蔵書について
- 2010年 10月 8日
- スタディルーム
- 名古屋大学水田洋蔵書
蔵書を売って奨学金を作りたいと、以前本誌に書いたような気がする。もちろん一部はさらに本を買うための資金になるはずだった。そのときはこの不況下では蔵書を売るのは無理なことと思っていたのだが、昨年末から急に名古屋大学がその方向に動き出し、一月二十日までに、僕の蔵書中の洋書の大部分が大学に運び込まれた。
現在のところでは、そのうちのどれだけが、どれだけの対価で名古屋大学のものになり、その対価がどのように奨学金と僕の研究費・集書費に分割されるかはわからない。税金問題もある。そういうことは成り行きに任せるしかないので、ここではそれとは別に蔵書の性格や形成過程を書いておこうと思ったのである。大学ではこの蔵書のコレクションとしてのPRを考えているようなので、解説が必要になるだろう。
まず、蔵書の量であるが、一万冊とか一万五千冊とか言われているのは、和洋合わせての冊数であって、現在ではその数字は過小評価である。自宅に書庫を作ったとき、名工大の服部千之君にたのんだのは収容能力一万冊ということであったが、当時は全部が固定書架であった。その後の追加を処理するために、半分を移動書架とし、固定書架を二本増設し、窓を閉鎖してそこに書架をはめ込んだ。次に書庫につづく書斎の壁面の半分を書架で覆った。その結果、現在では一万五千あるいはそれ以上と考えている。なお、これにはぼくとは別に書庫書斎を作った珠枝の蔵書は含まれていない。二人の関心が重なる思想史上の期間については、蔵書も重なっている場合がある。
そういえばすぐわかるように、この蔵書の中心も目的も研究上の必要を満たすためであって、読書の楽しみというようなことは、付随的に生じるかもしれないが目的の中に含まれてはいない。そのような個人蔵書の構築は、社会思想史の研究者が一九四九年に名古屋大学に着任したことによって必然的な仕事になった。
敗戦までの名古屋帝国大学には医・理・工の理系三学部(はじめは理工学部)しかなく、文系四学部は戦後の新設であった。包摂学校も、第八高等学校は理系が強く、名古屋経済専門学校(名古屋高等商業学校)には赤松要のようなヘーゲリアンがいたにもかかわらず、その図書館は荒廃の極としか言いようがなかった。唯一の洋書輸入業者である丸善も、理系の必要文献は雑誌であったから、文系図書というものについてまったくの素人であった。幸いなことに、創業者田辺茂一の悲願によって戦後あらたに洋書輸入をはじめた紀伊国屋書店が、名古屋に展開してくれたのである。ぼくは東京商科大学(後に一橋大学)の特別研究生で国立にいたときに、紀伊国屋の輸入洋書の選定を手伝っていたので、名古屋にきてからは、その関係を積極的に利用することになったのである。これは双方にとって大変有益であった。紀伊国屋側のことは副社長だった吉枝さんが書いたり話したりしているが、ぼくにとって有益だったのは欧米の古本屋へ視野が開けたということである。たとえば、アダム・スミスの蔵書のなかに、ニュウカム・キャップの説教(アメリカ独立にたいする武力行使の反対)があることを知ったのは、紀伊国屋がくれたヨークの古本屋のカタログのおかげであった。このパンフレット自体は買い損なったが、そのことが、五十年近くかけて作り上げたぼくのアダム・スミス蔵書目録のはじまりといえるかもしれない。社会思想史の研究者・教師としての必要による蔵書構築となれば、その内容と性格はかなり決まってくる。とくに教師としては学生の多様な関心にこたえなければならないから、蔵書範囲も広くなる。自分が読まなくてもいいのである。ぼくの蔵書を使えばいくつかのテーマで論文が書けるといったのは、その意味である。もともとぼくは、社会思想史というものを、言語だけでなく人間の生き方についてのさまざまな表現を、論理的な言語で捉えなおすことだと考えているので、そのことだけを考えても収集の範囲は広くならざるをえないのだ。
思想史だから当然、古代ギリシャからはじまるのだが、ぼく自身はプラトン、アリストテレスにはあまり関心がなかった。はじまりはアナクシマンドロス断片における一人称の発見つまり個人の自己主張の承認であり、ギリシャ本土よりもイオニア植民地の思想に関心があった。これが日本の哲学界における京都対東京の対立の、東京側にコミットすることを意味しようとはまったく気がついていなかった。個人の自己主張が、正義にもとづく社会秩序として確立されていく過程(岩波『哲学講座』の三木清)は、アダム・ス、・、スだけでなく啓蒙思想を理解するのに役立った。もちろんそのときでも今でもギリシャ語は読めないから、とくにそのころは日本語文献だけに頼っていた。唯一の例外はハンス・ケルゼンの雑誌論文であった。
