期待はずれの凡作 -話題の映画『風立ちぬ』を観る-
- 2013年 10月 11日
- 評論・紹介・意見
- 宮崎駿岩垂 弘映画『風立ちぬ』
映画界の今夏の最大ヒット作は、宮崎駿監督作品『風立ちぬ』だった。7月20日に全国で封切られたが、まだ上映が続いている。9月半ばまでの観客数は800万人と報道されており、観客動員数はまだ伸びそうだ。私もこのアニメーションを観に映画館へ出かけたが、期待が大きすぎたせいだろうか、宮崎駿監督の引退作品にしては感銘薄い凡作、という印象を禁じ得なかった。
『風立ちぬ』は旧日本軍(海軍)の戦闘機「ゼロ戦(零式戦闘機)」を設計した堀越二郎(1903~1982年)の青春をフィクションを交えて描いた作品である。映画は、少年時代から「美しい飛行機」にあこがれる堀越二郎が三菱内燃機(三菱重工の前身)に入り、戦闘機の設計に打ち込む日々と、重い病を抱えた女性・菜穂子との出会いと別れを描く。2人の恋と別離は作家・堀辰雄の代表作で映画にもなった「風立ちぬ」のプロットを借りたものだ。
この作品に対する私の期待は大きかった。なぜなら、私は宮崎駿監督のファンで、これまで、その作品のほとんどを観てきたからである。「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」……どれも傑作というにふさわしく、中でも一番好きな作品は「となりのトトロ」だ。だから、『風立ちぬ』にも胸を膨らませていたわけである。
この映画に期待していた理由は、まだある。作品の主人公が堀越二郎だったからだ。私は1950年代に早稲田大学に在学し、学部の学生自治会委員(語学クラス選出の委員)を務めたが、他の学部の自治会委員に堀越性の女子学生がいた。自治会の先輩から「ゼロ戦の設計者の娘さんだ」と知らされ、日中戦争から太平洋戦争にかけて日本海軍が誇ったゼロ戦の設計者が堀越二郎という航空技術者であったことを知った。1978年に吉村昭著の「零式戦闘機」(新潮文庫)が発売されると、私はむさぼるように読んだ。もちろん、この中に堀越二郎が中心的な人物として登場する。
そんなことがあったものだから、堀越二郎が『風立ちぬ』の中でどう描かれているかと興味津々だったわけである。
で、『風立ちぬ』を観ての感想だが、私のそれを述べる前に、私の知り合いの3人の女性の感想を紹介しよう。「映画、どうでしたか」という私の問いに、1人は「そうねえ」と言って目を天空に向けてしばらく考え込んだ後、「とても美しい画面だったけれど、何を言いたいのかはっきりしなかったわね」と言った。もう1人は、すかさずこう言った。「あまりにもたくさんのことを盛り込もうとして、結局、何を言いたいのか分からなかったわね。ナチス・ドイツを批判する外国人が登場するが、どういう人物かよく分からなかった。ゾルゲがモデルなんでしょうか」。最後の1人は映像作家で「つまらなかったわね」の一言。
私の感想は「退屈な作品だな」だった。上映時間は1時間26分と比較的短いが、私には後半がとくに退屈に感じられ、「まだ終わらないのかな」と暗闇の中で腕時計を見たほどだ。
そう感じた理由は、まず、彼女らが言うように「何を言いたいのはっきりしない」からだった。つまり、作品の主題が希薄で、観客をぐいぐい引きつけるインパクトに欠けているように思われた。
宮崎監督のこれまでの作品、とりわけ初期のそれはいずれも主題が明確で、極めてメッセージ性が強かった。例えば、「風の谷のナウシカ」は人類と自然の共生を訴えた作品だし、「となりのトトロ」は自然との共生のほか、家族愛の大切さを訴えた作品だった。「魔女の宅急便」には、人間、ひたむきに努力すれば願いはいつかかなえられるというメッセージが込められていた。だから、これらの作品が多くの人々の心をとらえたのだと私は思う。しかし、こんどの『風立ちぬ』には強烈なメッセージを感ずることができなかった。
