特集:「カタルーニャ独立」を追う ③
- 2013年 1月 4日
- 時代をみる
- カタルーニャの内戦カタルーニャの言語、歴史童子丸開
http://bcndoujimaru.web.fc2.com/spain_jouhou/independencia_catalan-03.html
カタルーニャの言語と歴史を、少しだけ
民族問題を取り扱うためにはその言語と歴史を知っておく必要がある。詳しくは「カタルーニャとバルセロナの歴史概観」の①、②、③をご覧いただきたいが、ここで最小限のことだけを述べておきたい。
ます民族言語についてである。カタルーニャ語は、フランス語やイタリア語、ポルトガル語などと同じく俗ラテン語に属し、上ラテン語のカスティーリャ語(いわゆるスペイン語)とは成り立ちが異なる。私などにとってはどれもみな「外国語」、どれも等しく難しいだけであり、ましてそれらがお互いにどれくらい近いか離れているのかなど、まるで見当もつかない。しかし、私の知るカタルーニャ人はこう言った。「我々は生まれつきフランス語やイタリア語は知っているのだ」と。「生まれつき」は大げさだが、少しの間現地で暮らして会話しながら、発音や細かい文法的な違いを修正するだけで簡単にフランス語やイタリア語をマスターしてしまうらしい。フランスやイタリアに旅行に行っても自分はカタルーニャ語でしゃべり相手は現地の言語でしゃべって、それでたいがいの会話が成り立ってしまうというから驚きである。
カタルーニャに来たイタリア人やフランス人にとっても同様らしく、知り合ったイタリア人がバルセロナに来てすぐにカタルーニャ語で書かれた本を買い、「うん、ほとんど分かるよ」と言いながら読んでいたが、この辺の事情は我々日本人にははかり知ることができない。言語学的には別でも、コミュニケーションという面では日本国内の方言同士よりも近い関係なのかもしれない。同様にポルトガル語にもやはり強い親和性を持っているようだ。
ところが同じラテン系言語でも、系統の異なるカスティーリャ語(スペイン語)に対しては、使用を強制されてきた反感を差し引いても、やはり相当に違和感を感じるようである。私などにとっては、日本語と同じく「a,e,i,o,u」の5つの母音しか持たず、多くの単語の語尾が母音で終わり基本的にローマ字読みすればよいスペイン語の方が、複雑な母音の発音を持つカタルーニャ語よりもずっととっつきやすい。特に語尾の子音が発音されないことが多く単語同士をつなげて発音するリエゾンのせいもあって、カタルーニャ語の聞き取りはかなり難しく感じる。しかし他の言語を持つ人にとってはそうでもないらしい。面白いことに英語を母国語とする米国人までが「スペイン語よりもカタルーニャ語の方に親しみを覚える」と語っていた。
歴史を見るとスペイン中央政権がカタルーニャに対して行った大きな戦いが3回ある。一つは1630年から12年間続いたカタルーニャの反乱、「収穫人戦争」である。このときにカスティーリャ人を従えて中央を支配していたのはオーストリアのハブスブルグ家だったが、ハブスブルグ帝国と対立関係にあったフランスがこれに干渉してきた。フランスは当初は反乱を支援していたのだが、形勢が悪くなると手を引き、ピレネー山脈の北側にあったカタルーニャの領土を奪い取ってしまったのだ。この戦争は特に「独立」が意識されたものではなく中央政権に対する「一揆」の性格が強かった。反乱を鎮圧したハブスブルグ家は反乱の指導者に懲罰を与えたものの、言語を含む独自文化やこの地方独自の社会制度に手をつけることはしなかった。しかしこのときにフランス人に奪われた北カタルーニャ(フランス領カタルーニャ)が戻ることは二度とない。
2回目の戦いは、この特集の①でも述べたとおり、マドリッドの新しい支配者となったブルボン王朝との戦いである。そしてこのときもカタルーニャは、米大陸の殖民地争奪戦を含む複雑な利害関係の中で、英国やオランダといった外国勢力に利用されて、結局は捨てられた。そればかりではなくマドリッド政権から社会制度や言語を奪われるというかつてない悲惨な目に遭わされることになった。この戦いの中で「独立」が始めて意識されたからである。絶対主義を信条とするブルボン家にとって、国家の分裂につながる異質な要素は徹底的に排除する必要があったのだ。