キリストおよびキリスト教にもあまり関心がなかったが、キリスト教会の思想統制への反発は、異端の研究への関心をぼくの中に生んだ。したがって、蔵書の中世の部分には異端関係のものが多い。教会を代表する正統派の思想には、上田辰之助という教授のトマス・アクイナス研究で触れることができた。これは古代ギリシャについて山内得立という併任教授(京都帝大と東京商大)がいたのに似ている。講義にはほとんど出なかったのに、二人ともぼくの答案には優をくれた(顔パス?)。中世の異端といえば、おそらくどこでも農民反乱、農村共産主義と深くかかわっている。カンタベリ物語とならんでイギリス中世文学の巨峰とされるウィリアム・ラングランドの「農夫ピアズの夢」は、オクスフォード版のセットをかなり早く揃えたつもりだが、とくに研究したわけではない。一三八二年の農民一撲については、バーミンガムの中世史家、ロドニ・ヒルトンに教えてもらった。かれにはヘレフォードの古い電話帳からアダム・スミスの末喬を探し出してもらったりもしたが、いずれも蔵書には関係がない。
異端のもうひとつの側面であるノミナリズムのほうが、多少は蔵書に反映されているだろうか。存在するのは個であって、全体は空虚である、ということで、ぼくはアダム・スミスの言語起源論にその例を見る。権力側としてはジョン・フォーテスキュウやエドマンド・ダドリがあるが、特にあげるまでもあるまい。それよりも、入手困難とはいえないにしても、パドヴァのマルシリウスの『平和の擁護者』が英語・フランス語・ドイツ語・トスカナ語で揃っていることをあげておこう。
近代思想のはじまりとされるルネサンスと宗教改革については、宗教改革は必然的に正統と異端、個体と全体の問題を抱えているので、ルネサンスの自由主義よりも、研究対象としてはるかにおもしろい。したがって宗教改革についての二次文献は五〇を超えているが、とくに珍しいものはない。しかし宗教改革直後からホッブズとその前後の時代のものはかなり集中的に集めた。それとほぼ同時代のイギリス・ブルジョワ革命については、クリストファー・ヒルによる新しい研究が始まり、多くの原典がリプリントされた。ハーリアン・ミセラニーとトマスン・コレクションについては、ハーリアンは二つのセット(ジョンスン編は不完全)を買い、トマスンは科研費で購入したフィルムを大学に残した。その後の技術の発達によって、たいていの原資料はコンピューターで読めるようになったが、読みにくいということのほかに、資料の物体的存在としての意味(たとえば出版事情)がわからなくなっている。この時代の原資料のひとつとして、ヘンリ・パーカーのものとされる六ページの国王あて『請願』(一六四二)がある。ハーリアン・ミセラニーというのは二代オクスフォード伯エドワード・ハーリーが集めたパンフレット類を、ウィリアム・オールディスとサミュエル・ジョンスンがそれぞれ編集したもので、オールディス編の方がいいとされている。トマスン・コレクションは、ロンドンの本屋でミルトンやプリンの友人であったジョージ・トマスン(?-一六六六)が集めたパンフレット類で、一七六二年にブリティシュ・ミュージアムに寄贈された。
ホッブズから広がる啓蒙思想については、スコットランド啓蒙を意識しながらイングランド、フランス、オランダ、ドイツから適当に集めたが、研究としては『杜会思想史概論』でスピノザに触れられなかったという悔いが残っている。啓蒙思想全体を代表するのはヴォルテール(筆名)であり、その代表的な発言は『イギリス便り』または『哲学書簡』の、「イギリス人はそれぞれすきな道を通って天国に行く」という宗教的アナキズムである。かれにはもうひとつ、「君の言うことには反対だが君がそれを言う自由は命がけで守る」というかつこいい言葉が伝えられているが、これは証拠がない。モンテスキュウについては、法服貴族の一例というくらいの関心しかない。いまアナキズムといったのは、異端ではあるが許すという寛容論と区別するためである。寛容論で有名なロックは、弟子の理神論を許さなかったと、ぼくもどこかで書いた覚えがあるが、最近の研究によれば護教の鬼であったという。