映画『風立ちぬ』の主題は何か。映画を観た後、たまたま目にした読売生活情報誌『リエール』の2013年8月号が、この映画のプロデューサーであるスタジオブリの鈴木敏夫氏に製作秘話を語らせていた。インタビュアは読売新聞東京本社文化部・近藤孝記者。その中で、近藤記者は、鈴木氏がこの作品に最も込めたかったのは「目の前にあることを一生懸命やるしかないじゃないか」というメッセージではないか、と迫り、鈴木氏から次のような発言を引き出している。
「大正から昭和にかけての日本は不景気と貧乏、大震災と、生きるのにつらい時代だった。それは、今という時代にもかぶってくる。そんなときには、うまくいかないことも多いけど、いろいろなことをやっていく中で、少しはいいことがあるかもしれない。そういうことを支えに人は生きていくんじゃないかなと思うんです」
どうやら、制作者がこの映画に込めた訴えは、こういうことだったようだ。――いつの時代もさまざまな苦難が襲ってくる、でも、くじけず、目の前にあることを一生懸命やってゆこう。この映画の宣伝コピーは「生きねば。」。鈴木氏の発言を読んで、私は「なるほど、そういうことを言いたかったのか」と納得した。が、あまりにもエピソードを詰め込みすぎたせいか、あるいは、主人公の描き方に問題があるのか、それとも、こちら側の理解力不足からか、とにかく、映画館内では制作者の意図がこちらにすんなりと伝わってこなかった。
退屈に感じた理由はまだある。それは、私が知りたいと思っていた肝心なことが抜け落ちた作品だったからだ。
人間、だれしも夢がある。その夢の実現のためにすべてを賭ける。その時、その夢が、最新鋭の旅客機や、客船、鉄道機関車、乗用車など民生の交通手段を造ることであったら、それは、だれからも歓迎される営為だろう。が、己の人生を賭けて造ったものが兵器に転用されるとしたら、どう考えたらいいんだろう。やはり、讃えられる営為なんだろうか。
ましてゼロ戦の場合は、日本海軍が総力を結集して開発した、当時としては世界で一番速く、航続距離も長い最精鋭の艦上戦闘機で、空中作戦に革命をもたらした飛行機とされている。日中戦争中の1940年には中国・重慶攻撃に使用された。太平洋戦争では、1941年12月8日の真珠湾攻撃に参加したのをはじめ、大戦初期は米英の戦闘機に圧勝して、日本が太平洋で占領地域を拡大するのに寄与した。敗色が濃くなった大戦末期には、戦死前提の特攻(特別攻撃隊)に使用された。ゼロ戦による内外の犠牲者はおびただしい数にのぼったとみていいだろう。
こうしたゼロ戦にまつわる戦史を顧みると、設計者・堀越二郎がこうした事実についてどんな感慨をもっていたかを知りたくなるというものだ。自分が設計したゼロ戦に乗った若者たちが戦死していった。美しい飛行機を造りたいという設計者としての純粋な思いと、自ら望んだものではないにしても、もたらされた結果の重さ。その落差に悩むことはなかっただろうか。若者たちの死に心痛むことはなかっただろうか。戦前、戦中、戦後を生きてきた世代の者としては、ゼロ戦が果たした役割について彼がどう思い、感じていたかをぜひ知ってみたい、と以前から思ってきた。
しかし、映画の中の堀越二郎は、終始、戦争について語らない。ゼロ戦開発がもたらした結果についても言及しない。映画の終わり近くに、「一機も戻ってこなかった」という意味の短いモノローグがあるだけだ。
堀越二郎は戦後まで生きたが、ゼロ戦がもたらした事象について語ることはなかったと言われている。だから、彼の実像に即して映画の中の堀越にも戦争について語らせなかったのだろうか。それとも「戦争中は、日本国民の大半は国策の歯車に過ぎなかったわけだから、ゼロ戦設計者に“結果責任”を問うのは酷」という思いが、制作者にあったのだろうか。
いずれにしても、「戦争と深い関わりがあった実在の人物をモデルにした青春ストーリーにしては、画竜点睛を欠く描き方ではないか」。そんな“消化不良感”が、私の中に残った。
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