そして3回目が、1936年から39年まで続いたスペイン内戦である。この戦いはヒトラーやムッソリーニと手を組むフランコのファシズム対スターリンに支援される共産主義との戦いという側面が強いのだが、カタルーニャではここに民族独立の動きがからまって複雑な様相を示した。1932年のスペイン革命の際にスペインからの独立を目指したカタルーニャは、1934年に独立宣言を発表し初代大統領としてリュイス・クンパニィスを選出したのである。しかしマドリッドの共和国政府はこれを認めなかった。内戦が始まりフランコ軍によってバルセロナが陥落させられた後に、クンパニィスは亡命先のパリで「カタルーニャ亡命政府」を形成した。しかし彼はパリを占領したナチスのゲシュタポに逮捕されてスペインに送り返され、形ばかりの裁判の後に、1940年にバルセロナのムンジュイックの丘で銃殺された。
内戦に勝利したフランコは、18世紀のブルボン家に倍してカタルーニャに厳しい懲罰を与えた。カタルーニャ語はカスティーリャ語(スペイン語)の一方言に過ぎないという流言が「真実」とされ、この民族言語が個人の家庭内を除くありとあらゆる場所から追放されたのである。特に学校では徹底したスペイン語(カスティーリャ語)教育が行われた。私の知る老婦人は、小学校に入学したときに「トイレに行きたい」というスペイン語が口から出ず、カタルーニャ語を話すと恐ろしい罰が待っていたため、ついに教室でもらしてしまったそうである。彼女がスペイン語教育に対する恨みと反感を失うことはない。彼女と同様の経験をした人は多い。フランコが死んで学校でのカタルーニャ語教育が再開されたとき、日本での太平洋戦争敗戦直後と似た状況だろうが、昨日までスペイン語を強制していた教師たちが涼しい顔をしてカタルーニャ語教育に携わり始めた姿に、言語を奪われた民族の惨めさを改めてかみ締めた人も多かったと聞く。
また、これは朝鮮半島で日本が行ってきたことでもあるが、フランコは個々人の名前すら奪った。ジュゼップはホセに、カルマはカルメンに改められたのである。自分たちの言葉を街中で話すことはもちろん歌を歌うことすら厳しい刑罰の対象となった。店の看板はもちろん八百屋の品書きからすらカタルーニャ語は消し去られた。カトリック教会でもミサの言葉がスペイン語に統一されたのだが、ムンサラッ(Monserrat:モンセラット)山にある教会と修道院(写真)だけは、ローマ教皇庁に特別の申し立てをしてカタルーニャ語でのミサを許された。さすがのフランコも教皇庁の命令には逆らうことができなかったのである。以来、この山は「聖地」でありムンサラッの黒い聖母(写真)はカタルーニャの象徴であり続ける。
フランコ独裁が終わり新憲法が制定されたのが1978年だが、それ以来、ジャナラリターッ(政府)が復活し新しい議会も作られ、民族舞踊サルダーナ(写真)、カステイュ(人間の城:写真)なども再び行われるようになった。しかし何と言っても重大な変化は民族言語の復権だった。人間にとって言語は魂に等しい。そして母なる言語(mother tougue; lengua materna)は、人間の思考と感性の中心軸であると同時に、世界で生きる人間としての誇りの中心でもある。母国語としてのカタルーニャ語教育は彼らの全存在をかけた事業なのだ。
スペイン語の「lengua vehicular」という言葉は、実際に使用される意味での訳が難しいが、具体的に言えば学校で理科や数学や社会科などを勉強する際に使われる言語、というように理解してもらいたい。つまり様々な思考や概念を組み立てコミュニケーションを行う際に中心軸の働きをする言語である。ここでは仮に「中軸言語」とでも訳しておこう。
もちろんカタルーニャ人もスペイン語を第2公用語として自然に使うし、我々外国人に対しては多くの場合スペイン語で話しかけてくる。その場合でも、ちょうどオートバイの後輪がエンジンとつながって推進役を果たすように、カタルーニャ語がスペイン語を操る際の「中軸言語」として働いているのだろう。異なる言語とはいってもやはり同じラテン語系統に属するため、かなり簡単に言葉の切り替えが効くようだ。逆の立場からも同じことが言える。たとえばFCバルセロナにはアンドレス・イニエスタやペドロ・ロドリゲスなどスペイン語地域の選手がいるが、彼らは少年の時代からバルセロナで育っている。彼らが進んでカタルーニャ語をしゃべることは滅多にないが、聞いたり読んだりするカタルーニャ語はほぼ完璧に理解できる。彼らの場合にはスペイン語が「中軸言語」として働くのだろう。
