欺瞞的式典の背後にあるのは憲法改定の目論みである
- 2013年 4月 30日
- 交流の広場
- 9条改憲阻止の会
2013年4月30日 連帯・共同ニュース第308号
■ 「憲法9条永遠なるものと思いしに美しい国など言ひて揺さぶる」(歌集『紫陽花』・堀川和子)。こういう揺さぶりも効を通さず敗退したのが前回の安倍首相の企みだった。今回は戦略を変えて憲法の第96条(改正の手続き)に的を絞ってきた。参院選挙はこれが争点になると思える。端的に言えばこの企みは外堀を埋める作戦であり、その狙いが憲法9条であることは明瞭である。4月28日の政府が主催した「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」は奇妙であった。誰が見ても日本の主権回復が形式に過ぎず、占領終了後も実際はアメリカの対日支配が続いていることは誰もが知る常識だからである。沖縄が「屈辱の日」と感じるのはこれをよく示している。何故、安倍はこんな欺瞞的な式典を強行したのだろうか。それは占領期のアメリカ支配の象徴として日本国憲法を強調しその改定への決意をみせるためだ。彼には「日本の独立後、速やかに日本国憲法を改正し、国防軍の創出をはかるべきであった」という自民党の重鎮の見解に同調し、それをあらためて国民的に確認したい、という欲求がある。これは確かに戦後の右翼や保守が主張をしてきたことであった。今、その好機が訪れているという判断があるのかもしれない。だが、ここには欺瞞がある。国民はアメリカからの自立と対等な関係を望んでいる。アメリカの対日関係を改善し変えたと思っている。しかし、このことは日本の戦後憲法を改定し、日本の国家体制や権力形態を戦前の回帰させることではない。確かに、日本国民はアメリカの対日支配とそれと結び付いた日本の官僚支配を変えたと願っている。それは安倍のように日本国民のナショナリズムを利用して戦前―戦中の体制に向かって戦後体制を変えることではない。願っているのは自立した日本と対アメリカ関係の対等化であり、そのためには国家権力をより自由で民主的で開かれたものにすることである。戦後憲法が真の国民主権に支えられていないことを満たしていくことであり、憲法の魂《憲法精神》を憲法に吹きこんでいくことであり、憲法を戦前に戻すことではない。石原慎太郎の戦後憲法破棄論《無効論》は典型な戦前回帰だがこんな主張ではない。安倍の式典の欺瞞性はナショナリズムを強調し、それを利用して憲法改定の道に具することだが、石原の主張と同じなのだ。安倍の欺瞞はいくらか手が込んでいるがこんなものに騙されない。
■ 僕らは目下のところ脱原発運動、なかんずく経産省前テントひろばの攻防が山場というべき状況を迎え、それに多くの力を注いでいる。憲法については忘れたわけではないが、そのための運動に多くの時間を割けない。それが現状である。けれども、脱原発の運動とともに憲法改定に抗する運動に機会あれば参加し、その戦線の一助となること願っている。再稼働の動きと憲法改定の動きを睨みその運動のために力を尽くしたい。今こそ自立的な行動を! (文責 三上治)
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