尖閣諸島沖事件の顛末について
- 2010年 9月 26日
- 交流の広場
- とら猫イーチ尖閣諸島
尖閣諸島沖の事件に関わる異常事態に関わって、激変する展開ごとに思いを連ね、原稿を整理する間も無く連続投稿をしてしまい「ちきゅう座」をご覧の方々の御不興を買ってしまったのではないかと反省いたしております。 御詫びいたします。 安東次郎氏が平静を保たれて、『「国民が怒る」のは当然ですが、こういうときこそ、冷静に状況を分析し、今後の日本の行方を考えるべき』(「尖閣問題、孫崎氏の総括と私の感想」)と御指摘をいただいたとおり、感情論に走り過ぎると暴走する恐れがありそうです。
ともあれ、我が国と中国は、因縁の浅からぬ関係があり、現在では政治体制が相違するのみならず、国力が逆転しつつあるのが現実であります。 また、経済的には相互依存の関係にありながらも、政治的には、多極的になりつつある現代の国際社会において、中国は、自らの覇権を確立しつつあるように観測されるところであります。
また、安東氏の御感想にあるとおり、アメリカ帝国の従属国として片務的同盟を結び、その庇護を受けている現状に満足していては、帝国がアジアから撤退した暁には、台頭する中国の傘下に入るしか途はありません。 民主党は、あるいはその路線を敷いているのかも知れませんが、我が国にとって、中国に忍従することが生き残る途であるのかどうかは未知数でありましょう。
こう言うと、批判は多いことでしょうが、「戦争は嫌だから」と言う理由で憲法九条にしがみつき、世界情勢に眼を閉ざして念仏を唱えるのみでは、国難は避けてくれないでしょう。 憲法九条の背景にある「十五年戦争」に関わる、国民の逆転した一方的被害者意識は、自国の侵略戦争を誠実に償うこと無く戦後を過ごしたことで、侵略を受けた側の恨みを増幅して来たかのように観えます。
我が国の、国防と外交の基本姿勢は、この過った被害者意識に基づく怯懦性から来るものが多いような気がしないことも無い。 しかし、今回の事件では、度を過ごしてはいないであろうか。 例えば、これが韓国であればどうなっていたのであろうか。 私は、韓国で生じた事件であったならば、恐らく、我が国のような対応を採ることはなかったであろうと考える。 韓国軍の実情には、一度きりの渡韓で通じる訳も無いが、祖国を分けた戦争を戦い、今も尚、厳しい対立にある情勢を踏まえて、我が国の自衛隊とは比べようも無いくらいに戦意をたもっていると感じている。 国民一般も、また、自国の自尊自立には、相当な意識を示す。 我が国とは隔絶している。
つまるところ、中国に向き合うには、刃を交える覚悟が必要である。 何も進んで好戦的になろうと言うのではないが、正義の女神も邪悪を懲らしめる刃を持っているではないか。 自国の独立と自尊を賭けて戦う気概の無い国民は、生きるしかばねである。
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