このような思考の中心軸となる言語は最も強力に人間集団のアイデンティティを形作るものであり、「中軸言語」を変えられることは自分の根を失うことに等しい。近代国家の中では国の教育政策によってこれが形作られる。日本で北海道のアイヌ民族が日本の学校教育によって「日本人」になり、米国で先住民が同様に「米国人」になったように、一つの民族は教育によって数世代でその民族性を奪われることになるだろう。私がバルセロナで知り合ったエストニア人の女性が次のようなことを語った。《昔のソ連時代にはロシア語が強制されたため、エストニア語が消えかけていたが、ソ連後にエストニア語の教育が再開されようやく民族としての自覚を持つことができた。少数言語は政治的な力で保護されなければ失われ、民族自体も滅亡する。カタルーニャで強力な民族言語政策が採られているのは当たり前であり、私はそれを断固支持する。》
このあたりの言語に対する感覚が分からないと欧州の民族問題の理解はできないと思う。以上の事柄を踏まえて、次に進んでいただきたい。
中央政府による「中軸言語入れ替え」計画
ここで再び11月25日のカタルーニャ州議会選挙に戻ろう。議席を大幅に減らし、過半数どころか「独立運動」の推進役を《クビにされた》感のある民族右派政党CiU(集中と連合)だが、どこか他の政党を見つけて、連立あるいは少なくとも閣外協力を頼む必要に迫られた。主要マスコミは一斉に「独立派大失敗」を報道し、カタルーニャの「独立熱」が一気に沈静化したかのような雰囲気作りが行われた。一方で、議席を一つ増やしたうえに協力できる独立反対派も台頭して、中央政府と与党のPP(国民党)は大いに浮かれた。首相のマリアノ・ラホイは「私の人生の中でこれほどまでに壊滅した政治戦術は見たことがない」と笑いをかみこらえながらCiUの沈没をからかったのである。
すっかり意気消沈した州政府与党CiU党首のアルトゥール・マスは、州政府運営を続けるために、積極的独立派のERC(カタルーニャ左翼共和党)と手を組むか、それとも「独立」を引っ込めて反対派のPSC(カタルーニャ社会労働党)に握手を求めるかという、非常に困難な選択を迫られることとなった。「独立を問う住民投票の実施」にすらこだわらないという、選挙前とは打って変わった態度を表し、党内ではマドリッドから少しでも好条件を引き出すためにPPC(カタルーニャ国民党)に擦り寄ったほうがよいとする動きすら起こっていたようだ。CiUは、CDC(カタルーニャ民主集中)とUDC(カタルーニャ民主連合)の二つの流れを含んでおり、その内部でも様々な利害の対立を抱えている。
それにしても情け無い話である。あのまるで紅海を渡るモーゼのように自信たっぷりに「独立」を語ったのが本気だったのなら、こうなった以上ERCと手を結ぶ以外の選択肢はありえないように思えるが、要するに彼らの「本気度」とはこの程度のものだったのだろう。腰の据わらぬ姿勢で博打をうてば100%負けるに決まっているのだ。カタルーニャ公営TVの超人気番組で政治風刺専門の「ポロニア」では、マスのそっくりさんが十字架上のキリストの格好で「父よ、なぜ我を見捨てたもうたか」とつぶやいて視聴者の爆笑を誘った。もちろん大幅に議席を伸ばして第2党の地位を手に入れたERC党首のウリオル・ジュンケラスは、民族主義ブロックの強化を呼びかけCiUに手を差し伸べたが、カタルーニャ財界はCiUとERCの野合に強い懸念を示した。また中央政府を握るPPの幹部たちがもはや独立派など相手にするまでもないと無視する姿勢に出たことは言うまでもない。
ところが、である。当面の間は無視を続けて民族感情の沈静化を待ちながら経済再建策に打ち込めばよかったものを、よせばいいのに、またあの教育相ホセ・イグナシオ・ウェルトがしゃしゃり出たのである。
