ネバーランドから帰ってくる ―おとなの芸術家
- 2013年 6月 1日
- 評論・紹介・意見
- ネバーランド木村洋平
芸術家には、浮き世離れしたひとも多い。彼らの仕事は、ネバーランドとこちらの世界を結ぶことなのだ……。
ネバーランドは、ディズニーの「ピーターパン」に出てくる子供たちの国だ。そこでは、みんなが永遠の少年、少女。
僕らは、10代~20代前半くらいで、「大人になる」ことを求められる。けれども、子供心や、子供っぽさはそのあとも、多かれ少なかれ、残るだろう。ネバーランドは、そうした「大人のなかの子供」にとっての故郷みたいな場所だ。
ふつうの成人は、だんだんと階段を上るように大人になっていくものだろう。それにつれて、子供の部分は、だんだん減っていく(ことを期待される)。
けれども、芸術家はそうではない。音楽であれ、絵画であれ、文学であれ、なんであれ、自在にネバーランドに戻る、ことができる。ときどき、大人になるための階段をころげ落ちるようにして、子供に舞い戻ってしまう。そうして、空想や想像力、斬新な発想などを存分に発揮して、制作する……。そして、そこに大人の感覚を持ちこむこともできる。
これらの「子供」と「大人」というふたつの世界を、「ファンタジー(幻想)」と「現実」と捉えてもいいだろう。おおざっぱに言えば、芸術家には、「子供=ファンタジー」派と、「大人=現実」派が、ふたつの傾向として、ある気がする。
僕にとっては、たとえば、ルノワールは同じ印象派のモネよりも、「子供っぽい」(ファンタジーな)画風だと思う。ゴッホは「幻想」に迷い込んで描いたし、マネは強く「現実」を志向した。ロマン派の音楽でも、シューマンは「幻想」真っ只中で、妄想の煙のような香りの濃厚な歌曲をたくさん遺しているが、ブラームスの交響曲は、「現実」のなかにどんどんと踏み込む足音がする。ラブレー(ルネサンス期の文学者)は、作品のなかで想像力を爆発させているけれど、その一方で、現実の人間をびしっと見据えて笑い飛ばすところがあり、あえてどちらかに分けるなら、「現実」派の芸術家だ。
……論拠はないので、以上は、僕のただの感想なのだが。その感覚の一端でも、伝われば、と思う。
つまり、芸術家には、「幻想」タイプと「現実」タイプがあると思う。
そして、「幻想」タイプは、幻想100%になりやすいのに対して、「現実」タイプは、「現実」だけでは芸術にならないので(新聞になってしまう……)、たとえば、幻想と現実を半分ずつ、あるいは、割合の問題ではなく、えもいわれぬ融合を作りだそうとするだろう。
そこで、この文章の結論は、芸術における「現実」の大切さ、「現実」と「幻想」を意識的に両方、取り扱えるひとこそ、「おとなの芸術家」である、ということ。おおよその一般的な感じとして、僕はそう思っている。
だから、たとえば、ビリー・ジョエル(20世紀のポップソング・アーティスト)が「Goodnight Saigon」という反戦歌(ベトナム戦争に対する)を作るとき、彼には、ファンタジーだけではなく、現実の感覚が備わっていたと思う。「おとなの芸術家」に見える。芸術家は、ネバーランドのような「あっちの世界」に飛んで行って、そこに引きこもってしまうひとではない。そうではなくて、あくまで、現実世界との行き来をやめずに、交流させるひと。「おとなの芸術家」はネバーランドから帰ってくる、何度でも。いわば、片足を幻想に、片足を現実につっこんで、自らのからだを使って、ふたつの世界を橋渡しするひと。そんな「おとなの芸術家」に出会えると、古典作品であっても現代の絵本でも、うれしくなる。
初出:ブログ【珈琲ブレイク】http://idea-writer.blogspot.jp/2013/05/blog-post_31.html より許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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