NHK記者の捜索情報漏洩の背景にあるもの -ジャーナリズムと記者像の変質-
- 2010年 10月 12日
- 評論・紹介・意見
- ジャーナリズム岩垂 弘捜索情報漏洩
驚いた。NHK記者が、大相撲の野球賭博問題で警視庁が家宅捜索に乗り出すとの情報を、日本相撲協会の関係者に携帯電話からメールで送っていたという事件にである。この事件には、たまたまNHKに取材のルールや記者としてのモラルを知らない記者がいたということではすまされない深刻な事態が内包されているように思えてならない。つまり、ジャーナリズム界内に進行していた、ジャーナリズム界をゆるがしかねない事態が顕在化したと言えるのではないか。
報道によれば、NHK報道局スポーツ部の30代の記者が7月6日に東京の国技館で取材中に他社の記者から「明日、相撲協会に対し警察の捜査が行われるようだ」という話を聞いた。記者は旧知の親方電話をかけたがつながらなかったため、「明日、賭博関連で警察の捜索が入るようです。既に知っていたらすいません。ガセ情報だったらすいません。他言無用でお願いします。NHKから聞いたことがばれたら大変なことになりますから」とのメールを携帯電話で送った。その親方は賭博に関与したとして捜査対象となっていて、7日、部屋が捜索を受けた。
警視庁は記者の行為が証拠隠滅の幇助や犯人隠避、偽計業務妨害に当たらないか調べているが、記者はメールを送った理由について「賭博問題が大きくなって取材ができなくなっており、なんとか連絡をとりたいという意識だった」「他社から聞いた不確かかな情報だから伝えても構わないと思った。関係づくりに生かそうと思った」と話しているという。また、NHKの内部調査に「メールを送った相手側から家宅捜索の情報がとれれば手柄になるかもと考えた」と話している、と新聞は伝えている。
私は1950年代の末期から1990年代の半ばまで37年間にわたって全国紙の記者したが、入社すると、先輩記者から、さまざまな機会に仕事を通じて新聞記者のあり方についてたたき込まれた。つまり、新米記者は先輩記者の指導で取材のルール、記者としてのモラルを身につけていったのだった。
先輩に教えられた取材のルール、記者としてのモラルは沢山あったが、突きつめれば次の3点だったように思う。①正確な記事を書け(絶対にウソを書いてはいけない。そのために確認、確認、また確認を)、②ニュースソースは秘匿せよ、③タダ酒は飲むな。
②の点では、先輩記者はよく朝日新聞記者の証言拒否事件(1949年)を引き合いに出して「罪人になってもニュースソースを秘匿しなくてはいけない」と強調したものだ。これは、税務署員の汚職事件を報道した朝日新聞松本支局員が捜査当局に「ニュース源秘匿は新聞記者の不文律」と証言を拒否したため証言拒否罪として起訴され、最高裁で有罪が確定した事件だ。
こんどのNHK記者の場合は、他社の記者から得た警察の捜査に関する情報を、こともあろうに警察の捜査対象になっていた親方に伝えたというのだからあきれる。こんなケースは、私が先輩からたたき込まれていた「記者がやってはいけないこと」には入ってはいなかった。私が働いていた時代のジャーナリズム界では、そんなことは想定外であったのだ。いかに異常なケースかが分かろうというものである。
なぜ、こんなことが起きたのか。何人かの知り合いのジャーナリスト(元新聞記者、元放送記者)と意見を交換してみたが、そのうちの1人の意見に共感した。それは「事件の背景には、新聞記者、放送記者の質が以前と変わってしまったという現象があるのでははないか」という指摘だった。
彼によれば、以前は、ジャーナリズム界を志す若者には、それなりの動機があったという。例えば「社会正義実現のために働きたい。それには新聞記者が向いているのでは」とか、「日本をもっと公正な社会にしたいからジャーナリズムの世界で働きたい」とか、「平和な社会を実現するために力を尽くすジャーナリストになりたい」などといったものだった。新聞社が世間から「社会の木鐸」と見られていたからだろう。「木鐸」とは「世人を覚醒させ、また、教え導く人」のことである(広辞苑)。
私が新聞記者になったころは、まだこの言葉に生命があった。取材先の人々から、よく「新聞は社会の木鐸なんだから」と聞かされた。これは、新聞に対する期待の言葉なんだと、当時思ったものだ。だから、そのたびに、自分も「社会の木鐸」の末端につながるための努力をせねば、と自分に言い聞かせた(もっとも、結局、「社会の木鐸」の足元にも近づけなかったが)。
しかし、知り合いのジャーナリストによれば、わが国のジャーナリズムはその後、経済の高度成長につれて肥大化し、それとともに「マスコミ」に変容していったという。それは、ジャーナリズムから情報産業への変質だったという。それにともない、「社会の木鐸」も死語になった。
それと同時にマスコミを目指す若者の意識も変わった。新聞社・放送会社を受けると同時に銀行、商社、航空会社、メーカー、公務員なども受ける。そして、受かったところに就職する。「どうしてもジャーナリストになりたい」とジャーナリズム界への就職にこだわる若者は減り、若者にとってマスコミは就活の選択肢の一つにすぎなくなった。要するに、ジャーナリストの仕事、かつてのジャーナリズムがもっていた世界観、価値観、思想にあこがれてマスコミを受験する若者は極めて少なくなったというのである。これでは、マスコミに入社しても、取材のルール、記者としてのモラルに無頓着な記者が出てきても不思議でない。
それに、こんどの事件に関する報道を読んで痛感するのは、いかにも今ふうの事件だなあ、ということだ。捜査情報を相手に伝えるのに携帯電話のメールを使っていたからだ。昔だったら、もし秘密事項を他人に伝えたかったら、相手に直接会って口頭で伝えるか、電話で伝えるしかなかった。携帯電話などまだなかったからである。今回は、携帯電話でメールを送ったことから、相手方の携帯電話にそれが残っていて、事件が明るみに出た。
私など、インターネットによるやりとりは誰かに読まれているのではないかとの疑念がつきまとうから、他人に知られたくないことをネットで送るようなことはしない。NHK記者は、メールによる連絡にこうした警戒心を抱かなかったのだろうか。この面でもNHK記者は、なんとも不用意だった。
それにしても、マスコミはこの事件をどう受け止めているのだろうか。マスコミ自身が生み出した事態と真剣に受け止めているだろうか。いずれにせよ、記者採用や記者教育のあり方について再検討を迫られるのではないか。
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