4/4定例研究会「日本国家の治安管理① 統治のテクノロジーとしての禁酒運動」
- 2013年 3月 23日
- 催し物案内
- ルネサンス研究所
ルネサンス研究所定例研究会 【21世紀を読み解く―例外状態・生政治・近代化―】
第1回「日本国家の治安管理① 統治のテクノロジーとしての禁酒運動」
●報告者:山家歩(法政大学他非常勤講師)
●日時 :4月4日(木) 18:30~21:00
●会場 : 専修大学7号館6F 764教室
●資料代: 500円
■ 表題:[飲んだくれたち:生権力・自己統治・依存]
:飲酒による酩酊という「限界体験」の検討を通じて近代における権力や自己、真理の関係を探究したい。アルコール依存問題に関する報告者の関心は、(1)依存概念の拡散と今日の生権力(2)文明開化と禁酒運動(3)労働者の規律化および人口管理とフォーディズム(4)1930年代の日本における禁酒的愛国運動と総力戦への途、といったことにあるが今回は特に(1)を中心に報告を行う。1990年以降依存概念は、共依存、買い物依存、ギャンブル依存、等々向精神物質に限られない対象かかわるものとなり、拡散を見せている。このような今日に至る依存概念の拡散がどういった統治のシフト、規律や生政治的介入のありようの変容、と結びついてきたのかを検討したい。
『諷刺画で読む十八世紀イギリス』 ホガースとその時代 (朝日選書)
それまで貴族のものとされていた絵画が、中産階級の手にもわたるようになった18世紀イギリス。のちに「イギリス絵画の父」と呼ばれるウィリアム・ホガース(1697-1764)は、当時の貴族階級や政治家を諷刺し、中産階級の道徳観を訴える絵画や版画を数多く制作した。その作品には、憧れを抱いて大都会に出てきたものの娼婦に身を落とした末に命まで落とす哀れな女の姿(《娼婦一代記》)や、殺人を犯した粗暴な男が公開処刑され内臓をひきずり出されるという無残な末路を迎える生涯(《残酷の四段階》)のほか、中世以来のイギリスで残酷な見世物や賭博行為として人気のあった「闘鶏」の様子が描かれている。 闘鶏と並び人気のあったものに「熊いじめ」があるが、本書によると「熊を鎖につなぎ、鎖の一方の端を丈夫な杭に結びつけて熊の動きを制限した後、これに次々とどう猛な犬をけしかけて、残酷な闘いを楽しむもの」である。この際、どの犬がもっとも勇敢に戦うかで、賭博が成立していたという。このとき使われる犬種はマスティフやブルテリアが一般的だったが、「どう猛な犬を次々にけしかけるとはいえ熊の凶暴さは並大抵のものではない。そこで主催する側は、あらかじめ熊の目をつぶしておき、戦闘能力を削いでおくという残酷な処置をすることもあった」というから、何とも残酷きわまる遊びだったことがわかる。 さらにホガースの絵として有名な《ジン横町》には、ジン中毒に犯された人間たちの地獄絵図が展開している。場面のモデルはロンドンのスラム街として悪名高かったセント・ジャイルズ教区で、現在では人気スポットであるウェスト・エンドにあり、オクスフォード・ストリートやトットナム・コート・ロードなどの繁華街近くにある場所というから驚きだ。このようにホガースの作品からは、現在では想像もつかない18世紀イギリスの社会風俗が鮮やかによみがえってくるのである。図版多数。
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【5月以降の予定】
■「イデオロギー装置と身体」 5月2日:於・専修大学7号館6F 764教室 18:30~21:00
報告者: 伊吹浩一(専修大学他非常勤講師)
:アルチュセールが引いたパスカルの例――神を信じたくとも、信じられないと嘆く者にはこう告げればよい、教会に行き、ひざまつき、祈りの言葉を口ずさめ、さすれば神を信じられるようになるだろう。われわれはそのイデオロギーを信奉していなくても、各種のイデオロギー装置(学校、家族、職場、寺院、等々)のなかでそのイデオロギーに即した身体的運動を反復させられることによって、そのイデオロギーを担う主体となる。権力が狙いを定めているのは、われわれの身体なのだ。なぜそうしたことが起こるのか? これをJ・ラカンの精神分析を使いながら解明していきたい。