州議会選挙がすんで1週間後、12月3日のことである。ウェルトは新しい教育政策案を国会に提出したのだが、その中で彼は、教育の中心軸としてカスティーリャ語(スペイン語)使用を徹底させる方針を打ち出した。彼の政策案に従ってカタルーニャの小学校教育のカリキュラムを立てるなら、教育言語の第1はスペイン語となり、カタルーニャ語は二つの選択外国語よりも授業時間の少ない「第4の言語」に貶める事すら可能になってしまう。もしこのようなことが実現させられるなら、カタルーニャ人の子どもの言語が入れ替わってしまうだろう。これが、2ヶ月前に彼が述べた「カタルーニャの児童生徒をスペイン化する」計画の具体策の一つであることに違いない。
これはもはや教育政策を超えて民族絶滅政策にも等しい。先ほども説明したように、一つの民族にとって自らの「中軸言語」を入れ替えられることは民族性自体を失うことである。自らの独自言語を、学校で最も長い時間かけて浸る言語、あらゆることを考え感じるための言語とすることは、人間としての存在の根源に関わる最も重要なポイントであり、一つの民族の居住地域の存在自体を左右するものであろう。かつてフランコはその「中軸言語」を入れ替えることによって、カタルーニャ人を「単なるスペインの一地方人」にしようとした。それが彼の全体主義の具体的な表れだった。そして今日、再び同じ全体主義がスペインを覆うのではないか…。カタルーニャ人ばかりではなく多くのスペイン人が危機感を感じ始めている。
単純に政治経済的な問題ではなく、ここに文化や言語が絡んでくれば、この独立問題が一気に国際化し外国の有力な機関も黙視できなくなるだろう。ただでさえ英語圏のマスコミや人権団体がカタルーニャ独立問題に注目しているのだ。独裁政権時代から今日までカタルーニャ語の復権と普及のための闘いを続けている団体オムニウム・クルチュラルは、12月5日にこのカタルーニャに対する「侵害」の不当性と欧州憲章への違反をEU本部に訴えた。そのムリエル・カザルス委員長は、その活動が欧州の大勢の有力な人々によって支援されていると語る。
この間、私は首をひねりっぱなしである。この教育相の「カタルーニャ人のスペイン化」を目指す教育方針案は、アルトゥール・マスの独り相撲の結果、せっかく鎮静化に向かうかと思われた民族自立への情熱を、もはや二度と後戻りできないほどに激しく燃え上がらせてしまった。このウェルトと彼を教育相に採用したラホイは、単に先見えのしない馬鹿なだけなのか、それともよほどの深慮遠謀があるのか、全く見当もつかない。ユーロ圏第4位の経済規模を持つ国の政治的混乱は、EUとユーロ圏全体に破壊的な悪影響を与えることだろう。以前の独裁国家のように法と強権を使って独立運動を鎮圧したいのなら、逆にスペインがEUを出て行く以外にはあるまい。いったいぜんたい、この者たちは何をやりたいのだ?
スペイン中で広がる不信と亀裂
この新教育政策案が発表されると、カタルーニャ州教育委員のイレーネ・リガウは即座に「これは1978年(新憲法制定)以来で最悪のカタルーニャ人に対する攻撃である」と、激しい調子でウェルトを非難した。そしてマスは直ちに言語問題に集中した政治家会議を召集した。最も熱心に独立を唱えるERCは、ウェルトの方針によってカタルーニャ独立が必要であることがはっきりしたと断定した。カタルーニャ選出のERCの国会議員団は12月12日の国会審議で「我々は従わない。その場合、学校の各教室にシビルガード(gualdia civil:国内治安軍)を配備するのか」と激しくウェルトに詰め寄り、第2次世界大戦時に英国のチャーチルが英国民に呼びかけた「Keep calm and carry on.(冷静さを保ってやり続け)」をもじって「Keep calm and speak Català.(冷静さを保ってカタルーニャ語を話せ)」と英語で書かれたポスターを掲げた(写真)。これは明らかに、このウェルトの教育政策がナチスの思想と同レベルであると見なしたものである。
