6.15現代史研直前案内と内田弘氏のレジュメ(コメント)
- 2013年 6月 12日
- スタディルーム
- 内田弘現代史研究会
第276回現代史研究会
日時:6月15日(土)1:00~5:00
場所:明治大学駿河台校舎・研究棟2階 第9会議室
テーマ:「アダム・スミスの認識論をめぐって―アダム・スミス研究の新たな展開」
講師:田中正司(横浜市立大学名誉教授)
コメンテーター:内田 弘(専修大学名誉教授)、野沢敏治(千葉大学名誉教授)
田中正司著『アダム・スミスの認識論管見』(社会評論社、2013年)を読んで
現代史研究会2013年6月15日明治大学
内田弘(専修大学名誉教授)
[1] 日本スミス学のマルクス的伝統
戦後日本のスミス学は、戦中のスミス学である高島善哉『経済社会学の根本問題』(1941年)・大河内一男『スミスとリスト』(1943年)を頂点とする戦時スミス学を継承するものである。高島のスミス学はマルクス学に代わるものとして書かれた。高島は戦中にマルクス『剰余価値学説史』の翻訳原稿を官憲に没収された経験がある。戦後、高島の教え子である長洲一二が『剰余価値学説史』(国民文庫、1954年)を刊行したのは官憲への意趣晴らしである。戦後日本のスミス学の代表であった内田義彦の『経済学の生誕』(1953年)の後半は『剰余価値学説史』 (カウツキー編の戦前改造社版)を主要参考文献に執筆された。高島・大河内から内田へのスミス学はアジア・太平洋戦争(1931~1945年)に帰結した「近代日本とはなにか」を経済学史・経済思想史として問うものであった。
[2] スミス学それ自体を定礎した「田中スミス論」
戦後日本のスミス学は戦前戦中日本の近代化をめぐる「スミス=マルクス視角」からするものである。それでは、今日、21世紀10年代日本のスミス学が担う問題性は「戦後日本的問題像」のままでよいのであろうか。《3・11》を中心とする歴史的経験をなめている今日、スミスとは如何なる存在か、その問題像が改めて問い直されなければならない。水田洋の『アダム・スミス研究』(未来社1968年:改訂増補新装版2000年)は見直しの先駆的研究である。田中正司の新著は、水田スミス研究と随伴して、戦後日本のスミス学をマルクスから自立させ、スミス学への包括的な基本視座を定礎するものである。田中のこの新しいスミス研究の特徴はスミスへの徹底した内在にある。それによってスミス学のマルクス学からの自立の基盤を整備した。スミス学の革新に対応して、マルクス学も一新したものでなければならない。
本書に出てくる「マルクス」は38,215-217,225-227,238頁である。本書の核心をなす第1部(17-187頁)には38頁ただ一個所である(238頁のマルクスは平田清明の著書の副題に出てくる「マルクス」である)。しかもその引用個所に、つぎのように本書の基本視点が読むことができる。
引用(1)個性的な所有に基礎をもつ市民社会の自立性・公共性「ホッブズ-ロックからファーガスン-スミスにいたる17-18世紀の市民社会論のイデーは、あくまでも前近代的な共同体や絶対主義国家の保護や支配から独立した市民のそれぞれのそれなりの創造物としてのプロパティ(property自分に固有な独自なもの)の交換による「全人類の保存」を可能とする、より豊かな文明社会の実現にあったのである。その頂点にたつスミスの思想は、所有の交換社会としての市民社会の自立性と公共性、国家に対する市民社会の優位を明確に論証したものであった。スミスの市民社会論が近代の市民社会論の画期をなすものとされてきた根拠はそこにある」(224-225頁)。
引用(2)所有物の固有性の相互交換「スターリン批判を契機にクローズアップされてきた社会主義体制における市民社会の欠如に着目した『市民社会と社会主義』(1969年)からはじ[始]まった平田清明の「個体的所有の再建」論の方が近代の市民社会の真実に近く、現代の市民社会論がクリアすべき問題点に迫っているということができるであろう。しかし、所有の個体性を強調する平田の個体的所有論も、市民社会の根幹をなす所有の交換論の内実とそれがもつ意義についての認識が弱い点は高島[善哉]と同じである」(214-215頁)。
