シロタ・ゴードン女史の死に思う ──平和憲法に盛り込まれた「国民主権」の意義──
- 2013年 1月 7日
- 時代をみる
- 池田龍夫
第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍総司令部)民政局員として日本国憲法の男女平等などの条項を起草した米国人女性、ベアテ・シロタ・ゴードンさん(89歳)が昨年12月30日、ニューヨーク市内の自宅で死去。生前、「日本の憲法は米国の憲法より素晴らしい。決して『押しつけ』ではない」と主張し、9条(戦争放棄)を含む改憲に反対していた。
平和条項と女性の権利を守ってほしい
朝日新聞1月3日付朝刊によると、「長女のニコルさんに取材したところ、対外的に残した最後の言葉は『日本国憲法の平和条項と女性の権利を守ってほしい』という趣旨だったという。安倍晋三政権誕生によって改憲の動きが高まってきた折だけに、いっそう感慨深い。
再来日し、GHQの憲法改正委で活躍
ゴードンさんはピアニストの父が東京芸術大学に招かれたのに伴い、一家で来日。5~15歳まで東京で暮らした。米国の大学に進学後に太平洋戦争が勃発。ニューヨークで米タイム誌に勤務していたころ、日本に残った両親の無事を知ってGHQの民間人要員に応募、45年に再来日した。25人の民政局員の中では最年少の22歳で、憲法起草委員会では人権部門を担当。10年間の日本生活で、貧しい家の少女の身売りなどを見知っていたことから、女性の地位向上を提案。第14条(法の下の平等)や第24条(両性の平等)に反映されたという。
敗戦から約半年の1946年(昭和26年)2月1日、松本蒸治国務相らが密かに進めてきた「憲法改正草案」を毎日新聞がスクープ。GHQのマッカーサー元帥、幣原喜重郎内閣が大騒ぎとなった。松本案が天皇条項など明治憲法を多少修正した内容だったことにGHQ側は驚愕し、独自の委員会を設けて新憲法案の策定作業を急いだ。日米両国が競い合うようように、昼夜兼行で作業を進めた。その間、日米間の話し合いも頻繁に行なって、壮絶な応酬が展開された。
昭和天皇が3度目の「聖断」
天皇条項を厳守したい日本政府、国民主権・戦争放棄にこだわるGHQ――。幣原首相は調整に苦悩した。児島襄の「史録日本国憲法」に時系列で論議の模様が活写されており、主要点の一部を引用しておきたい。
米側は天皇条項について、「皇位は日本国の象徴であって、天皇は皇位の象徴的体現者である。天皇の地位は、主権を有する国民の総意に基づくものであって、それ以外の何ものに基づくものではない」との文言で迫ってきた。3月5日、天皇に奏上した松本国務相の心中を察し、児島氏は「「いま聖断を仰ぐわけだが、その聖断はご自身のもの。天皇は『仕方がなければ、それよりほかないだろう』との天皇の言葉が聞こえた。三度目の聖断がくだったのである」と記している。
米国の「押し付け」ではない
GHQ案を主体にした憲法草案とは言えるが、日本側の修正もかなり加味されており、通訳に当たったゴードンさんが言ったように、「押し付け」ではなかった。安倍首相や石原慎太郎氏らが「押し付け憲法」と威丈高に叫び、「明治憲法」への回帰を臭わす言動は、時代錯誤も甚だしい。
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