■「国家権力にとっての宗教性」 6月6日(木) 18:30~21:00 (場所・未定)
報告者: 菅孝行(ルネサンス研究所運営委員) ゲスト/島薗進(東京大学・宗教学)
:国民国家の権力を権力たらしめるのは幻想の共同性である。幻想の共同性を担保する伝統という虚構は、近代に構築されたものであり、伝統を国民的な自覚たらしめるには、その国家に固有の宗教の政治性が深く関っている。それは、権力が特定の政治宗教を国民に強制しているか否かとは別問題だ。近代日本の権力を対象化するには、天皇を不可侵の神とした明治国家だけでなく、戦後の象徴天皇制国家においても、日本固有の宗教の政治性の解明を避けて通ることはできない。今日でも、祭祀(儀式)と国旗など様々な偶像への畏敬の所作と儀式での君が代などの、歌唱によって、宗教的馴致は続いている。このような視点から現代日本国家における国家神道の解明を試みる。参考文献:島薗進「国家神道と日本人」
■ 「明治維新と非西洋世界 」 7月4日(木)18:30~21:0 (場所未定)
報告者:友常勉 (東京外国語大学教員) ゲスト/趙景達(千葉大学教員)
:この講座では、非西洋世界の近代化・資本主義化とそのリアクションの再検討を主題とする。初発の問題意識は服部之総・野呂栄太郎らを先駆とする明治維新・日本資本主義研究である。そこでは近代国民国家の形成史および植民地主義史のとらえ直しが中心になる。近代国家形成と植民地主義の検討は、同時にそれにかかわる国家・地域社会の〈革命〉の条件を考える事でもある。最初の手がかりとしてとりあげるのは趙景達『近代朝鮮と日本』(岩波新書)。前近代朝鮮・前近代日本をも考察の対象に入れ、(反西洋の思想運動としての)儒教的普遍主義と近代的政治文化の相克が検討されることになるだろう。なおこの主題は連続企画として継続したいと考えている。引き続き、明治維新という経験を軸に、汎アジア主義、汎イスラム主義との比較検討にも取り組んでいきたい。
■「60―70年代イタリアのオペライズモ(と戦後日本の左翼運動)」 9月5日(木) (予定)
報告者:中村勝己(中央大学法学部兼任講師)
:昨年末、ハート=ネグリの『コモンウエルス』の邦訳がついに刊行された(NHK出版)。そこには世界システムとしての〈帝国〉、生政治(生権力)、例外状態、構成する権力(憲法制定権力)、マルチチュード革命など、現代思想の論点が多数盛り込まれている。ネグリがこうした世界規模で参照される思想家に変貌した背景には、フランス現代思想(とりわけフーコーおよびドゥルーズ=ガタリ)との知的・政治的対話を推し進めたことと並んで、スターリン批判以降イタリアで登場した思想潮流オペライズモを自らのバックボーンにしていたことが挙げられる。これまであまり日本に紹介されてこなかったオペライズモの思想と運動の歴史について報告する。
■ 「植民地主義は、なぜ、生き永らえてきたか」 10月3日(木)(予定)
報告者:太田昌国(現代企画室/民族問題研究)
:三陸沖大震災→福島原発事故→安倍政権の復活――この社会で、わずか2年の間に起こったいくつかの出来事を並べてみると、避けがたくこみ上げてくる思いがある。この国では、「実際にあったこと」を「なかったこと」にして、やり過ごしていく態度が、一木一草にまで浸み込んでいるのか、という懐疑である。それがどこに表われているかについては、諸論あり得よう。ここでは、アジアで唯一、植民地主義を実践した国としての日本が孕む問題を考える。安部晋三の再登場や草の根における排外主義の公然たる台頭は、この社会の深部で生き永らえてきた植民地主義――という問題を浮かび上がらせているからである。
*問合せ先・松田健二 090-4592-2845
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