物は作ってきたけど
- 2013年 8月 10日
- 評論・紹介・意見
- 工業技術戦後社会藤澤 豊
百年ちょっと前に脱亜入欧、富国強兵の掛け声のもとに近代工業化、半世紀ちょっと前から追米で高度大衆消費時代の大量生産と大量消費。七十年代のオイルショックで省エネ化が始まって、八十年代半ばから身の程知らずのバブルで沸いたかと思ったら、その後は無策無能のデフレとグローバル化で価格崩壊と低下し続ける生活水準。ちょっと長いスパンでみれば、百年かけて生産性を上げることによって生活水準を上げてきた。生活水準や消費水準も上がって、何をもってして中流というかの定義はいい加減だが、一時は八割の人達が中流だと思う一億総中流にまでになった。世界第三位の経済規模の誇る国だが、その中身をちょっとみれば、物作りで成り上がったただの工業国にすぎない。それでも、世界中から高度成長を賞賛される先進工業国になった。なったまではいいのだが、そこまでしかなかった。グローバル化のなかで傷んで、寂しいことに、このままゆけば益々傷んでゆくようにしかみえない。
最新の生産技術を導入し、改良も追加開発もして工業製品の大量生産能力を構築してきた。あまりに駆け足で物の生産に集中したこともあってだろうが、その技術を生み出した科学的、社会的、文化的基盤創りにまでは手が回らなかった。好意的にみれば、回したかったが回す余裕がなかったのだろうという、言い訳がましい言い方もできるが。しかし、この二十年以上になる政治、経済政策の体たらく、社会を貧しくしてまで利益を追求してきた、あるいは貧しくすることによってのみしか利益を出し得なくなった企業経営を見ていると、とても好意的な考えには同意できない。
この百年、目に見える高度成長の可能とした、それを支えるものを創りだした社会や文化、また、その根底にある物の考え方、歴史観や社会観において何をしてきたのか?と一歩下がってみれば、そこには、非常に雑な言い方で恐縮だが、国をあげてあたかもノウハウ本をバイブルのようにした産業社会が、即使える技術をさっさと取り込み、運用してきて只々工業化してきた上滑りの様相しか見えない。まるで零細企業の社長(失礼)のように、即の結果を求めて、即使える小手先のテクニック、技術の上澄みを導入して、結果としての高度成長が転がってきたまでのことのように思える。こんな発言をすれば、高度成長を担って来られた方々から、俺たちは貧しさのなか、それこそ寝食忘れて、戦後日本を復興し、先進諸国の仲間入りを果たすまでに日本を経済的に成長させた。それを継続できない後進が何を言うかと、厳しいお叱りをうけるだろう。おっしゃる通り、しかし、その社会全体の上滑りとその延長線の今日をみると、その上滑りこそが人をして(当時も今も、多分これからも)物作りを可能とした技術や社会、その技術や社会を生み出した社会としてのありかた、その社会を構成するさまざまな人達の歴史や思想、文化を知らなければならないということに気づき難いようにしてきた。
面倒な科学的知見や工学理論などどうでもいい、即、簡単に使えて金になればいいという短絡的に即の利益を求めてきた貧しい心情のツケが回ってきたように思えてならない。工業化によって得られた物質的な豊かさに裏打ちされた社会が次の世代の教育体系をも奇形化してしまった。製造業の大量生産で成功を収めた画一化と機械化による生産性。。。が判断基準とされ、即戦力のある均一化した、使い易い人材の輩出が教育にも求められた。先代の上滑りによる成功を目の当たりにして成長した次の世代は、自らも上滑りすべく、与えられた課題を与えられたやり方で限られた時間内に上手に処理することを機械的に学んできた。
多少の改善があったにせよ、ちょっと大きな視点でみれば同じようなことを効率よく繰り返すことで駆け足で達成した工業化に過ぎない。成功した社会の確信に基づいた要請に従って、同じようなことを繰り返すことを学んだ人材が輩出されてきた。不幸にして同じようなことを繰り返すだけではかつて到達した生活水準も消費水準も保ち得なくなったところに次の世代がでてきた。答えのある課題に、上手な答えの出し方まで訓練された次の世代がいる。そこまで訓練されているがゆえに、これといった一義的な答えがない複雑な課題、それも答えの出し方なぞ事前に用意されているはずもない課題に対して、たとえ潜在的には解決能力を持っていたとしても、それを社会的に、あるいは意識的にまで不必要とした教育を受けてきた次の世代が力を発揮するはずがない。力を発揮する可能性のあるのは次の世代のなかでは教育体系の鋳型にはまり込め得なかった劣等生や異端になるだろう。
高度成長による工業化に成功し、その成功した社会の教育体系が実は次の世代の一部の能力-前の世代が欲した能力-を伸ばすことに終始し、次の世代が、今のこれからの時代が必要とする、社会を変えてゆく能力の芽を摘んできた。ここに高度成長が残した明と暗がある。高度成長による工業化は過去形だが、世代を超えた、将来を押しつぶしてきた教育による負の遺産は現在進行形の社会の奇形だ。
もっとも、千年単位のスパンでみれば、日本人は、いつもどこかで日本人ではない人達によって(ほぼ)つくりあげられた思想や社会体系から技術からなにからなにまでを成果物として採り入れて、使いやすいように使って結果を出し続けてきた調子のいいタマで、上滑りはこの百年や戦後に始まった訳じゃない。この上滑りの調子良さが人種的、文化的に日本人が誇りとすべきものだとは思いたくない。上滑りでこれるところまで来てしまった感がある今、もう、そろそろ、世界に歴史的に誇れる、なにかの成果を自分達で自分達のやり方や社会体制や文化で創りあげる時だ。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔opinion1400:130810〕
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