宗教的アナキズムが言論の自由に拡大されるには、バンジャマン・コンスタンからジョン・スチュアート・ミルヘと、啓蒙の枠を超えなければならない。だがそのまえに、トマス・ペインを弁護して皇太子づき法律家を罷免された、大法官トマス・アースキンをあげておきたい。有名人なのだが、アダム・スミスの弟子たちを探していて、サー・ジェイムズ・スチュアートの甥に当たるアースキン三兄弟にめぐりあったのだった。長兄バハン伯は雑誌田Beeの編集者で、スミスの印象記を書いている。次兄も民主派法律家であった。上の二人はグラーズゴウ大学でスミスに師事したのだが、貧乏貴族の家計は末弟に大学教育をうけさせる余裕がなかった。七千冊を大学に引き渡す騒ぎの中で、かれの著書十五冊と伝記二冊のセットをのこしたのは、どういうつもりだったのだろうか。
諸宗教の平等性については、レッシングの『賢人ナータン』にふれたのが竿諸だとおもうが、ずいぶん前、あるいは童話時代だったかもしれない。林達夫の紹介で問題が明確になった。中学時代の読書か、ずいぶん前の記憶である。理論的には平等といえても、それぞれが教会組織をもつと抗争はさけられなくなる。アイアランドでは、イスラムもユダヤもないのにキリスト教の中で国教と長老派とカソリックが、鼎立して争っていた。三派平等とカソリック農民の救済をめざすユナイテド・アイリシュメンの反乱は、革命フランスの軍事援助を期待して行われた(一七九八)。これもまたアダム・スミスの弟子を探しているうちにめぐり合った事件である。アイアランドは、すでにロバート・モールズワース、ジョナサン・スウィフト、フランシス・ハチスンによって、ぼくの思想史にはいっていたが、ユナイテド・アイリシュメンはハチスンの孫弟子の世代である。関係資料が百年記念に出版されたものは集めたし、北アイアランド公文書館でコピーもとったが、原典はウィリアム・スティール・ディクスンの自伝ぐらいしかない。彼はスミスの最後の講義をきいたらしく、スミスの高弟ジョン・ミラーとしたしかった。
アイアランドでもうひとり、気になっているのが、テユアムの大主教エドワード・シング。スウィフトの同時代人で、カソリック農民の窮状に同情して、十分の一税を減免しながら寛容令には反対した。『紳士の宗教』とか『カソリック・キリスト教』とかいう題名も気になるが、はじまりはダブリンのトリニティ・カレジで、かれがコメニウスを翻訳したことを、知ったときである。ということだが、これからどういうことになるのだろうか。わからないからおもしろい?
理性崇拝はフランス革命の特徴だといわれることがある。話はそれほど簡単ではないのだが、理性が神を飲み込んでいく理神論の発展は、啓蒙思想史のおもしろいドラマである。それは各国それぞれに見られるうちに、とくにイギリスではアンソニ・コリンズ、ピータi・アネット、コニアズ・ミドゥルトン、ジョン・トランドなどの活動が活発だったので、できるだけ集めることにした。ジョン・プライスとジョセフ・プリーストリを忘れたわけではなく、この種の本を買い続けたオクスフォードのWaterfirld(訳では水田になる)という本屋とは、最近の閉店まで数十年のつきあいで、最後にちかくウィリアム・ゴドウィンを買ったときは、この本のGood homeを見つけたことを喜ぶという本屋のメッセージが入っていた。経営者は何代かかわったようだが、オクスフォードを出たbibliophileたちなのである。彼ら自身もラディカルな理神論者だったのだろうか。家族でオクスフォード近郊の優雅な自宅を訪問したデヴイド・ロウは、ロンドンに店を出していた。理神論の類似の名称として国教に同意しないDissentersというのがある。
一九六三年に創立された国際十八世紀学会が、四年ごとに国際会議を開き、来年はそれがオーストリアのグラーツで、開催されることになっている。したがって研究書の出版も、総論であれ各論であれ各国で盛んで、数十冊集めてみても九牛の一毛ということだろう。それに、今度の名古屋大学の計画では研究書は原則として含まれていないようである。