カタルーニャでは独立反対派のPSCもこのカタルーニャ語軽視政策の受け入れを拒絶し、ウェルトの法案に反対する「カタルーニャ語戦線」を提案した。独立に慎重なICV(環境左翼連合)もまたラホイ政権に対して教育相の即時解任を要求した。さらにラホイ政権の「身内」であるPPCの書記長アリシア・サンチェス=カマチョまでが、ウェルトがPPCに何の事前の相談もなくこのような重大な方針を打ち出したことに抗議したのである。
もちろんだが、多くの教育関係者や学者、一般市民が街頭に出た。カタルーニャ児童保護者協議会(FAPAC)はウェルトの方針を拒絶する声明を発表し、全ての大学で学生と教官の抗議集会が開かれた。そして10日からの1週間がマドリッド政府の言語教育方針に対する抗議週間と定められカタルーニャ各地60箇所で激しい抗議集会が開かれた。バルセロナでは10日の月曜日の夜に州政府庁舎前のサンジャウマ広場に数千人の教育関係者と知識人らが集まり中央政府に抗議した。この日はちょうど「世界人権デー」だったのである。民族言語の防衛は人権の防衛なのだ。
加えて、信じられないような事実だが、ウェルトはカトリック宗教教育復活の方針すらこの新たな法案に盛り込んでいる。これはフランコ独裁時代に経済政治宗教複合体であるオプス・デイによって、教会の教区ごとに作られた全国の学校で強制的に行われていたものである。当然だがカトリック教会とウェルトが事前に協議し合っていたものであり、宗教と政治の一体化は彼らの宿年の願望でもあったのだ。言語問題に隠れて大きくは注目されていないが、これもまた「スペイン化」の目玉の一つに違いあるまい。これが本決まりになれば、それは民族の違いを超えてスペイン社会全体の重大な危機となりうる。
このウェルトの新教育政策案はカタルーニャだけではなく、伝統的に反マドリッド感情の強いバスクやアンダルシアでも大きな問題とされた。特にバスク州政府は即刻、中央政府に対してこのウェルト案の白紙撤回を激しく要求した。その他のPPが政権を握る自治州ではこの教育方針案自体は受け入れるとしたものの、修正の要求が相次いでいる。カタルーニャ語はカタルーニャだけではなく、バレンシアやバレアレスでも幅広く使われ、またバスク語はバスク州とナバラ州にまたがって使用される。さらにガリシアも民族言語が異なる。そのような州ではさすがのPPも州民の反発を恐れているのだ。
政権党内部でも執行部に対する不信と亀裂が広がっている。特に、最も影響を受ける当事者であるにもかかわらず事前に何一つ聞かされることもなかったカタルーニャPPのカマチョは、教育相と執行部の独断専行に対する不信感をあらわにした。さらに、教育・文化・スポーツ省内部の有力党員の間ですら、ウェルトに対する反発が巻き起こっている。この様子に慌てた教育省書記官モンセラット・ゴメンディオは「この措置は極端で憲法違反の場合にのみ発動されるものだ」と言い訳し、副首相ソラヤ・サエンス・デ・サンタマリアもウェルト案に対しての交渉を呼びかけて「書き改める」余地があるかのようなポーズを示した。ただし「言語に関する条項は除いて」と付け加えて法案の「大黒柱」を守ろうとしているが。
さすがのウェルトも「私はまるで闘牛場の牛のように攻撃される」と弱音を吐かざるを得なかった。そして「カステリアーノ(スペイン語)の教育を受ける権利を保証するために代替案を受け入れる用意がある」と、あたかも柔軟に対応できるかのように語って、自治州政府側を交渉に誘い込もうとしている。しかしカタルーニャの教育委員リガウは交渉の席を蹴った。教育相ウェルトは「カタルーニャ語は義務教育のままで州政府がその内容や時間などを決めることができる」と後出し発言で付け加えたが、彼の案ではスペイン語があくまで「中軸言語」であることに違いはない。
本来ならば2011年11月の選挙で絶対多数を確保したPPなのだから、有無を言わさずにこの法案を通してもよさそうだし、実際に経済関係の政策に対しては全てそのようにしてきた。一切の議論の余地を与えずに緊縮政策と増税を含むあらゆる事を決定してきたのである。しかしどうやら今回ばかりはそういうわけにはいかなかったようだ。
カタルーニャとスペインの教育事情
11月25日の選挙結果を受けて、PPC(カタルーニャ国民党)やC’s(市民連合)などが呼びかけた「独立反対」の集会とデモが12月5日にバルセロナで行われた。しかしこの企画を練った時点ではおそらくあのウェルトの教育政策はまだ発表されていなかったものと思われる。集まった人数は警察発表で7000人だった。もちろんあの9月11日の独立要求デモの足元にも及ばない規模だが、その2日前にあの教育相の発言さえなければきっともっと多かったのだろう。
