでは市場価格の変動に対応して資本の部門間異動がかなり敏捷におこなわれるし景気変動に際しては特に不況の末期に固定資本の更新と技術の導入とが集中的に行われるような状況が一般的であるという事実を、当然のこととして前提していることに注目しておく必要がある。こういう前提は資本主義の運動法則をもっとも明快に、単純化された形で解明するためには不可欠のものであるが、それをより具体的な歴史過程に対応させてみれば、それは一九世紀の、先にみたような近代的鉄鋼業が中心産業になるような事態を生じる以前の、生産力水準に対応した関係であるといわなければならない」(『経済学方法論』)
5、まとめ
岩田の世界資本主義論への評価
その内面化論=経済学原理論の意義
第269回現代史研究会
日時;2012年11月24日(土)1:00~5:00
場所:専修大学神田神保町校舎1号館102教室(170人)*場所は明治大学ではありませんので、ご注意ください。
テーマ:「岩田弘の世界資本主義論を検証する」
講師:櫻井毅(武蔵大学名誉教授)「純粋資本主義論と岩田弘氏の世界資本主義」
五味久壽(立正大学教授)「岩田世界資本主義論の意義」
司会と総括:田中裕之(立正大学教員)
*五味先生の演題は仮題です。当日若干の変更があるかと思います。
資料代:500円
参考文献:岩田弘『世界資本主義Ⅰ』(批評社)、『世界資本主義Ⅱ』(来年の2月頃に批評社から刊行予定)
顧問:岩田昌征、内田弘、生方卓、岡本磐男、塩川喜信、田中正司
(廣松渉、栗木安延、岩田弘)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study569:121123〕
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