ある感想から(一)~(十)
- 2010年 9月 24日
- 評論・紹介・意見
- 三上治
ある感想(十) 10月2日
これは以前にも書いたことがあるのですが、1970年代に至る過程の中で最も深く印象に残っている言葉は「敗北の構造」というものでした。吉本隆明の言葉ですが、僕らが何と闘っているのかということが分からなくて苦悶しているときに示唆を与えてくれるものでした。日本の反権力闘争が最後の局面になると運動は分裂状態になり、その推進主体は「何と闘っているのか分からい」という心的状態に陥ることに光を当ててくれるようなものでした。この繰り返し現れる構造を対象的に把握しようと苦闘しているときに現れたのが<沖縄問題>であって、敗北の構造を超えるものとしての沖縄=南島というイメージがそこにありました。沖縄は地域的(空間的)イメージでしたが、これは同時に時間的イメージになるものでした。時間的イメージとは三~五世紀に確立した初期王権(ヤマト)を超える時間の保存であり、その共同意識でした。これは国家に対する地域住民(民衆)の自立性の時間的存在というイメージでした。沖縄の地域的(空間的)な意識であっても、ヤマトと呼ばれる地域住民の意識(時間的意識)になるものです。ヤマトと呼ばれる地域の住民が持つ時間意識(歴史意識)を相対化することになり、ヤマトの袋的国家意識を破る契機になります。
日本で国家との反権力闘争が意識的に存在してきたのは―封建時代の一揆なども在るのですが―主としては近代になってからですが、それは必然のように
敗北しました。それは近代(現代)を未来的に超えて行くという意識しか持てなかったためであるように思います。近代(現代)の矛盾を超えて行くためには未来のイメージは不可避です。例えば、国民の政治意思が国家に対する自立として現れること、それは直接民主主義のような意識の登場ですが、これは未来的なイメージとして出てきます。これを構成的権力の登場といえます。だから沖縄の地域住民の自己決定権の確立という場合も未来からのイメージということがあります。しかしながら、近代の矛盾を超えていくには未来からの像(理想像)からだけでは不可能です。何故なら、近代にいたる国家は起源からの展開の結果としてあるのですが、僕らの国家の意識は向こう(歴史)の方から刷り込まれるように生成されるところがあるからです。これは向こう(起源と生成)に出掛けていくことなしに対象化も超えることも不可能なところがあるのです。近代国家にいたる起源からの展開は起源以前の方に向かう意思なしには超えられません。ヤマトの起源(初期王朝)から現在までを対象化し、それを超えるイメージにはそこを超えた時間的存在が必要です。琉球弧の自己決定権は日本的国家を超える時間(過去と未来)を含んでいて、国家に対する国民の自立の拠点のようなイメージとなります。これは僕の幻想にほかなりませんが。(完)
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〔opinion157:101004〕
ある感想(九) 9月23日
沖縄のことを地域のことであれ、そこに住む人々の生活や文化のことであれ、あるいは歴史のことであれどれだけ知っているでしようか。僕らは特異な文化や民俗を有する辺境であり、それが魅力に富むものだと思っているだけかもしれません。こういう意識は自分が生活している地域か、かつて幼少のころ在った故郷と呼ばれる地域以外について抱くものとさして変わらないとも言えるのでしよう。ですが、また僕が沖縄ということが他の地域とは違う感情や意識を持っていることは確かです。これは1960年代の後半から1970年代のはじめに沖縄闘争(問題)に関わった経験が強くあるためだと思います。正直に申せば、僕には沖縄は<南島>という強烈なイメージだけ残して行ったけれども、問題はよくわからないで過ぎて行ったというべきかも知れません。それだけに、逆に多くの思想的手掛かりを残しているとも言えます。
『沖縄と国家統合』(佐藤優×魚住昭責任編集)を読みますと「沖縄のこころ」という言葉が頻繁に出てきます。これについては僕らがかつて<沖縄闘争>なるものに関わったが故に沖縄のことはそれなりに知っていると思ってきたのですが、これはあまりあてにはならないと思い知る契機になりました。あまり簡単に沖縄という言葉は使わない方がいいのかという反省を強いています。僕の中に強烈なイメージとしてある南島論と現在の沖縄はどんな交差をするのか、交差をしないのかという問いかけをしながら少し前の方に行ってみます。最近は「琉球弧の自己決定権」という言葉を目にします。これは琉球と呼ばれる地域住民の自立(自由)のことですから、素直に受け取れます。僕は1960年の安保闘争時の学生たちの急進的行動を自立(直接民主主義)の登場というようにイメージしてきました。これは日本におけるネーションの登場の端緒であったと思いました。