評論 静かな戦争批判
- 2013年 9月 2日
- 評論・紹介・意見
- 宮内広利戦争柳田國男
柳田國男は遠い先祖の霊を繋ぐには水と米が絆だったという。だから若水迎えに該当する儀式が魂祭りに付随していた。彼はそれを先祖の霊と呼び、その霊は稲作の霊と深く結びついていた。ひとは亡くなってから33年目、あるいは50年目の法事を終えて亡霊が神になると信じられた。柳田によると盆と正月の魂祭は、みたまを祭るという意味で、常民の無意識の伝承としてもともとは同じものであった。さらに、死の世界と現世の距離が近かったことを説くために、霊魂の生まれ変わりという信仰に着目している。霊が賽の川原を越え山の神にならぬ前に転生ということが信じられ、その行先も先祖の生まれ変わりとか極めて近親のものに多かったとされている。
ひとびとにとって黄泉の世界は、死の親しさといっしょにやってきたが、柳田が理由としてあげているのは4点である。①死んでも霊は遠い所に行かないこと②あの世とこの世は交通が自由で単に春秋の定期の祭だけではなく、一方の希望によって招き招かれることが困難でないとおもっていたこと③死のうとするときの念願が死後には達成するとおもっていたこと④死んでも、再び、三度四度生まれ代わって同じ事業を続けられるとおもっていたことである。こういう死が親しさをもつためには、ひとびとの死後の行く先が静かで清らかな、この世とはかけ離れた場所でなければならなかった。村から遠望される峰の頂から盆前になると道を刈り払うとか、川上の山から盆花を採ってくるような風習がおのずとその場所を示した。その途中には、あの世に行く道を示すようにさいの川原やでんでら野と呼ばれる場所があった。霊山の崇拝や卯月八日の山登りの風習は仏教の伝来よりも早かった。主人が馬でまたは背負って口寄せの巫女の口を借りて魂迎え、魂送りをするのも、この山の神と神霊への崇拝があったからだ。田植えの日、田人、早乙女たちが振り仰いで礼賛する歌を歌うのもこの峰々に対してであった。春は降り、冬には帰ってくる稲作の神が、この遠い昔の共同の先祖であって、その神がたえず村を見守り守護したのである。
柳田は先祖の霊を祭るという考え方が、常民の「家」の骨格をなしているとみなした。「家」は遠い先祖の霊が立ち帰ってその永続性を保障し、幽かな「神ながらの道」の指し示す精神的支柱のようなものだった。「家」の先祖の霊はこの国土にとどまり、子孫に対して目に見えない力となり威令をもった。とりわけ、戦時下において「死」は近くにあるもので、決して永遠の別れではないという思想が、生きている者や戦争で死にゆく者にとってどれほどの励ましになるかしれなかった。
しかし、このような先祖の霊によってつながる「家」の思想の強調は、戦時下の国家制度の枠組みの中では、事大主義と受け取られたのはやむをえなかった。後藤総一郎は、いわゆる人間本来の自然感情にもとづく「家」が、明治国家の課題であったネーションの形成にとっては、家父長的な権威主義性格とあわせてナショナリズムの培養器の中で重要な酵母になったと指摘している。郷土感情の根である「家」が権力支配の単位として組織され、ナショナリズムの核心として吸収されることで戦争目的に利用された。「家」の思想は、戦時下において「家族国家」イデオロギーとなって天皇制国家体制を支えることになったのである。しかも、その「家」に対する認識の度合いは、かつての「常民」の家が政治的に閉ざされていたとして、人間本来の自然感情と精神のみずみずしさが溢れていたとみなすかどうかの判断材料にされたのである。その種の反転したものの考え方がでてくることにより、その時柳田が、政治イデオロギーとしての「家」の思想に最も近接した地点にいたという批判に繋がったのは事実である。
柳田の「家」へのおもいを観念論と片づけ批判するのは容易だが、そうすることで「家」を離れ国に奉公してくるといいながら出征する兵士の心を満たせるとはとうていおもえない。逆に、わたしはこういう「常民」の「家」に対する心の振幅にまで立ち入ることにおいてよりほかに、戦前、戦中の『近代の超克』グループなどが唱えたナショナリズムの神話を崩せないとおもう。それに対して外来の西欧哲学の中に紛れ込んで、わが国の「家」を中心とする思想を独特のアジア的迷妄と批判するだけであれば、思想の内在性を最初から放棄しているにすぎないからだ。たとえば、丸山真男は、自分の書いた書物の中にしかない西欧の近代像を鏡にして、近代国家の形成過程におけるナショナリズムには、健全なナショナリズムと不健全なナショナリズムのふた色の区別があるというような論理を紡ぎだした。おそらく、この健全さと不健全さの区別を支えているのは、敗戦を悲哀や落胆とうけとめながらも、これから世の中がどうなるかわからない不安とともに、一方で戦争はもうこりごりだという安堵感を感じた多くの大衆の心情とは異なり、敗戦をただ解放とのみ感じた一部の知識人や政党の心の中に拠り所をもっていた。そういう近代主義的なものの考え方では、保田与重郎ら日本ロマン派グループが転向して、マルクス主義から古典世界もしくは農本的な「神ながらの道」に回帰する行方を十分追跡することができなかったのである。そればかりか、わが国のいつの時代の危機意識においても担ぎ出される可能性のある天皇制のありかを追及することができないのである。