ジョナサン・イズレールというプリンストン大学の高等研究所歴史学部の教授がいて、オクスフォードから『ラディカルな啓蒙』と『争われる啓蒙』という、二冊で一、七〇〇ページの本を出している。この人にはもう一冊、『オランダ共和国』というのがあるはずだから、あわせると二、五〇〇ページになるだろう。もちろん著書には、書き方も読み方も精粗いろいろあるから、見かけほどのことはないかもしれないが、研究者の宿命としてこの種の本に囲まれて暮らさなければならないのである。これを書いているところに到着したスイスからの小包は、ピエール・コンロンの『啓蒙の諸世紀・年代記的書誌』の第三二巻であった。ここまで来ると、もういい加減におわりにしてくれよ、といいたくなる。
啓蒙の後に挫折の思想としてロマン主義があらわれ、その中から初期社会主義が出て成長する。それとほぼ平行して、支配するブルジョワ合理主義あるいは功利主義が確立される。ロマン主義については、いくらか書いたもの、書きかけているものがあり、できればそれらをまとめたいと思っているので、蔵書の一部を留保するつもりである。バイロンの議会演説やシェリの政治論文など。紀伊国屋出版部からロマン主義論を出す約束をしたのは、村上一郎がいるころだった。
一八四八年と一八七一/七二年は政治史だけでなく思想史でも転換期であった。簡単に言えば、具体的な個人が確立されるのである。それはマルクスよりもアナキストたち、彼らに同調した文学者・芸術家たちによって代表される。マルクスの貢献は、個人に目をくらまされずに集団としての階級をはっきり捉えたことと、史的唯物論の基礎をすえたことである。思想を具体的な社会的存在として捕える方法として史的唯物論が洗練されるにはその後約百年が必要だった。したがって、洗練の過程も現代的成果も、関心のまとである。
ソヴェートが崩壊し各国共産党も解体が進む中で、それぞれの国で左翼の組織と思想の歴史研究が行われている。その研究書がイギリスで十冊を超えているから、いわゆる先進諸国でも同様だろう。戦後間もないころ活躍したビューレット・ジョンスンというカンタベリの牧師が赤い司教とよばれていたし、アナ・パウケルというルーマニア共産政権の女性外相がいた。それぞれ研究書が出ているのだが、パウケルについて、最近手に入れた伝記(カリフォーニア大学出版部、二〇〇一)は、ラジオがモスクワは雨だといえばブカレストで傘を差すほどのスターリニストといわれた。ユダヤ人女性政治家の上昇と転落と復活を癌による死まで追及している。埋葬に立ち会ったのは、家族のほかにはかっての政敵ひとりであったという。日本でも最近、反スターリンの人民戦線派、ヴィリ・ミュンツェンベルクの研究(星乃治彦『赤いゲッベルス』岩波書店)が出た。マルクス主義思想史というのも、カッパ・ブックス(光文社)の『マルクス主義入門』(一九六六)以来ぼくのテーマであり続けていて、オランダとオーストリアのマルクス主義への関心はその一部分である。オランダ語の実力はまったく落ちたが、戦時三年近いジャワ暮らしはまったく無駄ではなかった。ある雨の日、ブリュージュ(ベルギー)の本屋で、ヘンリエッテ・ロランド・ホルストのちいさな伝記を見つけたので、自信がないまま店員に、この人はレーニンの同志ではなかったかと聞いたところ、絶対にそうではないという。しかし、しばらくページを繰っていくうちに証拠が出てきて、恐縮する店員からその本を買い、これがきっかけで彼女のほかにホルテル、パネククなど、このグループの著書をオランダの古本屋から集めることができた。その古本屋は消滅したが、四十冊の本は大学院で役にたった。
これで終わりにするつもりだったのだが、ジャワとオランダ語が出てきたので少し追加する。直接に関係があるのはオランダ人マクス・ハーフェラール(ダウエス・デッケル)の植民政策批判小説『ムルタトゥーリ』である。二〇〇三年に佐藤弘幸氏によって完訳が出たこのオランダ文学の傑作について、詳しくは訳者解説に譲るとして、一九四二年二月に出た最初の邦訳を、ぼくはジャワにむかう前に読んでいた。ジャカルタのパッサル・スネンの古本屋街やノールド・ウェイクのオブス書店で関係書を集めることは簡単だったが、もちろん今は何もない。戦後オランダで買った本の中に何かあったと思うが、現在オランダ関係はコピーも含めてすでに名古屋大学図書館にある。その中にひとつ、オランダ人植民地官僚の自伝的著書があるはずで、それは報告書にマクス・ヴェーバーの理論を援用したために、マルクス主義者とされて左遷されたという人である。