これは歴史の中では登場したことのないものであり、ナショナリズムは登場したにしてもナショナルなものは登場しなかったということになったことです。ネーション=ナショナルなものというのは直接民主主義であり、それはまた自立(自己決定権の行使)でいいのです。それを阻んできたものは三~五世紀に確立させた初期王権から続いてきた日本の国家構造(天皇制的なものの支配)であったように思います。僕は自立ということを思想的キ-ワードとしてきたのですが、1960年代のラジカリズムに続いて今、沖縄の地域住民の意識や感情の中に出てきているのだと想像しています。日本におけるネーションあるいはナショナルなものと言ってもいいのですが、これは僕の勝手な像化です。これは明治の自由民権運動の折に福沢諭吉や中江兆民が西郷隆盛にみた像であったわけです。こうして僕の想像力に沖縄は刺激を与えてくれます。
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〔opinion145:100924 〕
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ある感想(八) 9月19日
検察やメディアが日本を支配する力であるとして析出していくとき、僕らがある党派的視点から自由になっていれば割と正確にできると思っています。僕がこの本を書評風に紹介したいと思ったのはこれが出来ていると思ったからですが、僕らが国家や政治、あるいは権力の動向分析をやろうとするとき、これが重要であると思えるのです。党派的視点というのは例えばブルジョワ政治、ブルジョワ政党、何でもいいが無意識も含めてこういう観念を内在した思考法のことです。これはそうした観念が対象の正確の認識や分析を邪魔してしまうように思えます。
僕はこの党派的視点を<階級的視点>といいますが、正確にはマルクス主義の視点というよりはある時代の知識人を強烈に捉えた観念(宗教のようなもの)と考えています。僕らはその影響力が強烈に残っていた最後の世代であると思います。これが知識人を捉えたのは天皇制という観念に対抗できる観念が他になかったからだと思います。天皇制に対抗できる観念(精神的存在)は戦前においてマルクス主義しかなかったからです。このことは太宰治が福本イズムの信奉者になって行ったいきさつを見ればよくわかります。共同観念(宗教)としての天皇に対抗できる観念はマルクス主義しかなかったのです。これはマルクス主義が観念であり、それ故の矛盾をもつものであったことを示します。今は天皇制的なものも、マルクス主義的なものも衰退しています。これはこの双方が観念としての力を衰退させることであり、マルクス主義の影響下に会った人たちには魂の枯渇状態のような現象をもたらしているのだと推察できます。
これは天皇制的なものの影響下にあったものもそうだと思います。僕もマルクス主義の影響を受けていましたから精神の枯渇感はよく分かるつもりです。
この衰えは共同観念に空白をもたらすことであり、三島由紀夫は天皇の側からこのことを見ていました。僕は良くも悪くも天皇制的なものも、マルクス主義的なものもその観念力を衰えさせいくであろうし、それが自然でありその回復はないと見ています。そうなると機能的なもの、システム的なものが力を占めると考えられます。官僚やメディアは「政治とカネ」(クリーンな政治)、中国脅威論など共同の観念(幻想)になるものを出してくるだろうがそれが大きな力として永続して行くとは思えません。文学とは違って政治的なものの夢はどこに存在するのでしようか。その手掛かりは何処にあるのでしようか。僕はマルクスの徒であると思っていますからマルクスに夢の手掛かりを考えています。それは自立であり、構成的権力の登場です。直接民主主義的なもの存在に他なりません。僕が沖縄に抱いている夢はそれに通ずるように思っています。
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〔opinion139:100919〕
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ある感想(七) 9月14日
三冊の『誰が日本を支配するのか!?』(マガジンハウス)を読みながら書評でも思ったのですが、僕自身の見解の披歴になってしまっています。これは逸脱なのですが、これをもう少し続けたいと思います。この本の中心にあるのは佐藤優が日本の支配の軸として官僚ということを明瞭にしたことであります。官僚ということに僕が触発を受けたのは故石井紘基がロシアから帰って日本の官僚問題に取り組む、これは革命の問題だと宣言したことでした。僕は別の経路で官僚制の問題に接近はしていたのですが、石井のロシア体験からくるこの問題の提起は示唆されるところがあったし、彼は日本の官僚制度にメスを入れ初めていました。彼の仕事は僕には大変な刺激になってもいましたが凶弾で中断されたのは残念でした。