引用(3) スミス認識論の実在性・実践性「スミスの『哲学論文集』は、こうした実在論と経験論との融合の試みとして、実在論(実在前提の論理)の主体性・実践性・現実性をクローズアップしたものであったが、断片的エチュードであり非公刊であったために、ヒューム-カント的な論理が[スミス]認識論[理解]の主流となって実践性を喪失し、認識論と実践哲学が分離・分裂してしまったのであった。スミス的な実在論の系譜につながるヘーゲル論理学も、事物そのものの運動の論理の解明を主題としながら、その論理的厳格性のゆえに逆に個体そのものは弁証法的に揚棄される形となり、マルクス的唯物論に転化していったため、主体の実践が叫ばれながら、理論と実践(現実)との融合は掛け声に終わった感が強い」(38頁。[ ]引用者)。
★ロック系譜のプロパティ(所有)論は今日如何なる形態を取るのか。平田のいう「個体的所有」とは民法学上「個々人的所有(株式資本の勤労者個々人による所有)」(広西元信『資本論の誤訳』)のことであり、マルクスがリカードウ社会主義者ジョン・ブレイ『労働者の困難、労働者の救済』(1838年)から継承したアイディアである(内田弘「『資本論』形成史における『哲学の貧困』」『(専修大学)社会科学年報』2013年3月を参照)。
★現存社会主義国は現代資本主義より「後の社会(post-capitalist society)」か、「前の社会(pre-capitalist society)」か。「前期的官僚制(家産制)国家資本主義」の視角から戦中日本で橘樸などが中国を研究していたことも忘却できない。なぜ「改革開放」以後の中国で物権法、労働法が制定されたのか。日本の社会科学者は20世紀社会主義経験から根本的に学んでいるのだろうか。平田清明『市民社会と社会主義』(岩波書店、1969年)は現存社会主義国とは何かを判断する基準を今なお示している。
[3] 天文学史のカント・スミス・ヘーゲル・マルクス
固有の自然哲学者以外の思想家にとって、天文学史研究は何を目的とするものであったのであろうか。以下、それをカント・スミス・ヘーゲル・マルクスで見る。
[3-1] カントの場合(「天界の自然史および理論」1726年)は、認識論(『純粋理性批判』)の問題枠(人間にとっての個々の経験上の現象とそれを引き起こす法則との区別と関連)を例証するためである。マルクスの「差異論文」と関連するが、カントはその論文でエピクロスの原子論を援用しながら、《カントはスピノザのように無神論者エピキュリアンである》との誹謗を怖れ、天界の究極の原因を神にもとめる。
[3-2] スミスの場合は道徳哲学(人文学=社会科学)の問題枠の確証のためである。
引用(4) 想像力→中間現象「スミスは、その方法原理として、当時の天文学者が一般に採用していた数学的方法による天体の運動法則の解明、観測結果の理論的一般化ではなく、人間の自然の感情である想像力(imagination)原理に基づく中間諸現象の想定論による天界の諸現象の結合・統一・規制原理の探求方法論を展開していたのであった」(20-21)。
スミス同時代の知的世界・学会共有の知識はヒューム寄りの経験論に絞られる内容であったのか。田中のカント『判断力批判』構想力論の論究は注目すべきである。しかも田中が鋭く力説する想像力による中間現象の想定はアリストテレスの非媒介=真理探究論である(アリストテレス『心について(デ・アニマ)』(講談社学術文庫)訳者(桑子敏雄)解説を参照)。田中は引用(4)の少し後27頁で、アリストテレス四原因論(形相因・始動因・作用因・質料因)に論究する(!)。三木清は『構想力の論理』で、カント美的制作(ポイエーシス)論を構想力(Einbildungskraft)による政治哲学に読み替えた(内田弘『三木清-個性者の構想力-』御茶の水書房、2004年を参照)。
引用(5) 人間の自然の運動=目的論的構造「スミスは・・・『人間の自然』の心理分析をも行っているが、心理分析それ自体を主題としていたのではなく、人間の自然の性向や感情・情念の運動の論理の解明・叙述を主題としていたのではないか。スミスは人間の自然(本性)の運動の論理=その目的論的構造(teleology immanent in human nature)を明らかにしたうえで、その対自化による主体の倫理の確立を『道徳感情論』の主題にしていた。スミスの作品が、実体そのものはsomething unknownとして切り捨て、視角を通して見る限りの観念連合の産物ではなく、事物そのものの概念的把握に基づく普遍原理論的性格をもっている」(33頁)。