インドネシア(インスリンデ)やフィリピンが植民群島であったのに対して、アフリカは植民大陸であった。北部の地中海沿岸にはアルジェリアのように近・現代思想史に場所をもっている国があるが(中世のアラビア文化は別として)、サハラ以南(サブ・サハラという)には、虐殺されたルムンバの先輩、後輩、裏切り者たちの政権ができたりつぶれたりしている。ぼくは南部アフリカ(南アフリカ共和国を含む)十八世紀学会の終身会員であり、その大会に二回出席したが、そこでの議論(たとえばバイロンの議会演説)とジンバブエやザンビアの恐るべき貧困とが、どうもチグハグなのである。そこに思想が成り立ち得るかと思いながら、手がかりになりそうな本を集めている。ヴィクトリア滝への道でリヴィングストン像の前を通ったとき、「帝国主義のパイオニアだよね」と若いガイドに言ったら、本当にうれしそうに笑った。観光客はそういうことを言わないらしい。
植民大陸といえばもうひとつ、中南米がある。ここには最近の大地震がなかったら忘れられたままだったかもしれない、フランス革命のときのハイチ共和国があり、ボリビア独立の英雄シモン・ボリーバルがあって、いずれもヨーロッパ啓蒙と無関係ではない。ポルトガルのブラジルヘの植民政策には、アダム・スミスも言及している。コールリジとサウジーは南アメリカに共産村をつくろうとしたし、そのまえに、ウルグァイにイエズス会の先駆者があった。ジョン.スチュアート・ミルとジャマイカ問題ということもあるのだが、資料収集の点ではボリーバルが面白そうだ。ただし主としてスペイン語である。スペイン本国は、イエズス会の創設者イグナティウス・デ・ロヨラを生んだ異端糾問の本拠であるが、ドン・キホーテの国でありゴヤの国でもあった。それよりもぼくにとっては、人民戦線と内戦(一九三六-三九)の国である。学生時代に、乏しい情報を頼りに関心をもち続けていたことは、何度か書いたから繰り返さない。国際旅団へのイギリス人参加者を中心にした川成洋の研究もある。ぼくの蔵書の中のスペイン内戦は、主としてイギリス人の回想記のほかにドイツとイタリアの介入を示す報告書として、後に連合国の委員会がドイツ外務省の文書を編集公刊した》Akten zur deutschen auswartigen Plitik 1918-1945 aus dem Archiv des deutschen ausgewartigen Amtes. Baden-Baden, Imprimerie Nationale, 1954. スペイン共和国政府が国内に潜入したイタリア部隊から押収したSpanish White Book. The Italian Invasion of Spain. Official documents & papers seized from Italian units in action at Guadlajara, Washington, Spanish Embassy, 1939 と、ソヴェートの介入を示すイングレゴール四年分である。イングレゴールというのはInternationalPress Correspondence で、簡単にいえば国際マスコミ情報という、コミンテルンの公表情報である。したがって内容は、スペインだけでなく全世界の事情への、コミンテルンの対応を示している。一九三二年には日本に関する三ニテーゼを掲載していたのだから、早く気がつけば入手できたはずである。この四年分を買ったのは、グレイ夫妻のハマースミス書店が、地下鉄のハマースミス駅前の、階段まで本を積み上げていた店から、駅前開発の保証金をもらって少し離れた倉庫に移ってしばらく営業していたあいだで、ロイ・パスカルのスコット歴史学派論を掲載したモダン・クォータリーをはじめとして、イギリス左翼の出版物をずいぶん買った。この本屋の存在を教えてくれたのは、スイスのピンクスのばあいと同じようにゾーン・レーテル(イギリス亡命者、のちにブレーメン大学教授)であったか、グラーズゴウのミークであったか、いまとなっては確かめようもない。スペイン内戦については、最後にひとつ追加したいものがある。それは国際旅団のイギリスからの募集の裏話である。著者はシャーロット・ホールデン、生物学者、題名は『真実は明らかになるだろう』、右翼図書クラブの出版。左翼の生物学者ジョン・ホールデンの妻かもしれない。