明治維新の推進力をなした西雄諸藩は藩閥政府(明治新政府)を作るのですが、これが体制として固まるのは大日本帝国憲法制定(明治22年)と議会開設(明治23年)ころです。憲法制定の中心にあったのは伊藤博文ですが彼はドイツ憲法を模倣し、天皇を理念上の基軸に据えました。この二つは何を意味したのでしょうか。天皇を宗教的(精神的)基軸に据えたことは国体論の基礎になったのですが、この天皇主権論は国民主権という思想を排除しました。天皇主権論はその統治の機関(輔弼あるいは機構)である官僚の主権論になったのです。官僚は天皇統治の機関であり、肉体ですが彼らが天皇統治の代行者であったことは憲法も彼らの統治の道具でありました。憲法制定権力の主体としてネーション=人民統治が排除されたのだからです。こうした枠組みは憲法の精神なき、憲法制度の移入でもあったのです。その上で伊藤はドイツ憲法を模倣することでイギリス流やフランス流の議院内閣制ではなく、議会に責任を持たない超然内閣制を導入します。これは日本近代において官僚制を強固にする基盤をなしたのです。この日本近代の特殊な権力様式を起源と展開として掴むには官僚ということを考えなければなりません。言うまでもなく、社会の資本制的成熟は政党と議会の力を拡大しましたし、さらに市民や労働者の登場ということも促しました。特に第一次世界大戦後の大正デモクラシーはその段階を象徴しましたし、戦後は戦後で段階的変化を経ています。日本の官僚機構と言っても明治の起源的な構成から見れば、段階的変化を経ているのですが、これらを歴史的展開として見る時に日本の国家権力の構造と態様はより明瞭になると思います。資本家階級の国家権力への登場やその支配力を無視しているわけではありません。官僚との対立や共同利害の形成ということは政党との関係も含めて考察さるべきでしよう。次回は「沖縄と国家統合」の方に行きます。
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〔opinion133:100915〕
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ある感想(六) 9月11日
鈴木宗男の裁判のことを問題に取り上げていたら今度は郵便不正事件のことが報じられています。こちらは既に無罪が予測されていたそれほど検察の捜査がひどい事件だったわけですが、この事件が石井一を対象とした民主党攻撃であり、小沢一郎の西松建設事件とセットであったことを忘れてはならないと思います。事件が冤罪という性格を持つこと、政治的意図を持つことを同時にみておかなければなりません。国策捜査と呼ばれるものに手を染め、検察が青年将校化するというのはこの後者と関連するのです。この政治的意図は背後に当時の麻生内閣の民主党攻撃から、検察官の正義感(金権政治退治)まで含むものであり、これにマスメディアの合唱が加わります。冤罪であれば検察の権威や信頼にかかわるから大変であろうが、彼らは政治的意図(ストーリ)を持って事件を構成できるところがありこれが問題なのです。この検察の行為は、例えば新左翼系の活動家を私文書偽造や住所の記載違いで逮捕し、拘留したりするのと同一基盤にあります。政治的ビラの戸別配布で逮捕するのも同じです。
警察や検察が政治的意図で持って事件を構成できるという事は、彼らが恣意的に振舞えることを意味します。検察や警察が恣意的に事件を作れる(構成できる)ことは専制的ということであり、この専制的な権力の形態を変えることは歴史的課題であり、国民的課題です。憲法は権力の専制的性格を変えるものとして現れました。権力者に対する国民の命令が憲法であり、憲法は縛るというのはこうした意味です。日本国家は憲法に沿って運営されており、警察も検察もそれに規定された存在です。「自由で民主的な法治国家」というのが日本国家の存在様式です。そうであれば警察や検察が政治的意図(ストーリ)を持って事件を構成できることは出来ないはずです。刑法は構成要件に該当できる事件のみ訴追できますが、それの拡大適用は法的精神[憲法の精神]が戒めています。検察の権力行為を制限し、枠づけているのが憲法の精神であり、政治的意図を持った事件構成を禁じています。でも、現実は政治的意図を持った事件の構成は出てきます。なぜこういう矛盾が存在できるのかに問題意識が行きます。この秘密は日本では憲法が官僚(藩閥政府)のために制定されたところにあります。自由や民権を議論していた自由民権運動を新聞紙条例や讒謗律などの法律で取り締まり抑圧したのが藩閥政府です。つまり、憲法に該当する上位の概念を追求していた運動を下位概念である法律で取り締まっていたのです。藩閥政府(官僚)のために憲法を制定したのは伊藤博文ですが憲法は法と同様に権力者の統治道具であって権力を制限し命令するものではありませんでした。法や憲法は権力の統治の手段だったのです。この起源の影響は強いのです。
