無節操
- 2013年 4月 17日
- 評論・紹介・意見
- 企業藤澤 豊責任
リーマンショックまで無節操な信用の拡大を梃子に米国の金融機関はボロ儲けしてきた。その中には製造業も金融業も持ったコングロマリットの形態をしたところもある。もともとは製造業の企業だったのが金になるのであればなんでもいいとでもいった明確な?戦略の基に多角化してきたおかげで、何が本業なのか分からなくなってしまったコングロマリットすらある。リーマンショックのちょっと前まではコングロマリット全体の利益の過半を金融関係の事業体があげてきたので、立派な金融業の企業なのだが、リーマンショック後、米国政府の金融業に対する規制を逃れるために、白々しくも、うちは金融業ではなく実業の、製造業の企業ですと主張して、米国の保守陣営の顰蹙すら買うとともに冷笑の的になった。
ついこの間まで、製造業の時代じゃない、国際金融の時代だ、これが金になると。。。巷のコンサル筋に成功の秘訣のような教材まで提供してきたCEOと、その後をついだCEO、その取り巻き経営陣。その人達が、ついこの間まで、あまりの自信に宗教がかった感すらある社会認識と経営方針、経営としての実践があった。これが、ある日突然、今までとは全く反対のことを、これも、またなんの不安というか躊躇とで言うべき類、一切なしで、強烈に主張しだした。
あの会社の言い方で言えば、リーダーになるのか、そのリーダーが、ある日突然全く反対のことを言い出す。良識の欠片でも持っている人には、なかなかできない芸当だし、多少の理性や羞恥心があれば、とてもできない。想像しかできないのだが、軍国教育に心酔し、その教育に専念していた初等教育の教師連中、戦後社会はこうじゃなきゃと一般的に認識されてきたとき、どのような顔をして街を歩いたのだろう。もし、心酔していたのなら自害する以外の選択肢はなかったろうが、そこまでの気骨のある人の話、寡聞にして聞いた記憶がない。どう格好をつけたところで、どうせ自分自身の中身の無い人達だから、今まで右向いていたのが、今度は簡単に左を向いて無節操の見本よろしく、己の卑近な利益だけを求めて戦後も活躍されたのだろう。
多少まともな社会認識を持った人の目には、戦後の価値観の転倒と同じようなことが、そのコングロマリットで起きた。リーマンショックが彼ら-リーダーの、世間一般では尊敬され、社内では畏敬の念をもって見られ、見られた、見られなければならない立場に人達の化けの皮を剥いでしまった。人間性の問題になるのだろうが、ついこの間までは、社会経済状況がxxxだったので、yyyの政策をとってきた。ところがリーマンショック以降はzzzの状況なので、心ならずも、yyyではなくaaaの政策を選択しなければならなくなった。。。などという説明や自省の念。。。、そこまで尊敬される人達なら、このくらいの話はあるだろう、あってしかるべきだろう。
出てきたキャッチフレーズ?が全てを語っている。“Government”と“Green is green.”には呆れた。
ついこの此の間まで、“私企業にやらせておけば、うまく行く“と主張して、行政は余計なことをするなと散々主張し、何かをしようとすれば、政治家も団体も政治的に抹殺しようとしてきたんじゃないのか?“その主張も考えも、その主張を学術的?に装飾してきた御用学者も含めて一体なんだったのか?”自社も含めて民間金融機関が目先の利益に目が眩んで後ろ楯の怪しい債権を作って売って、儲けてきた。これが崩壊して、当たり前だが、民間企業では整理も立て直しもできないから政府=Governmentに何とかしろと?民間企業の投資は期待できないから、行政の投資を狙って営業展開しろ。。。Government、Government、Governmentの連呼。とても恥ずかしくてできないし、その集団にいて一緒にされるのは迷惑だ。ちょうどいい機会だから傭兵としては下船させて頂いた。
“Green is green.“は呆れるを通り越して、知能というか知識というか、オツムの欠陥に憐憫の情さえ生まれる。英語が母国語の人達、例えば、オーストラリアの人達でですら、この文章を聞いてさっと意味が分かる人、いないわけじゃないだろうが、少数だろう。このキャッチはいただけない。世界で有数の事業規模を誇りグローバルなコングロマリットととして、世界を市場としているはずの企業の経営陣が実はアメリカの田舎者で、世界の人達のことは知らない、もっとはっきり言えば意識にないことを暴露してしまった。
最初のGreenは環境問題を意味している。地球温暖化は一部の社会主義にかぶれた科学者が騒いでいるだけだ。地球は温暖化していないと、完璧におかしい御用学者まで用意して、環境問題そのものが話題にならないように、そこに、彼らの考えではムダな金を使わないで済むよう、自分達の利益が減らないようにと、全ての機会を利用して主張してきた。今まで顧客としてきた市場はリーマンショック以降冷えきったままなので、何かないかと、で思いついたのが、今まで無視してきたというより圧殺してきた環境問題。
無視というより、損しないようにと隠蔽してきた環境問題を今度は金にしようということで、後にでてくるgreenは米国紙幣のgreen。紙幣のインクがちょっと褪せた感じの緑っぽい色から、そう呼ばれる。俗語でGreen buckと言えば、USドル紙幣を意味する。ちなみにbuckは鹿革などで開拓時代に皮が通貨の代わりに使われていたことから。
企業経営の目的は儲けが、利益が全てで、それ以外は何もない。主義主張も社会云々も利益の前には右でも左でも、上でも下でもなんでいい。一言で言えば、“何?理念?それが利益を増やすならいいけど、じゃなきゃ関係ない。”ということになる。
まさか、これが求めてきた社会のありようの根っこのところじゃないよな、と思いつつ、極論すれば似たようなことを主張している政治家や財界人が跳梁跋扈。そして、それを、まるで新しい希望が現れたかのように支持する人達。自分として、社会として、こうあるべき、こうあらざるを得ないという骨格がないから、たとえ、したところで表面的な学習に留まる。そして、また似たような間違いを繰り返す。次は何時だと、楽しみにしたくはないが、明るくない期待のようなものがある。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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