カタルーニャ広場でスペイン国旗とカタルーニャ国旗の両方を持って「スペイン万歳!」、「自由を!」、「マスは辞任せよ!」と叫ぶ人々は、1978年の憲法の遵守をカタルーニャ州政府に要求した。翌日の12月6日がスペインの憲法記念日の祝日なのである。しかし「我々はカタルーニャがスペイン人の中で共に生きることを望んでいるのだ」と語る人々は、さすがにウェルトの政策については歯切れが悪い。
カタルーニャにはスペインの他地区出身者や中南米出身者が大勢住んでおり、彼らの多くが自分の子どもたちにカスティーリャ語(スペイン語)の教育を受けさせたいと望んでいることは間違いない。そのほうがカタルーニャ語を知らない親にとって学校からのお知らせや教育内容が分かりやすく、子どもにとっても学校の勉強についていきやすいので、今よりも楽になると思うのだろう。しかし「カタルーニャとスペインの共生」をその理由にするのなら単なる問題のすり替えであるように思える。現行のカタルーニャの学校制度でも十分にスペイン語の時間が確保されており、カタルーニャ語が第1母国語としてもスペイン語は第2母国語なのだ。テレビや映画、歌や本などの影響もあって、カタルーニャ人の子どもたちですら何の不自由もなくスペイン語を操ることができる。カタルーニャは今の状態でも十分にスペインと共生しているのである。仮に「独立」を果たしたとしてもそのカタルーニャの教育方針が変わるとは思えない。
逆にここでもしウェルトの言うとおりにスペイン語を「中軸言語」にしてカタルーニャ語を外国語以下の存在に追いやるなら、数世代の後にカタルーニャという民族地域は失われる。それは「共生」とは縁もゆかりも無い。フランコ独裁の徹底した民族言語追放政策は幸いにして1世代で終わったが、この人たちが本当に「共に生きる」ことを望んでいるとしても、残念ながらこの人たちの考え方は、結局はスペイン中を一色の「Hispanidad(偉大なるスペイン魂)」で塗りつぶす全体主義を復活させるのみだろう。中央政府は同時に宗教教育の復活もまた告げているのである。そして同じ12月5日に、スペイン陸軍のペドロ・ピタルク副将軍は自らのブログの中で、カタルーニャ情勢を巡って軍の中に不穏な動きがあることを警告した。
ところで、このウェルト法案の正式な名前は「教育の質の向上を目指す総合法案」である。しかし私がこの国を見てきた限り、「教育の質」を問題にするのなら、最も向上させなければならない科目は数学と理科であり、次に英語などスペイン人を世界で通用させるための外国語教育であると断定できる。数学と理科と英語のレベルでいうとスペインは世界の主要国中はおろか欧州の中でも惨めなほどに低い。したがって、このような法案を出す者とそれを支持する者たちは、この国の将来を支える人材について、何か重大な思い違いをしているのではないかと疑わざるを得ない。
もしその教育観がフランコ独裁時代のものを基本に置いているとしたら、これは「亡国教育」と言われても文句が言えないのではないか。確かにあの時代には日本と同様に冷戦の東西対決を上手に利用して「高度経済成長」を果たすことができた。しかしその内実は大きく異なる。その当時の日本では、英語はともかく、理数教育のレベルが非常に高かったため、経済成長の多くの部分が自前の人材と科学技術で支えられた。一方で冷戦中のフランコ時代では、米軍基地提供の見返りとして他の欧米諸国から簡単に融資を受け、超安価な労働力を売り物にして各種の外国企業を誘致できた。また激安の物価といまだ近代産業に荒らされていない豊富な自然環境のおかげで、外国からの融資を受ける大規模な観光開発がこの国の主要産業になった。そのため国家の政策担当者には、自前の産業基盤を作り、それに必要な自前の人材の分厚い層を準備するという、元手のかかる辛抱強い作業を考える必要がなかったし考える気もなかった。高レベルの教育は一握りのエリートの独占物だったのだ。