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〔opinion130:100911〕
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ある感想(五) 9月9日
この本の書評めいたものを書くつもりではじめたのですが、逸脱してしまいます。「誰が日本を支配しているのか」という問題意識は離れていないというところで勘弁を願ってもう少し自分の思っているところを展開してみます。今日の新聞には「青年将校化した検察官」という鈴木宗男の言葉が一面に出ています。これは最高裁での上告を棄却された記者会見での発言ですが、これは唐突に聞こえるかも知れません。青年将校とは昭和維新を掲げて5・15事件や2・26事件を起こした青年であり、これを現在の特捜部の検事を結びつけるには想像力がいるからです。日本の近代の権力(政治権力)の歴史的性格をイメージしえれば納得の行くところがあります。日本の近代の歴史は明治維新にはじまりますが、ここでは官僚が大きな力をもってきました。これは明治維新が市民革命ではなく、下級武士というべき武家官僚による藩―国家の再編としてあったことが大きく影響しています。(政治的共同体―藩)を母体にし、その存続が自己目的であった下級武士団がその形態を国家に変え、自らを近代(国家)官僚に変身して行ったのが明治維新以降の歩みです。
大正から昭和の時代は官僚主導の近代国家内部の主導権の争いが激化しました。天皇の官僚は世代交代の時期にありましたし、官僚によって育成された日本の社会と政党が基盤を獲得したからでした。日本の近代国家の枠組みは天皇制的なものの支配力が強かったのですが、それでも議会を舞台にする官僚と政党の角逐も強くなり、社会の階級的矛盾から出てくる動きも大きくなります。近代国家内部での再編成をめざしたのが昭和維新ですが、これは官僚の再編成でもありました。これは世界史的な危機の中で、古い官僚体制の革新(天皇の君側の奸の排除)、議会(政党)に対する主導権の掌握、社会の革命的運動への
対抗等が意図されていました。この青年将校たち運動は挫折しますが革新官僚と手を組んだ軍官僚のもとに戦争体制が構築されました。そしてこの戦争体制の構築の中で形成されたものは形を変えて戦後の日本の推力となります。高度成長にいたる時期までの日本国家のヘゲモニーをなしたのです。戦後の日本の官僚は天皇と組んだアメリカを有力な基盤としてきました。これは隠れた力でもあるし、コントロールを隠し背後でというアメリカの方法もあって見えにくいのですが、これが力でもあったのです。官僚は国家から生まれ、国家を自己目的にしなければ存続しえないものですが、彼らの基盤強化のために検察の果たしてきた役割は大きいのです。『誰が日本を支配するのか!?』の一冊画「検察と正義」になっていますからこれを読めばこの辺のことは分かります。僕はこの起源に大逆事件を考えています。大逆事件の謎に迫まってみたいですね。
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〔opinion125:100909〕
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ある感想(四) 9月6日
この本のことを少し引用してみます。「先ほど触れた。マルクスが『資本論』で示した三大階級、地主、資本家、労働者の話に戻りましょう。彼は資本の論理さえ解明すれば世の中はすべて分かるんだというモデルを設定しました。其れは意味があります。お金の問題、つまり経済の問題を抜きにして人間は生きていけませんよね。その論点を明白にするために、経済以外の要素を切り捨てる必要があると考えたのでしよう。そのために官僚という階級を見落としたとも言えます」(誰が日本を支配するのか!?)。これは佐藤優の発言がマルクスが経済過程の分析をちるときは、共同幻想などの国家領域は意識的に捨てたということです。それを無視したということではありません。同じことを吉本は『共同幻想論』で述べています。共同幻想の領域を析出するには経済過程は捨てられると。これは、僕らが社会の総体(国家と社会)を本質的に把握しようとするとこうした方法的自覚が必要ということです。本質的な把握というのは抽象力によるのですが、それはこうした自覚を必要とするということです。