廣松渉は、日本ロマン派はプロレタリア文学運動の挫折の落とし子であったとして、彼らは権力の弾圧によって転向を余儀なくされたが、かつて信じたマルクス主義は近代西欧思想の最高峰であったから、それを失ったことによる負い目と自嘲が重なって、既成の西欧近代文明全体を否定し、東洋的な知へ転向することが不可避であったかのように解釈した。それは満州事変や満州国の成立という歴史的状況を契機にして、保田のように文明開化の論理の全否定にまで突き進むことが多かったことを引き合いに出して批判したものである。彼らは満州国建国の理念に込められた新しい世界観の出現に純粋国家の夢を描いたのだが、やがて現実の満州国自体、標榜された理念の実現ではなかったことに気づくことになる。このようなマルクス主義や満州国の理念を経由して二重、三重もの挫折が心の屈折をもたらし、デスパレートな心情を形づくり、西欧的近代に対する否認が逆説的な過激ロマン主義に拍車をかけた。そして、近代文明の「没落への情熱」がイデーになり、「イロニーとしての日本」が現状認識を支えたといわれている。こうしてデスパレートな現実否定の彼方に、日本人の心の故郷と信じた日本的美意識が見出されることになる。
確かに、保田の古典世界や日本的美意識への回帰は生い立ちから資質や素養に応じた必然性の過程のようにみることができる。しかも、それは目鼻のはっきりしないまま当時流行っていた「日本精神」と呼ばれる漠然としたナショナリズムへの迎合ではなく、初期古代王権にまで遡ることができる政治的な色合いをもっており、農本主義的神政思想に落ち着いたといえる。これを廣松は、保田が自身の心情の出自を十分対象化することができないで、とどのつまりデスパレートな居直りの域をでなかったと揶揄している。つまり、「文士や評論家の近代超克論などというのは所詮はそのような程度のもの」と読み取ったのである。しかし、保田自身が対象化できなかったばかりではない。廣松にも、なぜ、保田らがデスパレートな心情から文筆上の戦死ではなく、わざわざ日本人の故郷と出自までの回帰を選ばなければならなかったか、そのメカニズムを理解できていないのである。その理解には、柳田の考察した一回性としての戦争の谷間には、先祖からひとびとの心の中に長く住み着いた「家」の思想という考え方が、不可避に近代世界に当面しなければならなかった際、「家」と近代世界の両方から圧力を受けて、日本的美意識というヌエ的表情をまとわざるをえない理由に対する考察が不可欠であったからである。
この点について橋川文三は、日本ロマン派の主張には北一輝にみられるように、明治以降のわが国の文明化に反抗する革命思想が潜在的に内包されており、それがあるときにはマルクス主義と野合したが、やがて、資本主義の大規模な浸透にともになって文学的、主情的な非政治的(ロマン的)形象をとってあらわれたと指摘した。しかも、保田の思想に象徴されているのは、革命運動の裏面に随伴した形をとりながら、その政治性を骨抜きにして組み替え、主情的に古代思想に一足飛びに移入する一連の心理的メカニズムを認めたのである。そのメカニズムをとおして現実の革命運動と似かよった過激な反帝国主義的なイデオロギーを結晶させたのである。そこには底知れぬニヒリズムのようなものが介在したとおもえる。つまり、現実の革命運動から痛手を受け、絶望の中でその運動の不可能性を認めざるを得なくなった時点で、何も信じられない心情それ自体を逆手にとって、政治から疎外されることを承知の上で、現実と革命の隙間を埋めるように凝縮した日本的美意識の心情を吹き込んだのである。これはわが国の近代化につきまとう復古と維新、攘夷と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という対抗軸の同時性が問題になるときに不可避に当面する現実であり、わたしたちが理想と現実の落差として意識したときにいつも疎外する危機意識の正確な反映にほかならなかった。その理想と現実の隙間にヌエ的な住処をみつけたという意味では、保田はその時代によってシャーマン的な役回りに押し上げられたとみなしてもよい。