[3-3] ヘーゲルの場合、『エンチュクロペディー』自然哲学は、ロゴス(神)の自然への展開過程であり、『法=権利の哲学』の場合はRecht論証の例証のためである。
『法=権利の哲学』§189(「欲求の体系」の冒頭節)の補遺(以下に引用)
引用(5)「[市民社会における]恣意のこうした蠢動はそれ自体のなかから普遍的な諸規定を生みだす。この一見してばらばらで無思想に見えるものが、自から生じる一つの必然性にとって支えられているのである。この必然的なものを発見することが国家経済学の目的である。国家経済学は大量の偶然事に関して諸々の法則を見いだす。・・・このように相互に含み含まれる関係があるということは、一切の個々人の恣意に任せられているように見える。そのため最初は信じられないのである。・・・[その現象は太陽系のようなものである]・・・太陽系はいつも肉眼には不規則な運動しか示さないけれども、しかしその諸々の法則はそれでもなお認識することができる」(Hegel, Rechtphilosophie, Surkamp Verlag,1970,S.347:藤野渉・赤澤正敏共訳、中央公論社、世界の名著[35]、422-423頁)。
[3-4] マルクスの場合は、「神と貨幣」が共通の基盤とする近代市民社会の解明=批判の枠組の設定にある。マルクスは「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」(1841年)で、アリストテレス自然哲学、ヘーゲル自然哲学や『法=権利の哲学』だけでなく、カントの『純粋理性批判』・前掲論文を読み批判する。
「差異論文」の核心はエピクロスの天体論にある。エピクロスの原子は結合=連鎖し結局、天体になる。天体は民衆の崇拝対象と成る。民衆信仰はエピクロスの心の安逸(アタラクシア)を乱す。エピクロスはその帰結を拒絶する。マルクスは、この拒絶までのエピクロスの思惟過程を「神および貨幣の成立根拠」を明らかにし批判する問題構成とする。宗教(神)批判と経済学(貨幣)批判は「差異論文」から始まる。初期マルクスは1843秋パリでなく、1840年前後のベルリンから始まる(詳細は、内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」『専修経済学論集』2012年3月を参照)。
[4] スミス自然神学と『国富論』「天与の三本能論」
スミス『国富論』はつぎのように自然神学的な三大前提に基礎づけられている。
(1)交換本性 (第1編第2章)
(2)勤労本性 (第1編第8章)
(3)蓄積本性 (第2編第3章)
『国富論』体系を貫徹する原理は分業である。その原理を根拠づけ、体系的に展開する根拠=前提がこの三大本性である。従来、(2)の勤労本能は指摘されてこなかった。しかし(1)の交換本能も(3)の蓄積本能も、(2)交換すべき剰余生産物、(3)蓄積すべき剰余生産物が何によって存在し増大するのかが説明されてこなかった。(2)は『国富論』第1編第8章につぎのように書かれている。
引用(6)「《労働の気前の良い報酬がふつうの民衆の増殖を促進するとともに、民衆の勤労(the industry of the common people)を増進させる。労働の賃金は勤労への奨励である。》勤労は、人間の他の資質と同じように(like every other human quality)、受ける奨励に比例して増大する」(Wealth of Nations, Oxford,1976, Vol.1,p.99;『国富論』水田洋訳、岩波文庫、2000年、第1分冊、147頁。《・・・》の部分をマルクスは1844年にノートした)。
引用(7)「勤労ではなく節倹が、資本の増加の直接の原因(the immediate cause of the increase of capital)なのである。たしかに勤労は節倹が蓄積するものを用意する。しかし勤労が何を獲得しようとも、もしも節倹がそれを蓄え積み重ねないならば、資本が大きくなることはけっしてない」(op.cit.p.337; 第2分冊、122頁)。