医学にしても、フランコ政権時代に資格を得た医者に劣悪なレベルの者が多いことは、ここでは常識である。有力者の息子がコネで簡単に資格を手に入れたうえに、卒業しても働ける病院が少なく優秀な学生が医学部に進まなかったのだ。今でも健康保険加入者には居住地区にしたがって自動的に自分の「主治医」を割り当てられ、フランコ時代に免許を取った「ベテラン主治医」の地位は定年まで安泰だ。彼らの多くが、年々進歩する医療技術に対して驚くほどに無知である。軽い風邪であろうが腹痛であろうが無条件に抗生物質と精神安定剤を含む大量の薬を処方し、癌の化学療法の最中で免疫性が下がっているにもかかわらず平気でインフルエンザのワクチンを勧める。製薬会社からの「副収入」もあるのだろう。さすがに近ごろでは聞かないが、少し前まで熱のある子どもを水風呂に放り込んで熱を下げようとするとんでもない医者が多かった。つい最近だが私の身近にこんな例もある。一人の中年男性が激しい腹痛を訴えているのに彼の「ベテラン主治医」は精密検査をせず、抗生物質を与えて様子を見ていたところ、実はそれが胃癌でありその人は手遅れで死亡してしまった。
独裁政権時代の「Hispanidad(偉大なるスペイン魂)」教育は、スペイン国民に守旧的で内向きで発展性の乏しい性格を決定的に植えつけたように思う。単に「今の生活を楽しむ南欧人の性格」だけの問題ではあるまい。たとえばスポーツにしても、ごく最近でこそ、スペイン人のサッカー選手が英国やドイツなどで大活躍し、欧州や世界の王者になっているが、かつてはワールドカップでスペインが優勝できないことが「七不思議のひとつ」と言われた。私にはその理由が分かる気がする。昔からスペイン人選手にも立派に世界レベルの技量を持つ人が多かったが、彼らは対外的にその実力を発揮できない「内弁慶」だったのだ。それを乗り越えたのはフランコ以後の新しい教育を受けた若い世代の選手たちであり、自前で優秀な人材を育てる発想を得たクラブ運営者と、前例にこだわらない指導者たちである。
「百年の計」どころか「50年前を懐かしむ」教育観をこの国の指導者が持っているのならば、カタルーニャやバスクの問題が無かったとしても、この国に将来はあるまい。かつては観光開発と企業誘致の見返りでばら撒かれる大金に群がり外国の隠し口座に溜め込むことがスペイン支配階層の「経済政策」だった。その基本的な形態はフランコ以後も変わらず生き残り、その延長上に20世紀末から10年間続いたあのバブル景気があったことは言うまでもない。そしてそのバブルがはじけたいま、本来ならば自前の人材の分厚い層を作るはずの公的教育が何よりも先に破壊され、せっかく高等教育を受けた若者たちにはそれ発揮する場が国内に存在しないのだ。この国はいずれ崩壊し解体される運命にあるのかもしれない。
教育方針を打ち出す立場の者は「国家百年の計」を踏み誤ってはなるまい。そして独裁時代の教育の欠陥は明白である。その意味でも、私は現在のマドリッド中央政府の教育に関するものの見方には、首をひねらざるを得ないのだ。(もっとも私は、「ゆとり」などと宣伝して教育を破壊したアジアの東の端にある没落中の国家に対しても首をひねるのだが。)
CiUとERCの呉越同舟
しかしいずれにせよ、時すでに遅し、としか言いようがない。教育相ウェルトの言語教育に関する新政策案が、マスとCiUをいやおうなしにERCとの共闘に押しやってしまったのだ。
この二つの政敵同士は20日間以上も消耗な協議を続けた果てに、12月18日に、「独立の可否を問う住民投票」を2014年に実施するという合意を結んだのである。この2014年案はERCのジュンケラス委員長が譲れぬ条件として主張し、住民投票への日程表をあいまいにしておきたいCiUを押し切ったものだ。この2014年という年には1714年のバルセロナ陥落・ブルボン王朝支配開始300周年という意味がある。しかしもっと重要な点として、この年に英国でスコットランド独立を巡る最終的な住民投票が予定されているのだ。おそらくその日程に合わせたのではないか。
この両党合意のニュースは、米国ニューヨーク・タイムズ紙や英国ガーディアン紙などの英語圏メディア、ルモンドやフィガロなどのフランス紙でも大きく報道された。特にガーディアン紙は「カタルーニャとスコットランドはEUにとって2つの頭痛の種だ」と述べる。また米国ワシントン・ポスト紙は負債に苦しむ欧州での分離主義の台頭に警戒する内容の記事を掲げた。