僕が官僚という存在の把握の重要性に気がつく契機はいろいろあるのですが、その一つに日本の国家権力の把握をやろうとしたことがあります。明治維新の分析もそうでした。従来のマルクス主義的な国家権力の把握は社会階級の分析から出発します。例の明治維新をブルジョワ革命か絶対主義革命かとみる労農派マルクス主義と講座派マルクス主義の見解はその典型です。これは資本主義の発展段階から規定しようとしたのですが、国家権力の側からの規定がないことに気がつきます。明治維新の段階でブルジョワジーは階級としては存在していなかったし、豪商や豪農などがいてもさしたる役割を果たしたとは言えません。明維維新の中心的役割を果たしたのは封建諸侯の家臣団であった下級武士でした。彼らの役割を念頭において明治維新をとらえるとどうなるのかという意識において明治維新をとらえてみようとすると、ブルジョワ革命説も絶対主義的革命説もどこかズレていると思いました。これは例の三二テーゼと呼ばれる天皇制権力の分析にも関係していくのですが、僕は明治維新を共同幻想の構成転換という視点で把握し直そうとしたのですが、日本の国家権力の歴史的構成という考えの必要を感じました。日本の国家は天皇という権威(宗教的力)と政治権力(官僚的統治権力)の二重性という独特の形態をとるのですが、律令官僚―封建官僚―近代官僚という国家統治を基盤にする存在をイメージするように成りました。国家権力を基盤にする日本の近代の展開を、マルクス主義的近代史とは別に描けるように思えました。現在を把握するために歴史の流れをつかもうとするのですが、歴史の流れの発見は現代の発見につながります。
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〔opinion119 :100906〕
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ある感想(三) 9月4日
官僚のことが問題にされるようになったのは比較的新しい現象といえます。日本経済の高度成長の時代は日本の官僚(官僚制度)は絶賛されていました。日本的経営として日本の経営者が評価されていたのとおなじでしよう。官僚ということが問題にされるのは高度成長後の「失われた10年」(第二の敗戦期)からということになるのでしようか。世界的には冷戦構造の崩壊ということがあります。僕自身の思索というか、思考の歩みでは権力の析出ということから接近していったように思います。マルクス主義の社会対象化の方法(唯物史観や史的唯物論)では国家などの把握は経済社会分析(例の下部構造)から副次的に(上部構造)として導かれても、その本質的把握には至らないと考えてきました。こういう方法を避け、マルクスの初期の国家についての認識に依拠しながら展開されたのが吉本隆明の共同幻想論でした。国家の本質は共同の幻想であり、これは経済過程(社会過程)を排除して把握できるし、それとはある構造を介して関係づけられるとするものでした。吉本はこれで『共同幻想論』を書いているのですが、これは起源論の段階にあり、現代のところまで引き寄せたらどうなるかが僕の問題意識であり、ここで官僚ということが対象になってきたのです。
国家の本質は共同幻想であり、それは世界史的には「宗教―法―国家」という構造的な流れにありますが、この流れの過程はそれぞれの国家で錯綜的に現れてきます。ヨーロッパの中でもイギリス、フランス、ドイツは構造的には異なる展開をしてきましたし、日本では近代以前の側面と影響が強く国家(国家権力の構成)では特徴があります。国家の宗教的要素と法的要素の関係、政治的要素(ナショナリズムなどは政治的要素)との関係は錯綜しており、複雑です。これは明治維新以降の近代史みれば明瞭ですし、天皇制のことを見てもいえます。
経済社会過程から政治過程を導きそこから革命戦略や綱領を策定するのがマルクス主義の方法で、そこで二段階革命あるいは一段階革命という戦略が出てきます。これは資本主義の発展段階に規定されるものとしてあり、日本の近代史の段階分析が出てきます。ここから明治維新や天皇制の規定も出てきます。これはロシア革命の後にコミンテルンで出てきた革命戦略論が日本も移入されたものですが、僕はこういう考えに興味を失っていますし、それが有効であるとも思っていません。国家の構成を本質的に、また構造的に析出し、その革命の構想を導けないのです。官僚ということが視野の対象になかった理由です。
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〔opinion117:100904〕
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ある感想から(二) 9月2日
僕らはかつて何を対象にして闘っているのか、何を目指して闘っているのかということで苦しんだ経験があります。1969年段階の中央権力闘争ということでも、沖縄闘争でもいいのですが、このことで苦しみもがいた経験があります。ある意味でこのことは現在も継続していることです。当時は僕らの現実感覚(表出感覚)にはある種の確かを実感していたにしても、それがどのような指示(指示表出)を確証しえていたかというと、あやふやではなかったかと思います。現実感覚といのは現実意識でもいいし、政治行動を支えていたものです。これに対して指示表出というのは対象を指す言葉であります。僕らは政治行動をする場合にこの二つを必要とするのですが、そこに矛盾というかアンバランスなものを感じていたように思います。
