死刑廃止論へのプレリュード (7)
- 2013年 7月 5日
- 交流の広場
- 山端伸英
44.日本には「死刑制度」が厳然として存在する。死刑に対する存廃論は「不毛な議論」(現在のWIKIPEDIAでの記述)に終わるかもしれない。しかし、「国家」に「死をもって他者を裁く権利」は無いという立場はありえる。
45.テレビ・タレントがTWITTERなどの「死ね!」などという書き込みを受け、「死をもって罪を償えますか?」と答える。これなどは「国家の殺人」である「死刑」の性格をもよく語っている。
46.アメリカが「死刑廃止」を決めてからなら、「日本」も、「死刑廃止」を議論にあげるだろう。僕たちの「祖国」の実態である。
47.「懲役」に比べて「死刑」の経費は少なくて済むかもしれない。しかし、「殺すシステム」を考案する愚行は人類の幸福に資するのであろうか。ガリバーは巨人国での「死刑執行」に立ち会って巨大な首が血を噴出しながら弾むのを見ているが感想を記してはいない。「懲役」についても「罪の償い」のさまざまな可能性を研究する必要がある。集団化され、一元化された償いから社会奉仕への多元的な可能性を重視できる。福島やチェルノブイリなどへの除染派遣、紛争地帯における救護や復興活動派遣なども考えられる。
48. 「凶悪犯」あるいは「確信犯」は存在しえる。現在のメキシコなどにおける麻薬組織(NARCO)の動きは「国家」との対決を辞さない確実な「確信犯」であって、しかも、相互に殺しあっている内ゲバ「凶悪犯」でありながら、その辺の「出世主義とタイアップした左翼」ではない。彼らNARCOは体制の変革を目的とはしていない。それでいて、「国家」や「社会」との緊張は最優先であり、彼らの組織は利潤や能率よりも「忠誠」に基づいている。彼らは「反社会」的な凶悪犯である。しかも「国家」に戦闘を挑んでいる。しかし、問題解決の責任は、「国家」や「社会」にあるのであって、彼らにはその責任は無い。メリアムの「政治権力」に「無法者の法」なる一章がある。もっとも、最近の自民党や民主党の反憲法的動きは、むしろこの「無法者」の国家権力化に連なっている。この反憲法的「無法者」たちは「確信犯」であり「凶悪犯」であり、戦後民主主義の文脈でさえ「死刑」に値するかもしれないが、戦後民主主義の重大な発展としての「市民的寛容」が彼らを勝手気ままに振舞わせている。しかし、国際社会は既に何度も彼らに警告を発している。「市民的寛容」は為政者にのみ向けられるべきものではない。
49.「反原発」への抗議行動がある反面、「死刑執行」に対する座り込みなどの抗議行動が乏しいのは、「国家の殺人」への無関心を示している。
50.原爆製造は「国際社会」のどこからも許されてきたわけではない。「原爆投下」も、「国際社会」のどこからも許されたわけではない。殺されたのはどのような「凶悪犯」たちであったろうか。殺したのは「国家」であり、そこまで何もしなかった「国家」である。
51.「社会」への危害に対する免罪(この日本語は軽すぎる)は許されてはいけない。「死刑廃止」は権力乱用者や政府の凶悪犯罪を許すことを伴うものではない。現政権の権力乱用者の「国家の名による殺人」は「私刑」でしかない。
52.多くの「真犯人」たちが日本のさまざまな場所で涼しげに生きている。彼らは生きる達人たちである。そして、「疑わしきは罰せず」である。メディアが報道し糾弾する真犯人とされた人たちだけを憎み恨む理由は本当のところあまり無いのだ。そして、「死刑」を執行された後に無罪が確定した悲しい人生もある。しかし、確実なことがある。いまだに日本では「国家の殺人」が大手をふるって繰り返されているということだ。
53.僕が、母を殺したとき、母は人工呼吸器の吸引と共に大きくからだを動かしていた。医師の説明の後、妹が説明を開始した。僕にはわかっていた。最後の危篤の前日、彼らは脳梗塞の発作を繰り返し、少し前には失語症に苦しんでいる母を九時間の都内ドライブに連れ出している。彼らには母を殺す「真犯人」が必要だったのだ。そして、僕は「真犯人」としてここにいる。僕が失笑するのは、日本に限らずどこでも、僕自身を真犯人にしてしまう僕の馬鹿さ加減なのだが、ここに明らかに騙されたという証拠があっても、僕は常に「真犯人」であるのだ。これも、僕が日本にいることを拒んでいる理由のひとつだ。ただ僕は日本人であるから自分が「真犯人」とされてしまい、いつまでも「被害者」に留まっていないことを自分で祝福し、今日も武装して外出している。そして、僕は原則として「国家の殺人」である「死刑」の判決と執行を「真犯人」としても許さない。
54.トマス・モアが断頭台の露と消えて、二百年の後、スウィフトが書いた「ガリバー旅行記」(岩波文庫「ガリヴァー旅行記」平井正穂訳)には、その二百年の遅々とした変容への苛立ちが現れている。日本への渡航が「踏絵」のテーマを中心に語られていることも面白いのだが、スウィフトが十八世紀初頭のイギリス社会におけるイギリス人の国民性へのイヤミを大胆に書いているのには少し驚かされる。イギリス国教の世界観の中で登場する「皇帝たち」のなかに「踏絵」と関連して「日本の皇帝」も登場するところが現代日本(今の日本)における「国王至上法」を髣髴とさせる。
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