「経世済民の科学」を求めた柳田の場合、このような主情的な革命思想とは無縁だったが、戦争の現実に対して疑いをもったということであれば、むしろ、柳田が戦前、戦中をつうじて目の前で戦争に翻弄されている「家」の現実と、先祖から続く「家」の思想のはざまで寂寞感をかこったところにこそ、ほんとうの意義があった。なぜなら、柳田の常民概念は、もともと「疑い」を持つものと持たないもの、いいかえれば、「見る人」と「見られる人」の矛盾がなくなる将来に照らしてこそ現実的な力をもつと考えられたからだ。そのことで柳田にとって過去に振りむくべきものの裏側に、同時に、たどりつくべき理念としての常民性が貼りついていたのである。しかし、今のところ「見られる人」は「見る人」にはなれないで、民俗学の対象にすぎない。だが、民俗学のより深い浸透と発展によって、いずれ「見られる人」は同時に「見る人」になりうる。そういう「価値」意識が背景になければ、「見られる人」としての常民概念は柳田の中には成立しなかったのである。
それは「見る人」と「見られる人」の間を往復する柳田の心中のドラマにほかならないが、戦争することが当たり前の時代に、つとめて戦争に対して無関心を装った姿勢が、その「価値」意識の方向を指すとするなら、それは評価されるべきものであった。ここでいう戦争するのが当たり前の時代とは、わが国は明治維新以後、日清、日露の戦争を経て、絶えず、東アジアにおいて戦争を仕掛けてきた。「富国強兵」の国家目標を掲げ、戦争をつうじて領土を拡張することを前提において、政治、産業、教育、文化すべてが組織されてきたのである。国民は小学校の6年間に教育勅語を教えられ、男子は20歳になると2年間の徴兵制度の中で軍人勅語を暗誦させられた。その勅語だけが宗教上、道徳上、政治上の価値を示し、それは条件反射のようにひとびとの身振りや行動にあらわれ、言葉も勅語の組み合わせだけから構成され、同じ意味を反復するようになっていった。
こうして準戦時体制、戦時体制と次第に戦争へと傾斜していく政治は、わが国の発展のためには戦争が必要だというような言辞を弄して、国民を駆り立てたのである。昭和に入ると15年戦争といわれるように日中戦争からノモンハン事件、日独伊三国同盟、仏印進駐と矢継ぎ早に進み、新体制運動の名のもとに国家総動員法ができて、大政翼賛会が組織され、言論、思想統制が進んでいく。たとえ生活が逼迫していても国体論を信じた多くの「見られる人」である国民は、経済封鎖を目論むABCD包囲網に憤激し、大東亜戦争に突き進む勢いに疑いをもつどころか、愛国的民族主義にとらわれたまま、前のめりになって米英との戦争を積極的に支持し、戦時体制を当たり前のように受け止めていったのである。
ある程度西欧化していた高等教育を受けたインテリはともかく、一般の大衆はうまれたときから国体教育を信じて育った。それら農民、都市庶民階層は、市民的自由のない状況と経済生活の窮迫がかさなることで、指導者たちの宣伝のまま大陸や南方へ活路をみいだすことに心理的代償を見いだし、やがて総動員体制の中、世界でも類例をみない戦時の精神的団結をうみだしたあと、「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉どおり玉砕の思想にまでたどりついたのである。このような時勢において柳田の戦争への対峙の仕方は、戦争でもなく国家でもない民俗思想の在処を支えていたといえる。そこには、人間の過去から現在と将来に伸びる「価値」は、決して一回性としての戦争や国家の変遷をどう意味づけるかということによって覆されることはないという決意のようなものを読みとることができる。大切なのは戦争なのか、それとも「価値」としての人間のありようなのか、そういう選択の仕方が柳田の方法には存在するようにおもえる。
当時は「見られる人」は現実的に生き死んでいく一方で、「見る人」の思想は、支配の学として、戦争のための思想や思想のための戦争の論理である「思想としての戦争」に吸収されていくのはまちがいなかった。そんな中、「見る人」と「見られる人」の間に一本の橋をかけることこそが学問ではないのかという柳田の抱いた寂寥感こそが貴重なのである。この向かっていく時間に対する理念がなければ、柳田は、おそらく書き物としての資料の過重さや、文字のあるところでないと歴史はないかのように考える従来の歴史学を超えることはできなかった。柳田が、「見る人」という自覚に、まやかしとうしろめたさを感じたことが、ほんとうの近代の自意識の始まりであり、それをどう始末したかという経路こそがおのずと民俗思想の可能性を開くものだった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔opinion1436:130902〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。