さらにこの二つの政党は、緊縮財政を少しでも緩和し公的負債を軽減させるために州独自の税制案を発表した。それには金融機関が保留している資金に対してかける税金が含まれる。これはこの種の税を作らないとする国有財産相モントロの方針と対立するものであり、中央政府はこの新税が「憲法違反の可能性がある」として憲法裁判所に告発する構えである。CiUとERCが決めた新税には他に、遺産相続、資産の譲渡、高額資産、原子力発電などにかける税金が含まれている。この新たな財源確保策は「独立カタルーニャを福祉国家にする」方針を持つERC(カタルーニャ左翼共和党)の発案であり、金持ち優遇の仕組みを守りたいCiUが無理やり飲まされたものだろう。
このような動きに、中央政府と与党のPP(国民党)はこの両党の共闘を警戒し、元首相のアスナールは双方を強く非難した。またウェルト自身もERCに対して「あなたたちがカタルーニャを代表しているのではない」と攻撃をかけた。しかしERCも「もしあなたたちがカタルーニャ語に手を出すなら、子孫を防衛する我が民族と敵対することになるだろう」とやり返した。
選挙の結果を受けた新しい州議会は12月20日に召集された。ここでは知事選出のために各党の候補者の演説が行われたのだが、演壇に立ったCiUのマスは、住民投票が行われる予定の2014年に向けて、この投票を合法化するための環境を整備すると共に、現在の自治体としての組織を国家組織へと作り変えていく方針を発表した。それには「中央銀行」創設につながる公営銀行の設立と独自の税制の整備、現在の州警察を改めて将来の警察制度の基盤を作ることが含まれる。同時に2013年度の予算案を作る前に、PSC(カタルーニャ社会労働党)やICV(環境左翼連合)も受け入れやすい福祉国家政策を前面に出した経済・社会会議を開催することが予定されている。
そして12月21日の議会でアルトゥール・マスがERCの応援を得て知事に再選され、クリスマス休暇をはさんだ27日にCiU党員で固められた州政府の組閣が発表された。こうしてとにもかくにもカタルーニャ州政府は「独立」を目指して一歩を踏み出すこととなったのである。しかしこの新州政府はCiUという「神輿」を担ぐERCといった奇妙な図式に描かれる。彼らは「独立」だけを共有する不倶戴天の敵同士であり、「カタルーニャ独立」は典型的な「呉越同舟」の様を示している。
2013年は、州経済の更なる悪化と緊縮財政・人員切捨て、州民の収入の悪化に物価・税金の値上がりがかぶさる、長くつらい時期にならざるを得ない。この間に狡猾な中央政府は見た目の「好条件」をちらつかせてCiUをおびき寄せようとするだろう。一方で社会主義者たちは独立の違憲性と不可能性を強調してERCへの攻撃を強めるに違いない。さらに、この既存国家からの分離独立という由々しき問題に、EUとユーロ圏がどのような態度に出るのか、こればかりは全く見当がつかない。おそらく否定的な見解を取り続ける可能性が高いと思われるが、カタルーニャ州政府の無鉄砲な独走と、スペイン中央政府のこれまた無鉄砲な挑発のために、もはや無難な収め方を見失ってしまった「カタルーニャ独立」は、本当にEUとユーロの運命を左右する最も危険な要素に発展しかねない。彼らとしてもいずれかの時点で何らかの手を打たざるを得なくなるだろう。
しかしここで「予言」などをする気はない。一外国人に過ぎない私にとって、もしカタルーニャがスペインから離れることになれば、居住許可証はどうなるのだろうか、移動はどうなるのだろうか、社会保障費をスペイン国家に支払い続けているのだが年金は支給されるのだろうか、などの不安も多い。しょせんはこの筋書きの無い現代史の大波の中に浮かんで、もまれ漂うしかない身なのだが、それでも私はその様子を見つめ続け、できる限りの記録を残してしておきたいと願うのみである。
(2013年1月4日、 バルセロナにて 童子丸開)
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