コミンテルンの第二回(一九二〇)、第三回(一九二一)大会のプロトコールと、第六回(一九二八)、第七回(一九三五)大会の活動報告がある。はじめのふたつはドイツ語だから、ピンクスで買ったのだろう。ただしハマースミスの可能性もあるし、戦後しばらく活発に出版と古書籍で活動したデン・ハーフ(ハーグ)のマルティヌス・ネイホフだったかもしれない。第七回は英語で、議事録要約のほかにディミトロフの報告(反ファシズム統一戦線論)などがあるが、後者はあとから集めたパンフレットをまとめて製本したものである。コミンテルン資料には村田陽一編訳『コミンテルン資料集』があり、そのなかのいわゆる三ニテーゼについては何度か言及した。ついでにソヴェート政府の三つの裁判記録をあげておこう。四冊全部英語で、一九三三年のイギリス人技術者にたいするサボタージュ裁判が二冊、一九三七年のラデック、ピャタコフ裁判と一九三八年のブハーリン、ルイコフ裁判がそれぞれ一冊である。八○○ページの裁判記録の最後で、ブハーリンが罪を認めつつ最後の抵抗をしているのは痛々しい。ボルシェビキ最高のインテリといわれていた人物である。
戦後の共産党史の中では東ドイツとチェコとハンガリーの異端糾問事件にわずかながら触れることになった。蔵書には直接に関係がないから簡単にしておくが、ドイツではクツィンスキーとハーリヒ、チェコではマツエック、ハンガリーではルカーチに関する問題である。ハンガリー事件をきっかけにしてイギリス共産党のなかで起こった、新左翼については、ちょうど発火点にいたのでUniversities & LeftReview と New Reasoner が簡単に手に入った。そのまえのガリ版刷りTheReasoner(J・サヴィルとE・P・トムスン編、一九五六)は二号と三号。さらに戦前のLeftReview(Jan.1936-may 1938)もある。これが一九三八年にTheModern Quarterlyに継承され、戦後にTheMarxistQuarterlyになった、ということだろう。The New LeftReviewとPast and Presentは、創刊号から全部揃っているはずである。ただし熱心な読者ではなかった。
今度こそこれでおしまいと思ったのだが、スカンディナヴィアがあった。近経の社会主義者ヴィクセルについて書いたのは、伊東光晴に教えられたからだが、デンマークのブランデスヘの関心は古い。戦前に春秋杜の世界大思想全集というインテリ失業救済出版みたいな企画があって、そのなかにブランデスの『十九世紀ヨーロッパ文芸思潮』の全訳がはいっていた。そのドイツとフランスのロマン主義を訳した吹田順助と内藤濯は、東京商大の教授であって必然的にぼくの恩師ということになる。吹田順助は予科の文芸部顧問であり、ぼくに「末次(海軍大将)が内相になったんだから気をつけてくれよ」といってから、「きみにファッショになれというんじゃないが」とつけくわえた。内藤濯は報国団とかいう学園新体制なるものができたときの教官側文化部理事で、学生理事のぼくに対して「水田君しっかりやりましょう」と手をさしだした(『ある精神の軌跡』)。
そういう関係から二人が翻訳したブランデスの著書に、多少は親近感が増したといえるかもしれないし、そういう教師たちをもったことは幸福だったとは思うが、もちろん実質はブランデスが呼びかけたスカンディナヴィア文学の社会的目覚めであり、主著にはそれがヨーロッパ十九世紀文学史として表現されていることになる。ぼくの蔵書の特徴は手紙全四巻(第四巻は分冊のままだが)が含まれていることである。これを手に入れたきっかけは、クヌート・スヴェンセンといったとおもう相手の名前さえ忘れそうな古い話だが、デンマーク共産党員の若い研究者から、経済学通史の国際書誌を作ることについて、協力を頼まれたことであった。日本には経済学史の独立の学会があるということを、どこかで聞きつけたのだろう。しばらく付き合っていたが、そのうちに彼がアフリカ問題に関心を持ち、現地に行くようになって、交際は途絶えた。以上
初出:『象』66号2010年春より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study338:101008〕
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