ここで僕が指示表出という言葉を使ったのはいきなり綱領とか革命戦略という言葉を使いたくなかったからです。綱領と革命戦略というのは基本的には何を対象に、どのような過程を持って社会を変えるかという言葉です。指示表出は言葉の基本的な概念ですが、これは革命と社会変革を指す言葉でもあります。
綱領とか革命戦略、革命戦術という言葉があり、また理念から現状分析までの幅があります。社会の総体を対象的に析出しようとすれば、構造的に幅が必要であるし、抽象度の違う概念を必要であるとするからです。また、歴史としては段階的な把握を必要とすることです。
革命戦略から戦術に至るまで、最大限綱領から最小限綱領に至るまで社会を変えて対象と過程を指示表出として見ればいいわけですが、この場合の見方(思相)として僕はマルクスの立場とマルクス主義の立場を区別しました。マルクスの立場は社会を対象的に把握する領域ごとに投げ出されるようにあり、マルクス主義は総合化して把握するようにあります。社会を総合的に把握するにはマルクス主義の方がいいように見えるのですが、その方法(枠組み)に歪みがあり、対象的な把握としては問題がるのだと思います。
革命戦略(戦術)や綱領ということが知識人の間に浸透したのは昭和初期からですが、コミンテルンの影響下で出てきており、マルクス主義の枠組みにありました。労農派マルクス主義、講座派マルクス主義、旧左翼、新左翼といろいろありましたが、これらを総体として左翼といえば、これはマルクス主義という枠組みにあります。この革命戦略や綱領という事が、指示表出の言葉として社会とその変革の過程を対象的に捉えているか、どうか疑問です。
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〔opinion112:100902〕
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ある感想から(一) 9月1日
佐藤優×魚住昭を責任編集とする刺激的な本が同時に3冊出ています。『誰が日本を支配するのか?!』(マガジンハウス)です。
この本の1冊に『政治とメディア』があります。この中で佐藤優は冒頭の対談「日本の政治はどこへ行くのか」で面白い問題提起をしています。官僚を階級として析出しているのです。官僚はヘーゲル的には国家の肉体という事ですし機関です。国家の本質は共同幻想でその肉体、あるいは機関が官僚といういいかたでも間違いはありません。この指摘の中で佐藤は官僚を社会から収奪し、再分配もするものとしていますが、ここで重要な点は彼が社会の三大階級(地主、資本家。労働者)とは出自の違うものとして規定している点です。官僚は国家を母体にし、基盤にしているわけで、社会を基盤にする階級とは違うとしているところです。これは社会的階級にすべてを還元し、そこから国家を、従って官僚をも捉える唯物史観と違っています。
マルクスは初期の国家論では共同幻想としての国家を析出し、後期は経済過程を中心に社会を分析しています。中期にはフランスの政治闘争を中心に政治分析を行っています。この三つの領域はレーニンによってマルクス主義の三つの源泉として総合化されているが、簡単に総合化できるものではあり得ません。僕にはそう思います。社会総体の対象化として構造的に深められるべき領域としてあると言うべきだと思います。このことはマルクスの思想を唯物史観のように総合化し定式化すれば、マルクスの思想を歪めるし、社会的現実を分析する場合に歪められた分析しかできないと考えてきました。マルクスの思想を総合的に受け継ぐことと、総合化され定式化されたマルクス主義を受け継ぐことは別のことだということでもあります。僕らが社会の総体を対象化しようとするときマルクスの思想は生きたものとして機能するが、マルク主義はそうではない事を意味します。(マルクス主義者による社会の対象化として優れた仕事があることと方法の問題は同じではありません)。
佐藤がこの本の中で提起している官僚=階級論はマルクスの思想の総合的継承という線から出てきたもので、マルク主義の国家分析から導かれたものではないように思います。(これは僕の理解です)。要するに社会経済の動向分析から国家権力の規定や分析をしてはいません。社会的階級に還元する方法での国家(政治権力)ではない分析をしているのです。なかなか斬新でいいものだと思います。
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〔opinion112:100902〕
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