死刑廃止論へのプレリュード (8)
- 2013年 7月 6日
- 交流の広場
- 山端伸英
55. 日本の東大法学部から始まる出世民主主義的文脈の優等生的「国家」への意識的、あるいは無意識的依存は「死刑」を無視するどころか、その「暴力」を自分たちの存在基盤に都合よく組織化しようとするところに特色がある。学問の世界においてもその傾向は非学問的とも言えるほど強い。従って、彼らが如何に非武装非暴力を標榜しても、市民の側には訴えかけるものが乏しい。この点ではこの「ちきゅう座」においても小林直樹氏の所論に対する頼もしい論評がある。日本風味のヘーゲル型国家観に屈服してはならない。
56.天皇は日本憲法の中では独自の「国王至上法」である「国民の象徴」という立場から、日本国家の行なう「死刑」に関連している。その立場は「国民の総意」に基づくとされるが、ただの一度もその「総意、原文ではWILL」は国民の側から国民投票によって証明されたことがない。左右を問わず結果を恐れているようだが憲法の要請するプロセスを達成することは国民の義務であり、それへの怠惰によって反動的憲法変更がなされようとしている。現憲法がヨーロッパ諸国でも敬意の対象であることはル・モンドやZEIT紙などが日本の反動派の動きをかなり神経質に追っていることから証明されるが、日本国民あるいは日本民族はその意味でも試練の中にあることを自覚すべきだろう。経済的な優勢だけが民族の指標ではないのだ。
57.「死刑」を行なう「国家」と行なわない「国家」の違いは何であろうか。「死刑」を行なう「国家」には55に述べたようなインチキな連中が跋扈する。「死刑を行なわない国家」には「国家」や「社会」への自省が伴う。なぜ、僕たちの社会に、このような極悪な犯罪が起きたのであろうか。なぜ、この国にはラテンアメリカ以上の極悪な免罪のケースがあふれているのだろうか。なぜ、この国のメディアは反動政治家たちの脅迫におびえる反面、弱い冤罪者をいじめ狂うのであろうか。なぜ、あの事件も、その事件も、あやふやなまま時が経ってしまっているのだろうか。これらは、「国家」のせいなのだろうか、「社会」のわれわれに問題があるのだろうか。日本大学使途不明金、ダグラス・グラマン事件、東電女性社員殺人事件、、、(国外にいるせいか、ぜんぜん最近の事件が思い浮かばない。同時にこれらは今もって重く僕の脳みそを押さえつけている事件の一部だ)、つまり、「死刑」には「国家」をそのまま問い詰める契機を遮断する働きがどこかにある。それと同時に、まさに「日本国家」は、あのガキデカという大昔の漫画の主人公のように人差し指をわれわれに向けて「死刑!!」と、今もまだミエを切っているのである。それは、ある意味では、日本においては「国家」や「組織」という人間集団が、仮面をかぶった偽の主体」、あるいは二代目三代目政治家や企業家のような擬似主体性とともに存在し活動する「社会現象」に近いのだという印象を僕に与える。
58.日本人はメキシコ社会の現在の治安の悪さをことさら取り上げている。しかし、僕はいままでメキシコの社内での「日本人暴君」を何人も見てきている。
ある夕方、日本人副社長は地元の通訳を使ってアドミの社員に絡み始めていた。僕は見るのも聞くのもいやだったのでさっさと帰ってしまったが、そのメキシコ人社員は他の従業員たちのいる前で股間をつかまれてしまったそうだ。西欧の文化の中でのその行為が何を示すかはともかく、この社員は何とか我慢したそうだ。日本人は閉鎖的な環境の中で平気なことを行なう種族であるという誤解を振りまきかねない。この副社長は、日本に帰るそうである。なるほど、日本は治安がいいはずである。そのメキシコ社員は四ヶ月ほど前、肝疾患で他界した。このことは、「死刑」とは何も関係がない。しかし、「死刑の無い社会」との関係はある。日本の会社で部下の股間をつかむことは許されているかもしれないが、彼の国外での好き勝手な行ないには罪も罰も無いのであろうか。一歩外に出れば拳銃や機銃のあふれている社会ではあるが、僕も、他のメキシコ人のように、その日本人を殺そうとは思わない。
59.「国家」もひとつの社会現象だとすると、また福沢諭吉の「立国は私なり」を想起させ、「私刑としての殺人」も想起できる。ここでは展開しないが、この「社会現象としての国家」という考えは僕のような劣等生には都合がいい。都合のいいことにはおおっぴらに組しないのも「劣等生の資格」である。
60.「国民国家」という点では日本という「国家」はある程度の統一性を確保している。同じ「国民国家」とはいえ、ラテン・アメリカ各国は植民地時代の混血文化を「国民化」しており、勢い国内組織における「国民意識」は日本人よりも狭苦しいものになっている。近代化に当たっても外国人から学ぶ姿勢を持っていた日本は幸せだったというべきだろう。しかし、現在の日本は「新たなる鎖国」を生きているように見える。「死刑」に関する国連決議への対応もそのひとつであろう。日本は国籍を血統主義とする血統民族国家ではあるが「君が代」の歌詞の内容を民族として生きているわけではない。「死刑判決」には「国民国家」としての統一を乱したという論理が入る余地は無い。それは多くの矛盾を生起するがゆえに優等生たちに「無視」される。
*沖縄のNさん、ご親切なお便り、ありがとうございます。
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