スミスは、勤労は資本蓄積の「直接の」原因ではないけれども、勤労は資本として蓄積すべき対象=剰余生産物を生産する、と明言している。節倹=蓄積本性が資本蓄積の直接原因である。勤労は間接的原因である。というよりも、資本蓄積の根源的原因は勤労であり、その成果=剰余生産物を浪費しないために節倹=禁欲というもう一つの原因が欠かせないと主張しているのである。勤労による剰余生産物が存在しなければ、節倹も作動しようがない。
[5] 貨幣生成をめぐるアリストテレス・スミス・マルクス
貨幣生成の論証問題に関して、アリストテレス・スミス・マルクスはつぎのように答えた。
「協定(hypothesis)」(『ニコマコス倫理学』第5巻第5章)
「深慮の人(persons of prudence)の導入」(『国富論』第1編第4章)
「商品所有者の無意識の共同行為」(『資本論』第1部第1・2章)
貨幣は如何に生成するか。この問題に関して、アリストテレスは引用(8)(9)にあるように、「異質の財貨の相互給付(metadosis)」=商品交換では「通約性=均衡(symmetria)」・「均等性(isotes)」が不可欠の前提となるけれども、そのような「通約可能性」は存在しないので、財貨の所有者の「協定hypothesis」(仮にそう定めておこうという協定=仮定)である、と指摘する。スミスはおそらくアリストテレスの「協定」を「深慮の人・世故(prudence ←pronesis)に長けた人」に読み替えたのであろう。
引用(8)「このような共同関係[相異なる財貨の交換関係]が発生するのは、二人の医者の間においてではなくて、医者と農夫の間においてである。これらの人々は均等化されることを必要とする。交換されるべき事物がすべて何らかの仕方で比較可能であることが必要である根拠はここにある。こうしたために貨幣は発生したのである。貨幣はある意味で仲介者(meson=中間者)となる」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』高田三郎訳、岩波文庫(上)、243頁)。
引用(9)「《交換がなくては、共同関係はない。交換も均等性がなくては成立しない。均等性は通約性(symmetria)がなくては存在しない。もとより、このように著しい差異がある色々のものが通約できるようになるということは、本当は不可能なのである。》しかし、需要ということへの関係から十分に可能となる。そのさい、何らかの単一のものが存在することが必要なのである。このことは協定に基づく。」(同前246頁。マルクスは《・・・》の文を価値形態論で引用した)。
翻訳ではsymmetriaは「通約性・均衡」と訳されているけれども、「対称性」という意味が背後にある。相異なる事物が「共役可能な対称性」をもっていることが商品交換の成立前提である。アリストテレスはそこまで指摘しながら、そのsymmetria(対称性)が如何なる形態を生成するのか、その形態は如何なるisotes(量的規定=均等性)をもたらすのか、その論証ができない。マルクスはアリストテレスのこの商品交換におけるsymmetria(通約可能性=対称性)というアポリアを価値論で乗り越える。『資本論』の論述構造は《商品に始まり商品で終る対称性Symmetrie》を成す。その対称性は「商品交換の対称性」に基礎をもつ。『資本論』の対称性は『国富論』に潜勢する対称性を顕勢化したものであろう(内田弘「『資本論』の《不変の対称的構造》」『情況』別冊『資本論』特集、近刊を参照)。マルクスのアリストテレス援用はトリーアのギムナジウム以来の教養が基盤となっているけれども、彼の同時代19世紀「イギリス・ルネッサンス」(ラファエル前派・イタリア独立運動・中東問題)という背景も考慮して理解すべきである。
アリストテレスやカントの思想はスミス・マルクスに継承されている。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study584:130612〕
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